上 下
67 / 71

チャプター【67】

しおりを挟む
「菜々、お腹が空いただろう? 君が食べやすいように、ステーキをカットしてあげよう」

 皿に載ったステーキに、九鬼はナイフを入れ、

「このステーキは、ランクA5の、佐賀産黒毛和牛なんだ。最高級のステーキということさ。だから、ほら、こっちへおいで」

 その皿を、菜々が坐るはずの席にもどした。
 菜々はリビングのソファに坐り、九鬼が言うことに首をふった。

「そんなに、意地を張るものじゃないよ」

 その言葉にも、黙って菜々は首をふる。

「まったく、困った娘(こ)だな」

 九鬼は、ため息をついた。

「いま食べなかったら、あとになってお腹が空いたと言っても、何も食べさせてあげないよ。それでもいいのかい?」
「いいよ。菜々は、ママがむかえに来るのを待ってる」


 菜々は、頑なに拒んだ。

「まいったな。江美子のやつ、いつまで時間をかけるつもりだ……」

 独り言のように九鬼は呟くと席を立ち、菜々のもとへいくと、

「さっきも言ったじゃないか。ママは迎えには来ないんだよ」

 菜々の隣に腰を下ろして、そう言った。

「そんなことない。ママはずっと、菜々といっしょにいてくれるってやくそくしたもん。指切りげんまんしたんだもん。ママは、やくそくをやぶったりしない」

 菜々は九鬼に顔を向けず、正面を見据えて唇を固く結んだ。

「ママを信じる気持ちはわかるよ。でもね、菜々。ママはもう、死んでしまっているよ」

 その言葉に、

「ママは、死んだりなんかしない!」

 菜々は九鬼を睨みつけた。

「恐いな、菜々。大人をそんな恐い顔で睨むものじゃないよ」

 九鬼がそう言ったときだった。
 背後で、入り口のドアが開く音がし、何者かが入ってくる気配がした。

「遅かったじゃないか、江美子」

 九鬼はふり向かずに言った。

「残念だったな。木戸江美子なら、下で斃(たお)れているよ」

 蘭が言った。

「蘭――」

 九鬼は、はっとした顔になり、だが、それでも、ふり返りはしなかった。

「ママー!」

 菜々は、跳ねるように立ち上がると、蘭のもとへ駆け出していった。

「菜々ッ!」

 駆け寄ってきた菜々を、蘭は屈みこんで抱きしめた。

「無事でよかった」

 ひとしきり抱き締めると、

「どこか、怪我はしていないか」

 菜々を胸から離し、蘭は訊いた。
 菜々は、首を横にふった。

「恐い思いはしなかったか」

 つづけて蘭がそう訊くと、

「ううん。ただね、あの人、変なことを言うの。菜々は、女王様になるんだって。そしてね、ママがもう死んでしまっているって、そんなことを言うの。だから私は、ママは死んだりなんかしないって言ってやった。ママはきっとおむかえに来る。ママはきっとおむかえに来る、って胸の中で考えて、泣きそうになったけどがまんして、そうしたらほんとうに、ママがおむかえに来たの」

 菜々の眼から、それまで耐えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。

「そうだったの。偉かったよ、菜々」

 蘭は、こくりとうなずいた菜々の頭をやさしくなでた。
 すると菜々は、顔をくしゃくしゃにして、堰(せき)を切ったように泣き出した。

『ママはもう、死んでしまっているよ』

 そう言った九鬼の言葉を信じないまでも、もしかしたらという想いがなかったわけではないだろう。
 母親を失うという想いは、恐怖となって小さな胸の中に渦巻いていたに違いない。
 それを必死に耐えていたのだ。
 肉体的には6歳という年齢に達してはいるが、実際は3歳なのである。
 無理もないことであった。
 蘭は、胸を締めつけられるような痛みを覚えて、菜々をもう一度抱きしめた。
 と、

「そうか。江美子は死んだか……」

 そう言う、九鬼の声が聴こえた。
 蘭は菜々を抱きしめながら、

「ああ。脳漿(のうしょう)を撒き散らしてな」

 ソファに坐る、九鬼の背に言った。
 むろん、それは嘘である。
 蘭は、木戸江美子――セラノを眠らせただけだった。
 だが、九鬼には、セラノが死んだと思わせておきたかった。

「そして今度は、おまえが脳漿を撒き散らす番だ、九鬼。いや、ゼノクと呼んだほうがいいか」

 蘭のその言葉に、九鬼はわずかに沈黙し、そして、

「記憶がもどっていたのですね。女王陛下」

 すっと立ち上がり、うしろをふり返った。
 その顔には、作り笑いとしか思えない笑みが浮かんでいた。
しおりを挟む

処理中です...