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チャプター【22】

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 蘭が眠る一室。
 その一室を、別室でモニタリングしている男がいた。
 久坂善行である。
 彼は、文部科学省外局のバイオ・テクノロジー研究開発局に在籍していたが、政府からの要請により、OMEGAが設立されると同時に、科学班の責任者として籍を移したのだった。
 久坂が眼を向けているモニターに映る蘭は、静かな寝息を立てていた。
 その寝息が、はっきりと聴こえている。
 蘭がいる一室には、小型カメラ、高性能マイク、スピーカーが設置されていた。
 小型カメラは、天井と壁の四隅に設置されており、室内の隅々を映し、ズームも可能だった。
 高性能マイクに至っては、蟻が1匹入りこんだとしても、床の上を歩くかすかな音も拾う性能を持っていた。
 スピーカーだけはひとつで、その他にも壁には睡眠ガスを送る穴までがあった。
 久坂は、蘭の顔にズームをよせた。
 モニター越しに、蘭の寝顔を見つめる。
 まだ20歳を過ぎたばかりのように思える寝顔には、少女の面影がある。
 その蘭が一瞬にして変貌したのを、久坂は目の当たりにした。
 瞳は金碧色に耀き、唇の両端はつり上がり、その唇に覗く犬歯が牙のごとく異様に伸びていた。喉を鳴らした唸りは、獣そのものだった。
 変貌した蘭が飛び掛かってきたとき、久坂はぴくりとも動くことができなかった。

(もし、あのとき、OMEGAのS・M・T隊長が、ほんの数瞬でも麻酔弾を撃つのが遅れていたら、どうなっていただろうか……)

 そんなことを考え、だが、すぐに久坂は首をふり、

(わたしのことなど、どうでもいい。この蘭という存在が、感染者を救う鍵となるのだから……)

 そう考え直した。
 OMEGAに来てから1年、久坂はこれまでに100人以上の感染者を扱ってきた。
 それらはすべて、OMEGAの特殊機動部隊によって確保された感染者である。
 ならば、JAXAのあの事件によって感染した医療スタッフの5人と、臓物とはらわたを喰われ、一度は絶命しながら死人として甦った警備員のふたりはいったいどうなったのか。
 その5人は、被検体としてJAXAの隔離室に入れられた。
 それが、その矢先、5人は眠りから醒めることもなく、とつぜん次々と自然発火を起こして燃えはじめ、あっという間に灰となってしまったのだった。
 それはまるで、未知なる細胞体が、種の形体を探らせぬために、自らを焼き払ったかのようだった。
 そういうことがあって、久坂はJISAの事件の被害者の遺伝子細胞を、その眼で確認することができなかったのである。
 だが、それでも、つきかげ号の搭乗者、月よりの感染者、最初の5人の血液サンプルが保管されていて、久坂はそれを見ることができた。
 未知なる細胞体と呼ばれたそれを見たとき、久坂は自分の眼を疑った。
 瞼を閉じて指先でマッサージをし、改めて電子顕微鏡の接眼レンズを覗いたほどだった。
 5人の遺伝子はすべて、未知なる細胞体の遺伝子に上書きされていたのだった。

「これは、ウイルスのような非生物じゃありません。この細胞体は、月に存在していた地球外生命体なんですよ。きっとこれは、100年、いや、1000年以上かもしれませんが、ずっと眠りについていたんです。それを彼らが、起こしてしまったんですよ。起こしてはならないエイリアンをね」

 政府に自ら嘆願し、OMEGAの医療班に配属となった医師の宮田が、久坂がまだ接眼レンズを覗く前にそう言った。
 その言葉を、久坂は俄(にわ)かに信じられずにいたが、その未知なる細胞体を自分の眼で見たとたん、久坂は唸り声をあげていた。
 書き換えられた遺伝子は、地球上の生物の遺伝子とはまったく異なっていたからだ。
 ましてや、人間の遺伝子を、自身の遺伝子に変えてしまうなどありえることではなかった。
 まさにそれは、生命体と言うべき存在だった。
 それが、月より運びこまれたのならば、やはり地球外生命体であると、久坂自身も確信した。
 久坂は電子顕微鏡を覗きこみ、未知なる細胞体を見つめながら、自分が震えていることに気づいた。
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