甦る妻

星 陽月

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【チャプター 53】

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 ――突然闇が落ちていた。

 何とあっけないことだろうか。
 妻との幸福だった日々は、こんなものだったのか。
 次の瞬間、中沢はその闇の中にいた。
 眼を開けても闇はそこにあった。
 身体が自由に動かない。
 それは手や足も同じで、指先だけがわずかに動くだけだ。
 そして息苦しい。
 顔を薄布のようなものに被われているようで、呼吸をするのがままならなかった。どうやら全身をシーツで包みこまれ、その表面を何かで巻かれているようだった。
 背にかすかな振動がつたわってくる。
 ときにその振動は上下に強く揺れたりした。
 それによって、いまいる場所が移動しているのがわかった。

(ここは車の中なのか。僕はどこかへ運ばれているのか)

 中沢は身体をばたつかせて、声を出す。

「おい! 僕をどこへ連れていくつもりだ!」

 だがそれは、声にならなかった。
 中沢の口は粘着質なもので塞がれていた。

(クソッ、いったいどうなってる!)

 そのとき、ほんのわずかだが人の声が聴こえた。
 中沢は耳をすませた。
 それは聞き覚えのある声。
 妻の声だった。

「礼子、そこにいるのか。礼子!」

 しかし、やはりそれは声にならない。
 礼子は何か話している。
 とはいえ、声がくぐもっていて何を言っているのかわからない。
 そして、礼子のその声に応える男の声が交じる。
 そこで中沢は思い出した。
 それは夢だ。
 正確には、この醒めることのない夢の中で観た夢である。
 中沢はその夢の中で、いまの状態とまったくおなじ状況下にあった。

(なんだ、僕はまた夢を観ているのか!)

 中沢は何とか身体を拘束しているものから逃れることはできないかと、また全身をばたつかせた。
 だが、身体をどんなに動かそうと試みても、拘束はまったく緩みもしなかった。
 中沢はあきらめて、この先の事の成り行きを待つことにした。
 しばらくすると、背につたわってくる振動が小刻みに揺れるようになり、そしてまたしばらくすると、車は停車した。
 車のドアが開く。
 閉まる音が二度。
 そして、トランクが開かれる音がした。
 中沢はトランクの中に入れられていた。
 足と二の腕を掴まれる感触があって、身体がふいに浮き上がるのを感じた。
 枯れ枝や枯葉を踏む音がする。
 どこか山林の中へと運ばれているらしい。

「この辺でいいわ」

 礼子の声が聴こえ、中沢は地に下ろされた。

「礼子さァん、美味いものを食べさせすぎじゃないですかァ? この人、見た目よりも重いですよォ」

 男の声が聴こえた。
 その間延びした話し方には聞き覚えがある。
 そしてその声にも。

(前島、まさかおまえが……)

 その男は、中沢の勤務していた会社の後輩、前島だった。

(おまえが、礼子の浮気相手だったのか!)

 怒りがふつふつと胸の奥底から湧き上がった。

「確かにそうね。解雇されるって知ってたら、贅沢なんかさせなかったわ。お陰で退職金もほんのわずかだったわ」
「だけどさ、これでやっと、礼子さんと一緒になれるじゃないですかァ」

 前島が礼子に近づく。
 ふたりが口づけを交わすのがわかる。

「やめろ! やめろ、やめろ、やめろーッ!」

 口を塞がれているためにそれは言葉にならず、唸り声にしかならなかった。

「あらら? 礼子さん。この人、眼を醒ましちゃいましたよ。薬が足らなかったんじゃないですかァ」
「そんなことないわよ。目醒めることなく確実に死ぬって言ってたもの」 
「だったらこの人は、ゴリラ並ってことですか? でも、こんなときのことを想定して、僕はちゃんと用意してきているんですよ」

 前島は車まで行くと後部ドアを開け、リアシートに置いてあるバックから何かを取り出してもどってきた。

「それってサバイバルナイフじゃないの? あなた危ない人ね。そんな危険なものをいつも持ち歩いてるの?」
「ふだんから持ち歩いているわけないじゃないですかァ。そんなことしたら、銃刀法違反で捕まっちゃいますよォ。だから言ったでしょ? 用意してきたって。これって、抜群に切れるんですよォ」

 そう言うと前島は、笑みを浮かべながら中沢に馬乗りになり、彼の顔の部分を被ったシーツをナイフで切り裂いた。
 前島の笑っている顔が見えた。

「先輩、あなたが悪いんですよォ。眼を醒ましたりしなければ、痛い思いをせずに楽に死ねたのにィ」

 中沢は前島の下でもがいた。

「ねえ、それで刺すつもり?」

 礼子が言う。
 その声はわずかにうわずっていた。

「あれ? 怖気づいちゃたんですかァ」
「そうじゃないけど、血を見るのが嫌なだけよ。このまま生き埋めにすればいいじゃない」
「ダメですよ、そんなのはァ。万が一ってことがあるんですから、ちゃんと息の根は止めておかないとォ」
「でも……」
「血を見るのが恐いなら、穴を掘っていてくださいよ。トランクの奥にシャベルが2本ありますから」

 礼子は言われるまま車に向かった。

「先輩、なるべく痛みを感じないで死ねるように心がけますけど、痛かったら許してくださいね」
「うーッ、うーッ」

 中沢は何か言おうとしている。
 だが、塞がれた口では言葉にならない。

「え? なにを言っているかさっぱりですよォ。あ、そうか、礼子さんのことが心配なんですね。それなら、心配は無用ですよ。僕に任せておいてください。幸せにしますから。先輩の退職金を使い果たすまでは、ですけどね」

 前島はサバイバルナイフのサックを外した。

「先輩、さよならです」

 前島は笑みを浮かべながら、中沢に向かってナイフを突き下ろしていく。
 鋭利なナイフの先端は、滑るように中沢の喉深くに入りこんでいった。
 と、そこでまた闇が落ちた。
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