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チャプター【25】

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 蘭は、夢を見ていた。
 もちろん、それが夢だという認識は、蘭にはない。
 蘭は、自宅へ向かって歩いている。
 ふと、腕時計に眼を落とす。時刻は、夜の10時を回っている。

(あの人、怒っているだろうな……)

 そう思うと、歩く足は自然に速くなった。
 その日は、夫が早く帰宅できるということで、めずらしくも夕食を作って待っているのであった。
 だが、そんな日に限って蘭は残業となり、こんな時間になってしまったのだ。
 夫には、会社を出たところで、残業で遅れてしまった旨と謝罪をカード・フォンでメールを送ったが、その夫からの返信はなかった。
 蘭の自宅は、駅から20分ほど歩いた閑静な住宅地にあった。
 1年前、結婚を機に、夫の両親が頭金を出してくれ、建て売りだったいまの家を購入したのだった。
 それから、ふたりで1年を過ごした。
 住宅地に入っていくと、人通りもなくなり、静寂が辺りを包んでいた。
 蘭の歩く足音ばかりが、静寂を破っている。
 蘭は、夫のことを気に掛けながら歩いていた。
 自宅まで、あと200メートルほどに差し掛かったとき、蘭はふと、足を止めた。
 前方を見ているその顔が、かすかに強張っている。
 そのまま立ち止まり、背後へと意識を集中させた。
 背後に人の気配はなかった。
 後方から、だれかがやってくる気配もない。
 物音もせず、静かだ。
 蘭はそこで、うしろをふり返ってみた。
 だがやはり、人の姿はない。
 眼を凝らし、電柱の陰などを見ても、何者かが潜んでいるようなことはなかった。

(気のせいか……)

 胸の中で呟いてみたが、蘭はなぜかほっとできなかった。

 蘭は感じたのである。
 何者かが、音もなくうしろから近づいてくる気配を。
 そのとき、ぞくり、と悪寒のようなものが背筋を走り抜けて、蘭は足を止めたのだった。
 それは、戦慄(せんりつ)と言ってよかった。
 しばらく、そこに立ち、蘭は自分が歩いてきた方角を見ていた。
 すると、コツコツとアスファルトを踏む靴音とともに、人影が見えた。
 その靴音が男のものではないことは、すぐにわかった。
 女の履く、ヒールの音である。
 人影が近づくにつれて、それが女だということがはっきりと認識できた。
 背が蘭よりも10センチほど高い。
 歳は蘭よりも、ふたつ、みっつ上くらいであろうか。
 まだ、残暑が厳しいというのに、女はコートを着ていた。
 赤いハーフのトレンチ・コートである。
 腹部を、ベルトでしっかりと止めている。
 コートの裾からはすらりとした足が伸び、履いているのも赤いヒールだった。
 見かけない女だった。
 もとより、女のその服装からして、そこの住宅地の住人としては不釣り合いだった。

「こんばんは」

 蘭は、その女に挨拶をした。
 それに応えるように、女は流し目で蘭に眼を向け、唇の端を軽く上げるとわずかに頭を傾げ、挨拶を返して通りすぎていった。
 蘭へと視線を向けたその一瞬、その眼が、街灯に反射して緑色に光った。

(グリーンの瞳。外国の人が引っ越してきたのかな……)

 蘭は自宅へ向けて、歩きはじめた。
 女のうしろを、ついていく形となった。

(それにしても、赤いハーフのトレンチ・コートに赤いヒールだなんて、すごいな。背も高いし、モデルさんかな。唇のルージュまで真っ赤だった。まるで――)

 血の色みたい、そう思ったとたん、またも蘭の身体を戦慄が走った。
 今度は、すぐにうしろをふり返った。
 だが、さっきとおなじで、不審な人影はやはりなかった。
 それなのに、戦慄はまだ感じている。
 そのうえ、ふり返ったにも関わらず、その戦慄は背に感じるのだ。
 しかも、すぐ背後に人の気配がする。
 と、そのとき、ひやり、とするものが首筋に触れた。
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