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墜落
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翌朝、いつも通りに出社した。
オフィスに入った途端、しんと静寂が訪れる。好奇の眼差しが俺に集中していた。
(──もう、広まっている)
情報の拡散がこうも早いとは。
とはいえ、日頃《氷のエリート様》などと揶揄され、表では褒めそやされながら裏で陰口を叩かれている身だ。
いまさら白い目で見られても気にしない。
自分のデスクを通り過ぎてまっすぐ上司の個室に向かう。
上司へは今朝のうちに事情を電話で話してある。あくまで自分はDomだと。
俺は一時的にSubになっているだけで、いつかは元に戻る。
ノックの返事を聞いて入室し、上司と朝の挨拶を交わした。重ねてお願いする。
「このことは俺とあなただけの話にしておいてください。迷惑はかけませんので」
「第二性のアウティングなんていまどき訴訟ものだし、いままで通り働けるなら構わないよ」
上司はパソコンの画面を見つめ続けていた。ずいぶんと片手間な態度だ。
いつもなら俺の顔色をうかがってくるくせに、あからさまに対応が変わっている。
チラとこちらを一度見たが、明らかな値踏みだった。部下としてまだ使えるのかどうか、これからも自分の脅威になるかどうか。
「……はい。問題ありません」
俺は平静を装って頭を下げ、部屋を出た。
「おはよ、おーじサマ! 元気そうじゃん!」
デスクにいくと小紅 巴がぎこちなく笑いながら俺の背を叩いた。
俺の半分しか身長がないこの子犬じみた男は、同期であり部下であり、数少ないSubの社員だった。
大慈という名から俺を『王子サマ』と呼ぶような厚かましくて人懐っこいヤツだ。しかし、普段からこんなにテンション高く話しかけてくることはない。
SubがSubに同情しているのだろう。そう思うと、自分が恥ずかしいものに成り下がったような気がして、顔が熱くなる。
「俺に構わなくていい。仕事に戻れ」
「あ……」
華奢な手を振り払い、椅子に座った。
パソコンを立ち上げて溜まった仕事に手をつける。
キーボードを叩く音に集中すれば心が落ち着く。
常人なら耐えられないこの忙しさがいまはありがたかった。余計なことを考えなくて済む。
──そうやって余裕ぶっていられたのは、午前中のうちだけだった。
このオフィスビルの中は治外法権だ。Commandによる仕事の円滑化がまかり通っている。
Dom社員は積極的に手駒を操る。
Sub、Dom、Neutral、関係ない。能力を最大限に引き出してやり、手柄を捧げさせたら勝ち。
むやみに人格を刺激するのは人権侵害にあたり、外でそんなことをしようものなら警察がすっとんでくるような行為だが、プロヴィデーレでは誰も気にしない。
才能を引き出す側と、引き出してもらう側で共生関係が成立している。そうしなければここでは出世できないし、異を唱えるほうがチームワークを乱すお荷物扱いだ。わずかなSubの社員さえそう思っている。
会議中、プロジェクトの進捗にイラついたDom社員がチームへ威嚇を放った。ほんのちょっとした八つ当たりだ。
なのに、俺はその程度のことで拒絶反応を起こし、前後不覚になるほどの吐き気で医務室に運ばれた。
すぐに回復したものの、情けなくてすぐにはオフィスへ戻れなかった。
それからだ。うまく仕事ができなくなったのは。
Glareが怖い。恥をかくのが怖い。
それだけじゃない。同僚がふざけてよこす可愛がり──Rewardが屈辱だった。
Domのころなら悪ふざけだと受け流せていたものなのに。
抑制剤を飲んでいても、自分の知らない欲求がふと顔を出して気色悪い。
周りの態度も変わったし、俺自身も変わってしまった。
Subになった自分を受け入れられないから、定期的なCareも拒否し続けていた。
CareはSubが生きるために必須な行為だ。命令をもらい、達成して褒められることで精神を安定させる。
パートナーのDomがいなければ医療機関などで受けることができるが、俺はこれが耐えられない。いままでずっと、命令する側だったから。
ある日出社すると、俺のプロジェクトチームに同僚の鷹政 一が指示を出していた。
関係ないはずの彼がなぜ関わっているのか。そう問い詰めようとすると、待ち構えていたかのように上司が現れた。
「キミの負担を減らすためだ。このプロジェクトは鷹政に担当してもらう」
白々しい説明に開いた口が塞がらなくなる。
このプロジェクトは軌道に乗って安定したばかりだ。大変な案件など他にいくらでも抱えている。あえてこの案件を鷹政に渡すのは花を持たせたいだけとしか思えなかった。
手柄を横取りされるとわかって「はいそうですか」と言えるはずもない。
「納得できません」
普段の俺ならその一言にGlareを乗せていた。Dom同士のGlareはヒエラルキーの明確化であり、格下は本能的に逆らうことをやめる。上司も鷹政も俺に反論したことなどない。
「いつまでDomの気分でいるんだ、財前?」
鷹政が勝ち誇った顔で言う。
「……気分もなにも、俺はDomだ」
「くくっ、ははははっ!」
大笑いする鷹政の後ろで、成り行きを見守るチームメンバーは居心地悪そうに黙っていた。
「なにがおかしい」
「認めろよ、プロヴィデーレにおまえの居場所はもうないんだ。俺たちみんな、おまえの唯我独尊ぶりには煮湯を飲まされてきた。良い気味だな。──《Kneel》」
「は」
そのCommandを聞いた途端、膝から力が抜ける。
俺は鷹政の前でへたりと座り込んでいた。
ショックのあまり硬直していると、屈んだ鷹政に頭を触られた。
ぽんぽんと撫でられる。
「《Good boy》」
Rewardでありながら、はっきりとした嘲笑だった。
吐き気がして口を抑える。
こんな状況を看過する上司を睨む。
彼は顔を逸らして笑いを堪えていた。味方と思っていなかったが、敵とも思っていなかったのに。
──居場所はもうない、その言葉が頭の中でリフレインする。
「うっ……おぇっ」
耐えきれずに踵を返し、トイレへ駆け込んだ。
「おぇぇっ……げほっ……」
逃げるなんて選択肢が俺にあるなんて知らなかった。
自分のことを、どんな困難にも立ち向かえる強い男だと思っていた。
胃のものをすべて吐き、便座の水を流す。
オフィスに戻れるほど具合は回復していないが、トイレにこもり続けるのも嫌だった。
気が付くとエレベーターで一階ロビーまで降りていた。
オフィスビルを出る。陽気な日差しは俺の気分を晴らしてくれない。
ふらふらと大通りを進んでいると、顔色の悪さからすれ違った人に声をかけられる。無視した。
俺は赤子のとき以来に、自分の涙の温度を思い出した。
情けない。情けない。情けない。
誰かの肩にぶつかる。
俺は青信号の交差点の中心にいた。
行き交う人々が皆、鷹政と同じ目で俺を見ているような気がする。
「はっ、はっ、はっ、……っ」
そのまま息ができなくなって、倒れた。
オフィスに入った途端、しんと静寂が訪れる。好奇の眼差しが俺に集中していた。
(──もう、広まっている)
情報の拡散がこうも早いとは。
とはいえ、日頃《氷のエリート様》などと揶揄され、表では褒めそやされながら裏で陰口を叩かれている身だ。
いまさら白い目で見られても気にしない。
自分のデスクを通り過ぎてまっすぐ上司の個室に向かう。
上司へは今朝のうちに事情を電話で話してある。あくまで自分はDomだと。
俺は一時的にSubになっているだけで、いつかは元に戻る。
ノックの返事を聞いて入室し、上司と朝の挨拶を交わした。重ねてお願いする。
「このことは俺とあなただけの話にしておいてください。迷惑はかけませんので」
「第二性のアウティングなんていまどき訴訟ものだし、いままで通り働けるなら構わないよ」
上司はパソコンの画面を見つめ続けていた。ずいぶんと片手間な態度だ。
いつもなら俺の顔色をうかがってくるくせに、あからさまに対応が変わっている。
チラとこちらを一度見たが、明らかな値踏みだった。部下としてまだ使えるのかどうか、これからも自分の脅威になるかどうか。
「……はい。問題ありません」
俺は平静を装って頭を下げ、部屋を出た。
「おはよ、おーじサマ! 元気そうじゃん!」
デスクにいくと小紅 巴がぎこちなく笑いながら俺の背を叩いた。
俺の半分しか身長がないこの子犬じみた男は、同期であり部下であり、数少ないSubの社員だった。
大慈という名から俺を『王子サマ』と呼ぶような厚かましくて人懐っこいヤツだ。しかし、普段からこんなにテンション高く話しかけてくることはない。
SubがSubに同情しているのだろう。そう思うと、自分が恥ずかしいものに成り下がったような気がして、顔が熱くなる。
「俺に構わなくていい。仕事に戻れ」
「あ……」
華奢な手を振り払い、椅子に座った。
パソコンを立ち上げて溜まった仕事に手をつける。
キーボードを叩く音に集中すれば心が落ち着く。
常人なら耐えられないこの忙しさがいまはありがたかった。余計なことを考えなくて済む。
──そうやって余裕ぶっていられたのは、午前中のうちだけだった。
このオフィスビルの中は治外法権だ。Commandによる仕事の円滑化がまかり通っている。
Dom社員は積極的に手駒を操る。
Sub、Dom、Neutral、関係ない。能力を最大限に引き出してやり、手柄を捧げさせたら勝ち。
むやみに人格を刺激するのは人権侵害にあたり、外でそんなことをしようものなら警察がすっとんでくるような行為だが、プロヴィデーレでは誰も気にしない。
才能を引き出す側と、引き出してもらう側で共生関係が成立している。そうしなければここでは出世できないし、異を唱えるほうがチームワークを乱すお荷物扱いだ。わずかなSubの社員さえそう思っている。
会議中、プロジェクトの進捗にイラついたDom社員がチームへ威嚇を放った。ほんのちょっとした八つ当たりだ。
なのに、俺はその程度のことで拒絶反応を起こし、前後不覚になるほどの吐き気で医務室に運ばれた。
すぐに回復したものの、情けなくてすぐにはオフィスへ戻れなかった。
それからだ。うまく仕事ができなくなったのは。
Glareが怖い。恥をかくのが怖い。
それだけじゃない。同僚がふざけてよこす可愛がり──Rewardが屈辱だった。
Domのころなら悪ふざけだと受け流せていたものなのに。
抑制剤を飲んでいても、自分の知らない欲求がふと顔を出して気色悪い。
周りの態度も変わったし、俺自身も変わってしまった。
Subになった自分を受け入れられないから、定期的なCareも拒否し続けていた。
CareはSubが生きるために必須な行為だ。命令をもらい、達成して褒められることで精神を安定させる。
パートナーのDomがいなければ医療機関などで受けることができるが、俺はこれが耐えられない。いままでずっと、命令する側だったから。
ある日出社すると、俺のプロジェクトチームに同僚の鷹政 一が指示を出していた。
関係ないはずの彼がなぜ関わっているのか。そう問い詰めようとすると、待ち構えていたかのように上司が現れた。
「キミの負担を減らすためだ。このプロジェクトは鷹政に担当してもらう」
白々しい説明に開いた口が塞がらなくなる。
このプロジェクトは軌道に乗って安定したばかりだ。大変な案件など他にいくらでも抱えている。あえてこの案件を鷹政に渡すのは花を持たせたいだけとしか思えなかった。
手柄を横取りされるとわかって「はいそうですか」と言えるはずもない。
「納得できません」
普段の俺ならその一言にGlareを乗せていた。Dom同士のGlareはヒエラルキーの明確化であり、格下は本能的に逆らうことをやめる。上司も鷹政も俺に反論したことなどない。
「いつまでDomの気分でいるんだ、財前?」
鷹政が勝ち誇った顔で言う。
「……気分もなにも、俺はDomだ」
「くくっ、ははははっ!」
大笑いする鷹政の後ろで、成り行きを見守るチームメンバーは居心地悪そうに黙っていた。
「なにがおかしい」
「認めろよ、プロヴィデーレにおまえの居場所はもうないんだ。俺たちみんな、おまえの唯我独尊ぶりには煮湯を飲まされてきた。良い気味だな。──《Kneel》」
「は」
そのCommandを聞いた途端、膝から力が抜ける。
俺は鷹政の前でへたりと座り込んでいた。
ショックのあまり硬直していると、屈んだ鷹政に頭を触られた。
ぽんぽんと撫でられる。
「《Good boy》」
Rewardでありながら、はっきりとした嘲笑だった。
吐き気がして口を抑える。
こんな状況を看過する上司を睨む。
彼は顔を逸らして笑いを堪えていた。味方と思っていなかったが、敵とも思っていなかったのに。
──居場所はもうない、その言葉が頭の中でリフレインする。
「うっ……おぇっ」
耐えきれずに踵を返し、トイレへ駆け込んだ。
「おぇぇっ……げほっ……」
逃げるなんて選択肢が俺にあるなんて知らなかった。
自分のことを、どんな困難にも立ち向かえる強い男だと思っていた。
胃のものをすべて吐き、便座の水を流す。
オフィスに戻れるほど具合は回復していないが、トイレにこもり続けるのも嫌だった。
気が付くとエレベーターで一階ロビーまで降りていた。
オフィスビルを出る。陽気な日差しは俺の気分を晴らしてくれない。
ふらふらと大通りを進んでいると、顔色の悪さからすれ違った人に声をかけられる。無視した。
俺は赤子のとき以来に、自分の涙の温度を思い出した。
情けない。情けない。情けない。
誰かの肩にぶつかる。
俺は青信号の交差点の中心にいた。
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