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チャプター【16】

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 宮田が検査室へと入ると、パソコンに映し出されている画像に眼を向けている、初老の医師の背があった。

「どうかしましたか」

 初老の医師――谷垣の背に、宮田は言った。
 谷垣は、パソコンの横にある電子顕微鏡を指で示すと、

「覗いてみたまえ」

 宮田に言った。

「はい」

 宮田は、言われるままに電子顕微鏡に近づいていき、接眼レンズを覗いた。

「これは――」

 思わず絶句した。

「どうだね、宮田くん」

 谷垣は、電子顕微鏡を覗く宮田の横顔を見た。

「こんなものは、見たことがない……」

 宮田は、電子顕微鏡を通して見た「それ」から眼が離せなかった。

「そうだろう。それが、初めて未知なるものを眼にした者の反応だ。このわたしの反応も同じだったよ」

 谷垣は、パソコンの画像に眼をもどしていた。
 そこには、いま宮田が見ているものと同様のものが映っていた。

「それで、君はそれをどう思うかね」

 そう訊かれて、宮田は電子顕微鏡から顔を上げた。

「そう言われましても……」

 宮田は、答えに窮した。

「そうだな。この段階では、なんとも言えないというのが正解だ」
「はい……」
「しかし、あえて訊きたい。宮田くん。これはなんだ。新種のウイルスか」
 
 谷垣は、また宮田に顔を向け、詰めよるように言った。


「いや、これは新種のウイルスとか、そういったものではないと思います」
「では、なんだ」
「ウイルスとは異なる、まったく別の存在……。ウイルスは、宿主の細胞を利用して増殖していくものですが、これは細胞を取り込み、宿主の遺伝子を自分の遺伝子へと変化させている……」

 そこで宮田は、考えこむように眼を伏せた。
 本来ウイルスは、非細胞性で細胞質を持たない。
 その構造は、ウイルス核酸と、それを取り囲むカプシドと呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。
 ほとんどの生物は、DNAとRNAの両方の核酸が存在するが、ウイルスの粒子内には、どちらか片方だけしかない。
 また、ウイルスは自らはエネルギー産生しないため、宿主細胞の作るエネルギーを利用し、自身の複製を行う。
 要するに、ウイルスは単独では増殖できず、他の生物に寄生してはじめて増殖が可能となるのである。

「そのとおりだ。これは、自らが増殖している。そして、厳密に言うならば、宿主の遺伝子情報を自身の遺伝子情報に書き換えている。いや、これはまるで上書きだ」
「――――」
「これは、地球上に存在するウイルスのような非細胞性生物ではない。未知なる細胞体だ。強いて言うならば、地球外ウイルスだよ」
「だとすると……」
「つきかげ号の搭乗員の彼らが、月より運んできたのだよ」

 谷垣のその言葉に、

「なんということだ……」

 苦いものを吐き出すかのように、宮田は言った。

「いまわかっていることは、この未知なる細胞体は空気感染はしないということだ。彼らの身体に外的損傷がなかったことから考えれば、侵入経路は口か鼻、または耳ということになるが、この感染源(マスター)はどのようにして体内に入りこんだのか……。そして、不可思議なのは、彼らがそろって健康体でいるということだ。この未知なる細胞体の増殖のスピードは、10年以上前に発見され、1類感染症に指定されたレイド・ウイルスに匹敵する。それを踏まえれば、少なくとも彼らは、2日前には感染しているはずなのだ。だというのに、彼らは月に行く前よりも気分が優れているという……」

 谷垣は、腕を組んで唸った。

「いったい、どういうことなのでしょう」
「うむ。君もわかっていることだと思うが、ウイルス感染症は、ウイルス感染自体による肉体の異常もあるが、主に発熱だ。感染細胞によるアポトーシスなどの組織傷害のように、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が、健康な肉体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージをともない、それが症状として現れるのだ。ウイルスのほとんどが、宿主の肉体を蝕んでいくということに他ならない。例として、レイド・ウイルスを上げるならば、その名のとおり、襲撃(レイド)するがごとくに肉体を蝕み、感染の発症から3日で宿主を死に至らしめる。それは確実と言っていいほどにだ。それに比べ、この未知なる細胞体は、自身の遺伝子を上書きことで、宿主を蝕んでいくのではなく、逆に身体能力を強化させている。つまり、このまま感染が進行していけば、宿主は肉体の不調を感じないまま――」
「この未知なる細胞体に、取って代わられるということですか」

 宮田は、谷垣が言わんとすることを口にしていた。
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