蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

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【第23話】

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「前に進んだって、なにが?」

 谷口の言葉に、紀子は首を傾げた。

「だから、僕と先輩との関係に、決まってるじゃないですか」

 さらに谷口はそう言った。

「どうしてよ」
「だって、まったく気がない男に想われても、うれしいとは思わないでしょ」
「そんなことはないわ。それは、よほど生理的に受けつけない男の場合よ。想われたり褒められたりするのって、女はうれしいものなの。特にきれいって言われるのは、ほんとにうれしいのよ」
「じゃあ僕は、生理的に受けつけてもらえてるってだけですか」

 谷口の表情が一転して曇る。

「そんなに悲観的にならないの。男は、『押してもだめなら押しまくれ』じゃなかった? エールを贈るわよ」
「そうですね。って、どうして先輩に応援されなくちゃいけないんですか」
「あ、それもそうね」

 そこでふたりは笑った。
 店に来たときには空いていた座敷の席が、今は三つとも客で埋まり、カウンターもすべていっぱいになっている。
 新宿西口の外れとはいえ、やはりサラリーマンが多い。
 それもそのほとんどが年配組みだった。
 紀子と谷口は、そんなことは気にもとめず、和気藹々と焼酎を飲んでいる。
 はたから見ればごく普通のカップルだ。

「谷口くん。兄弟はいないのよね」

 そう言った紀子は、そろそろ酔いが回りはじめていた。

「そうです」
「実はね、私もなの」
「へー、そうなんだ」
「それでね、私が中3のときに、母親が家を出ていったの――」

 そこまで言って紀子はハッとし、次の言葉を呑みこんだ。
 何を話そうとしているんだろう。
 いくら酔ってきたからといって、彼に話すようなことではない。

(やっぱり私、今日は変だ……)

 次の言葉を呑みこんだまま、

「それはそうと、お父さんのことは憶えてるの?」

 紀子は話を変えた。

「憶えてますよ」

 話が変わったことを気にもせず、谷口は答えた。

「僕の記憶にある父親は、さっきもいいましたけど、元気で明るくて、強くてやさしい笑顔の絶えない人でした。母親とも、すごく仲がよくて。父親は、元々は自衛隊に入隊していたんですけど、僕が小学校に入学したころに除隊したんです。除隊した理由は、上官と揉めたのが原因だったって、父親が死んで何年もしてから母親に聞かされました。除隊後は警備会社に就職したんだそうです。僕は幼かったから、父親はずっと自衛官だと思っていました。自衛官から警備会社の制服に変わっても、僕にはその見分けがつかなかったから」

 そこで谷口は一度言葉を切り、グラスを口にした。
 紀子の感情のバロメーターは、上がりはじめている。
 谷口はグラスを置き、話をつづけた。

「父親が帰ってくると、たとえどんなに大好きなアニメを観ていても、僕は玄関まで走っていきました。父親は制服を着てなくても必ず僕に敬礼をして、『ただいま』と言って僕を抱き上げてくれたんです。敬礼をしたときの、父親の姿勢を正した姿がかっこよくて、その記憶が強く残っているんです」

 そこまで話すと、感慨深げに谷口は眼を馳せた。
 そしてふと、紀子に眼を移す。

「先輩、どうしたんですか」

 驚いたように谷口が言った。

「だって……、だって……」

 紀子は号泣していた。

「どうして泣くんです?」
「だって、とってもいい話なんだもの……ううッ……」

 紀子は顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「だからって、そんなに泣きます? 先輩って、泣き上戸なんですか?」
「違うけど、でも……、だって、あなたが敬礼なんてするから、私はなんだろうって思ってて……、そうしたら、お父さんが敬礼をした話を聞かせるんだもの……。これで泣くなっていうなら、どこで泣けばいいのよォ」

 紀子の涙は止まらない。
 それどころか、その泣き方はさらに激しさを増している。
 アイラインが涙に流れて、頬に筋を作る。

「だって、先輩が父親のことを憶えているかって訊いたんじゃないですか。あーあ、もう」

 谷口は店員におしぼりを頼んだ。周りの客も、何事かと眼を向ける。

「先輩。とにかく、泣くのはやめましょう。もう、父親の話はしませんから。ね」

 なんとか泣きやむようにと、谷口はなぐさめる。
 それに紀子は、うなずいては泣き、泣いてはうなずいた。
 店員の持ってきたおしぼりを谷口は受け取り、紀子に渡す。
 それを受け取った紀子は、なんの躊躇もなく鼻をかんだ。
 そこでまた、周囲からの視線を浴びる。
 それでも紀子は意に介さず、顔を拭い、化粧を落としてしまった。
 涙はもう止まっている。

「あー、さっぱりした」

 満面の笑みを浮かべるが、眼は真っ赤になっていた。
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