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【第61話】
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「どうかしたの?」
周りを見やる正吉に、志乃が訊いた。
「うん。いままでここに、おじいさんがいたんだ」
正吉はそう答えた。
「おじいさん?」
「ああ、人の良さそうなおじいさんで、僕と同じ歳のころ、戦争に行ったことがあるって言ってた」
ふたりはベンチに腰を下ろした。
「そのおじいさん、こんなことを言ったんだ。『大丈夫。彼女はきっと来る。そして君は、生きて帰ってくる』って。君のことを話したわけでもないのに。でも、そうしたら君に、ほんとうに逢えた」
そう言って正吉は、もう一度周りを見やった。
「見送りに来ていたはずなんだけど」
だが、老人の姿は、どこにも見当たらなかった。
「きっと、神様だったんだわ。そのおじいさん」
正吉は、志乃に顔を向けた。
不思議そうに彼女を見る。
「だって、正吉さんと逢わせてくれたんですもの」
志乃が言う。
「けど、君は自分の意思でここへ来たんじゃないか。僕はここにいたんだから、あの人が僕たちを逢わせてくれたわけじゃないよ」
「ううん、違うの。わたしは、ほんとうは来るつもりじゃなかった。夕べは一睡もできなくて、朝がきて、正吉さんに逢いたくて逢いたくてたまらなかったけど、でも、耐えなきゃいけないと思った。辛いのはわたしだけじゃない、正吉さんだって辛いんだって……。汽車が来る時刻がだんだん迫ってきて、心だけは家を飛び出していたけど、わたしは胸の前で手を組んで祈ったの。神様、どうか正吉さんを無事に帰らせてください、って。眼を閉じて、なんどもなんども祈った。でもわたし、そう祈りながら、正吉さんにもう一度逢いたいって願っていたの。そうしたら、大勢の人の声が聴こえてきて、眼を開いたら、駅の前に立ってた。こんなことって、神様じゃなきゃできるわけがないもの。だから、そのおじいさんは神様よ」
志乃は正吉の瞳を見つめた。
「そうかもしれない。神様が僕たちを逢わせてくれたんだ」
そんなはずはないだろう。
彼女はきっと、無意識のうちに駅まで歩いてきたのだ。
だが、彼女がそう思うのであればそれでいい。
たとえなんであれ、いまこうして逢えたのだから。
正吉は志乃を見つめ返し、彼女の手を握った。
見つめ合うふたり。
だが、時はやはり、ふたりを引き離そうとする。
汽車が汽笛を鳴らし、プラットホームに入ってきた。
神様は、時を止めてはくれない。
車輌が停まり、万歳三唱の声がひときわ大きくこだまする中、戦場へと向かう若者たちが乗りこんでいく。
すすり泣く声が、そこかしこから聴こえてくる。
正吉は苦痛をこらえるように眉根を寄せ、志乃の瞳から逃れてうつむき、そして立ち上がった。
志乃も一緒にベンチを立つ。
「志乃さん。じゃあ、行くよ」
そう言ったとたん、正吉の胸は切り裂かれた。
「はい。お国のために、立派に戦ってきてください」
それは志乃にとって、いちばん口にしたくなかった言葉だった。
その言葉は、悪魔の所業のようにも思えた。
「いや、僕は、お国のために戦地に向かうんじゃない。志乃さん、君を護るために、君との約束を果たすために戦いに行くんだ。だから待っていてほしい。君が信じているとおり、僕は帰ってくる。そして君との約束を果たす。必ず」
自分の言葉を、正吉は胸に刻みこんだ。
「はい。わたしは待っています。正吉さんが帰ってくるのを、ずっとずっと待っています」
そのとき、発車を知らせる汽笛が鳴った。
正吉は車輌に乗り、ふり返った。
志乃の瞳に涙が溢れ、目尻を伝い頬を流れていく。
ふたりは無言で見つめ合った。
発車のベルがプラットホームに鳴り響く。
その無常な音が鳴り止むとともに、車輌のドアが閉じられた。
汽車はゆっくりと動きはじめる。
正吉は精一杯大きく胸を張ると敬礼をした。
志乃は汽車の動きに合わせて歩き出す。
「約束を、絶対に守ってください」
志乃が言う。
正吉は唇をきつく結び、真剣な眼差しでうなずいた。
汽車の速度が速くなり、志乃は小走りになってそれに合わせる。
人と肩がぶつかり、よろめきながらも、正吉の姿を眼から離すまいとあとを追う。
「志乃さん……」
正吉はドアの窓に張りつくようにして、追ってくる志乃を見つめる。
(もういい、志乃さん。もう追うな……)
その想いに、強く首をふる。
そして、正吉の乗る車輌はプラットホームの端を過ぎていった。
「正吉さん! わたしは、あなたの帰りを待ってますから! ずっと、ずっと待ってますから!」
ホームの端で叫ぶ志乃のその声は、汽笛の音にかき消された。
三度鳴らされた汽笛の音は、出征してゆく若者たちの、心の叫びのようにこだましていた。
周りを見やる正吉に、志乃が訊いた。
「うん。いままでここに、おじいさんがいたんだ」
正吉はそう答えた。
「おじいさん?」
「ああ、人の良さそうなおじいさんで、僕と同じ歳のころ、戦争に行ったことがあるって言ってた」
ふたりはベンチに腰を下ろした。
「そのおじいさん、こんなことを言ったんだ。『大丈夫。彼女はきっと来る。そして君は、生きて帰ってくる』って。君のことを話したわけでもないのに。でも、そうしたら君に、ほんとうに逢えた」
そう言って正吉は、もう一度周りを見やった。
「見送りに来ていたはずなんだけど」
だが、老人の姿は、どこにも見当たらなかった。
「きっと、神様だったんだわ。そのおじいさん」
正吉は、志乃に顔を向けた。
不思議そうに彼女を見る。
「だって、正吉さんと逢わせてくれたんですもの」
志乃が言う。
「けど、君は自分の意思でここへ来たんじゃないか。僕はここにいたんだから、あの人が僕たちを逢わせてくれたわけじゃないよ」
「ううん、違うの。わたしは、ほんとうは来るつもりじゃなかった。夕べは一睡もできなくて、朝がきて、正吉さんに逢いたくて逢いたくてたまらなかったけど、でも、耐えなきゃいけないと思った。辛いのはわたしだけじゃない、正吉さんだって辛いんだって……。汽車が来る時刻がだんだん迫ってきて、心だけは家を飛び出していたけど、わたしは胸の前で手を組んで祈ったの。神様、どうか正吉さんを無事に帰らせてください、って。眼を閉じて、なんどもなんども祈った。でもわたし、そう祈りながら、正吉さんにもう一度逢いたいって願っていたの。そうしたら、大勢の人の声が聴こえてきて、眼を開いたら、駅の前に立ってた。こんなことって、神様じゃなきゃできるわけがないもの。だから、そのおじいさんは神様よ」
志乃は正吉の瞳を見つめた。
「そうかもしれない。神様が僕たちを逢わせてくれたんだ」
そんなはずはないだろう。
彼女はきっと、無意識のうちに駅まで歩いてきたのだ。
だが、彼女がそう思うのであればそれでいい。
たとえなんであれ、いまこうして逢えたのだから。
正吉は志乃を見つめ返し、彼女の手を握った。
見つめ合うふたり。
だが、時はやはり、ふたりを引き離そうとする。
汽車が汽笛を鳴らし、プラットホームに入ってきた。
神様は、時を止めてはくれない。
車輌が停まり、万歳三唱の声がひときわ大きくこだまする中、戦場へと向かう若者たちが乗りこんでいく。
すすり泣く声が、そこかしこから聴こえてくる。
正吉は苦痛をこらえるように眉根を寄せ、志乃の瞳から逃れてうつむき、そして立ち上がった。
志乃も一緒にベンチを立つ。
「志乃さん。じゃあ、行くよ」
そう言ったとたん、正吉の胸は切り裂かれた。
「はい。お国のために、立派に戦ってきてください」
それは志乃にとって、いちばん口にしたくなかった言葉だった。
その言葉は、悪魔の所業のようにも思えた。
「いや、僕は、お国のために戦地に向かうんじゃない。志乃さん、君を護るために、君との約束を果たすために戦いに行くんだ。だから待っていてほしい。君が信じているとおり、僕は帰ってくる。そして君との約束を果たす。必ず」
自分の言葉を、正吉は胸に刻みこんだ。
「はい。わたしは待っています。正吉さんが帰ってくるのを、ずっとずっと待っています」
そのとき、発車を知らせる汽笛が鳴った。
正吉は車輌に乗り、ふり返った。
志乃の瞳に涙が溢れ、目尻を伝い頬を流れていく。
ふたりは無言で見つめ合った。
発車のベルがプラットホームに鳴り響く。
その無常な音が鳴り止むとともに、車輌のドアが閉じられた。
汽車はゆっくりと動きはじめる。
正吉は精一杯大きく胸を張ると敬礼をした。
志乃は汽車の動きに合わせて歩き出す。
「約束を、絶対に守ってください」
志乃が言う。
正吉は唇をきつく結び、真剣な眼差しでうなずいた。
汽車の速度が速くなり、志乃は小走りになってそれに合わせる。
人と肩がぶつかり、よろめきながらも、正吉の姿を眼から離すまいとあとを追う。
「志乃さん……」
正吉はドアの窓に張りつくようにして、追ってくる志乃を見つめる。
(もういい、志乃さん。もう追うな……)
その想いに、強く首をふる。
そして、正吉の乗る車輌はプラットホームの端を過ぎていった。
「正吉さん! わたしは、あなたの帰りを待ってますから! ずっと、ずっと待ってますから!」
ホームの端で叫ぶ志乃のその声は、汽笛の音にかき消された。
三度鳴らされた汽笛の音は、出征してゆく若者たちの、心の叫びのようにこだましていた。
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