蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

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【第13話】

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 斎場には、葬儀に参列する人たちが次々に訪れてくる。
 生前の死者に対する想いが、しめやかに歩く参列者の足取りにはある。
 その中に、奥寺紀子の姿があった。
 斎場の入り口の〈田嶋正吉 告別式〉と掲げられた文字を眼にしたとたん、紀子の胸にこみ上げてくるものがあった。
 
 あのとき、救急車の到着がもう少し早かったら――

 紀子には、そんな悔いともいえる思いがある。
 紀子の腕の中で気を失った田嶋正吉を抱きかかえながら、救急車が早く来てくれることを祈る思いで待った。
 やがて救急車のサイレンの音が耳に届いてきて、だがその音は小さく、紀子の思いを弄ぶかのように、中々近づいてはこなかった。

「だれか、車で病院に連れていったほうが早いんじゃないか」

 そういう声が、人だかりの中から聴こえてきたが、実際にそれを行動に移す人はいなかった。とはいえ、公園にわざわざ車で来ているわけもない。
 紀子には、ただ待つ意外になかった。
 救急車が到着し、救急隊員が駆けつけてくるまでに、いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか。

(こんなに遅くちゃ、救急車の意味がないじゃない!)

 そう言ってやりたいのを抑えて、

「この方とのご関係は?」

 そう訊いてくる救急隊員に、

「孫です」

 とっさに紀子はそう答えていた。
 タンカに載せられた正吉につき添って救急車に同乗し、

「声をかけつづけてあげてください」

 そう言われるままに、紀子は正吉の手を取り、名を呼んだ。
 孫だと言いながら、名で呼びかける紀子に、救急隊員はべつだん訝る様子もなかった。

「正吉さん、すぐに病院だからね。大丈夫よ、もうすぐだから」

 紀子は必死に励ましつづけた。
 だが、その励ましも虚しく、正吉は病院へ着く前に息を引き取っていたのだった。
 死因は心筋梗塞だった。
 初めて会ったその日に、まさかその人の死を看取るなど、いまだに信じられない思いだった。
 紀子は香典を納め、遺族の前で深く頭を下げた。

「これは奥寺さん。本日は誠にありがとうございます」

 そう言って頭を下げたのは、正吉の息子、田嶋正則だった。

「あなたには、なんとお礼を言ったらいいのか。見ず知らずの私の父に、病院までつき添っていただきまして。落ち着きましたら、改めてお礼に伺います」
「そんな、とんでもない。お礼には及びません」
「いえいえ、そんな訳にはいきません。あなたは父を看取ってくれた方なんですから。しかし、あなたのようなきれいな方に看取られて、父もさぞ歓んでいることでしょう」

 笑みを向ける正則に、紀子は愛想笑いを浮かべた。

(なにを言っているのよコイツ。本来、父親の最期を看取るのは息子のアンタでしょうが。だいたい、父親を養護施設なんかに入居させることがおかしいのよ……。やだ、アンタがきれいな方なんて言うから、奥さん、私のこと睨んでるじゃない。でも、わかってるじゃないの。「きれい」なんて簡単に言えるところは、きっと父親譲りなのかもね。そのスケベ面は別にして……)

 紀子はもう一度頭を下げかけ、そのときふと、遺族の中にいる若い女性に眼がいった。
 胸に乳児を抱きかかえている。

(あの彼女が、正吉さんが言っていたお孫さんかしら……)

 清楚な趣のあるその女性は、紀子と同世代だというのがわかった。
 しかし、髪形は確かに紀子に似ていなくもないが、その容貌に似ているところはない。

(似てないと思うけど、どうして私と見間違えたりしたんだろ……)

 紀子は不思議に思いながら、その場を離れた。
 慎ましやかに葬儀は執り行われた。
 読経のあとに焼香が始まって、ひとりづつ霊前に向かう。
 紀子の隣りの人が焼香に立ち、つづいて紀子も霊前に向かった。
 焼香を済ませて合掌をし、遺影を見つめる。

 正吉さん。
 こんな形であなたの顔を見るなんて、思ってもみなかった。
 あんなのってないわよ。
 私すごく驚いて、すごく心配して、すごく哀しかったんだから。
 私、あなたが会った最後の人になっちゃったじゃないの。
 もう、どうしてよ。
 借りていたハンカチ、形見としてもらっておくね。
 ずっと大切にしておくわね。
 あなたに出会って、それもわずかなあいだだったけど、私が心を開くことができたのは初めてのことだった。
 あんなに自分が素直になれたことって、いままでに一度だってなかったもの。
 どうしてだろうって、なんども考えてみたけど、でもさっぱりわからない。
 いまはすごくショックを受けてる。
 もう会えないなんて信じられない。
 ねえ、正吉さん。
 あなたが言った、遠い日の約束ってなんだったの?
 それにあのとき、あなたはなにを言おうとしていたの?
 まさか、「死ぬ」なんて言おうとしたわけじゃないでしょ?
 あなたからは、もうなにも聞くことはできないのね。

 紀子が胸の中で呟いていた、そのときだった。

「これはいったい、どういうことだ――」

 すぐ近くで、そんな声が聴こえた。
 紀子は周りに視線を配った。
 だが、近くに人はいない。
 だが、確かに聴こえたのだ。
 紀子は耳を澄ますようにしていたが、もうその声は聴こえない。

(きっと幻聴だわ……)

 そう思い、霊前を離れようとしたとき、

「眼の前に私の遺影があるということは、私は死んだのか……」

 今度ははっきりと、そう聴こえてきた。

(え? なに、ちょっと待ってよ。この声って……)

 紀子は驚き、

「まさか、正吉さん?」

 思わず声が洩れた。
 すると、

「はい、そうです」

 声が答えた。

(そそ、そんな――まさか、化けて出てきたなんて言わないでよ……)

 紀子がそう思いながら霊前を離れると、

「いや、そういう訳ではないんですけれど……」

 声がまた答えた。
 その声は、紀子の心の声に答えたのだ。
 そしてそれは、耳から聴こえてくるのではなく、頭の中に直接響くるのだった。
 そう、その声はまさしく、正吉の声だった。

(ひえーッ!)

 紀子は眼を見開き、脇目もふらずに斎場をあとにしていた。
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