蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

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【第54話】

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 昭和19年、秋――
 どこまでも広がる蒼穹(そうきゅう)の中に、光り輝く陽が天高く昇っている。
 田島正吉は、舗装などされていない道を走っていた。
 民家を抜け、竹林を過ぎると小高い丘になっていて、その丘の上に小さな神社がある。
 正吉はその神社へと向かっていた。
 竹林を過ぎて境内につづく石段の前まで来ると、呼吸を整えるために立ち止まった。
 頭上高く昇る陽の光に眼を細めて、石段を見上げる。
 見上げるその先には、愛しい人が待っている。
 ここまで走ってきたのは、一刻も早く、愛しいその人に逢いたいがためだ。
 そしてその日が、愛しい人に逢える最後の日となってしまうかもしれない。
 それだけに正吉は、逸る心を抑えきれずに家を出たとたん、少年のように駆け出していたのだった。
 荒い息が治まりきらないまま、正吉は石段を登った。
 鼓動が激しく胸を打つのは、何も走ってきたからばかりではない。
 1段1段登っていくごとに、愛しい人に近づいていくのだと思うと、胸が高鳴っていくのだった。
 正吉は駆け上がらずに、その1段1段を踏みしめるように、胸に刻みこむようにしながら登っていった。
 石段を登りきり、境内に眼を馳せると、大きな欅の樹の下に立つ愛しい人の姿があった。

「正吉さん」

 正吉の姿を認めると、その人は笑顔を浮かべた。

「志乃さん」

 正吉も爽やかな笑顔を見せて、愛しい人――志乃のもとへ近づいていった。

「やあ」

 笑顔のまま、正吉は志乃と向かい合う。
 だが、真っ直ぐに見つめてくる志乃の美しさにたじろいで、戸惑うように眼を伏せた。
 何か話そうとすればするほど気持ちばかりが先立って、言葉は喉元で止まってしまう。
 そんな正吉に、志乃は口許で笑んで、

「あそこに腰かけましょう」

 そう言うと彼の手を引いた。
 その刹那、正吉の身体に稲妻が走り抜けた。
 白くしなやかな手が、しっかりと握り締めてくる。
 そのやわらかい温もりに、正吉の胸はまた高鳴った。
 横倒しにされた丸太に、ふたりは腰を下ろす。

「いい日和ですね」

 眼下の家並みを眺めながら、志乃はそう言った。

「うん」

 そう答えるのが精一杯だった。
 正吉には返す言葉が何ひとつ浮かんではこなかった。
 志乃がすうっと空を仰ぐ。
 それにつられるように、正吉も空を見上げた。

「わたし、季節の中で秋がいちばん好きです。だって、美しく彩りを見せてくれるのは、秋だけだから」

 微笑みの中の横顔を、正吉は見つめた。
 陽の光を満面に浴びた志乃の横顔は、眩いほどにきらきらと輝いて、秋の色彩など、その美しさの前ではすべてが霞んで見えた。
 この世に、女神というものが存在するとするなら、きっと彼女のような姿をしているに違いない。
 流れくる秋風に、志乃のお下げ髪が揺れる。
 その髪に、正吉は触れてみたかった。
 透きとおるほどのその肌の感触を、指先に感じてみたかった。
 だが、すぐ手が届くはずの、ほんのわずかな彼女との距離が、歯痒いほどに遠かった。
 正吉は膝の上で拳を握り、正面に顔を向け、眼下の家並みに視線を投げた。
 時は刻々と過ぎていく。
 それなのに、言葉ひとつかけることのできない自分がもどかしい。
 ふたりに残された時間は限られているというのに。
 沈黙は重く、息苦しさを伴った。
 そうしているあいだにも、別れのときは容赦もなく近づいてくるのだった

「明日……、ですね」

 沈黙の中、ふと志乃の声が口許からこぼれ出た。

「別れの言葉は言いませんよ、わたし。正吉さんは必ず帰ってくるって、そう信じているから」

 それは切なる想いだった。
 とたんに、正吉の胸は押し潰された。
 言葉が見つからない。
 ただ、唇を硬く結び、奥歯を噛み締めることしかできなかった。
 言葉もないまま眼下を睨んでいると、身体の奥から底知れぬ怒りがこみ上げてきた。
 得も言われぬその憤りは何ひとつ言葉にできない自分に対してのものではない。
 避けることのできない理不尽なまでの運命に、自由に生きることさえも許されないこの時代に、だった。
 日本はまさにいま、世界の大国を相手に戦っている。
 現人神で在らせられる天皇陛下の下、大日本帝国が、どんな敵を前にしても敗れることなどあろうはずもない。
 正吉はそう信じていた。
 いや、日本国民のすべてがそう信じきっていた。
 それだけに正吉は、己の命を懸けて戦場で戦い抜くことを神に誓った。
 決意は固く、決して揺らぐことなどない。
 そのはずだった。
 志乃と出逢うまでは。
 志乃と出逢い、彼女と会話を交わすうちに、それまでいだいたことのない感情が芽生えていた。
 彼女を知れば知るほど、もっともっと知りたくなって、彼女と別れたそばから、もうすぐに逢いたくてしかた がなかった。
 次に逢える日を待つのはとても苦しくて、胸が張り裂けそうなほどだった。
 寝ても醒めても、何をしているときでも、彼女のことを考えずにはいられなかった。
 それが恋だということを知り、彼女への想いは加速していった。
 志乃がすべてだった。
 いっときも離れていたくなかった。
 奇跡のように訪れたその幸福を、手放したくはなかった。
 だが、その時代は、そんな小さな幸福さえも、奪わずにはおかなかった。
 正吉のもとに召集令状が届いたのだ。
 令状を手にした正吉は、ついにこのときが来たのだという思いに、しばらく立ち尽くしたまま動けずにいた。
 お国のために戦場へ向かうことは、宿命であり誇りであることはわかっていた。
 たとえ己の命を投げ打ってでも敵を倒す。
 それが日本男児の本懐であり名誉であることも。
 けれど、いざその召集令状を手にすると正吉の足が竦(すく)んだ。
 命を懸けて戦うと神に誓いながらも、恐怖心で膝が震えるのだった。   
 それは正吉だけに限ってのことではない。
 戦場へと赴くうら若き青年たちの胸には、耐えがたき不安と恐怖が渦巻いていた。
 だれひとりとして、好んで戦場へ向かうものなどいるはずもなかった。
 だがしかし、召集令状とは謂(い)わば、天皇陛下の勅命(ちょくめい)である。
 令状が届けば、それを拒否することは許されず、否応なしに戦場へと赴(おもむ)かなければならない。
 それは、死へと向かうための片道切符もおなじだった。
 戦場へなど行きたくはない。
 正吉は心の中で強く思った。
 だが、それを口にすることなど間違ってもあってはならず、ましてや、それを叶えることもできるわけがなか った。
 ひたひたと、背後から死が近づいてくるような恐怖に正吉は脅えた。
 敵の弾丸に打ち抜かれて、戦場の地で無残に倒れる自分の姿を想像すると、胃が縮み上がり、吐き気を覚えた。
 死ぬのが恐かった。
 恐くて恐くてたまらなかった。
 その中で想うのは志乃のことだった。
 志乃に恋をし、愛したがゆえに、死にたくなかった。
 それ以前に、志乃と別れることは計り知れない苦痛だった。
 もう二度と、逢えなくなってしまうのではないか、そう思うと気がふれそうになるほどだった。
 どうして、戦いに行かなければならないのか。
 どうして戦争なんてしなければならないのか。
 戦争なんて、醜い殺し合いじゃないか。

 戦争でこの世がよくなることなどありはしないのに、どうしてそれに気がつかないのか――

 そんな無常の思いがない交ぜになり、それは憤りとなって正吉の中で暴れるのだった。
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