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Subとしての生活
17 Chill
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カーテンの隙間から見える外はまだ暗い。
へッドボードの電子時計は午前三時を示していた。
重い身体を起こしてベッドから出ようとすると、手首をつかまれる。
隣で眠る杜上を起こしてしまったようだ。
「出社する前に一度帰りたい」
そう言うと、案外あっさりと手を離してくれた。
「退社したら電話してください。迎えに行きます」
「……わかった」
出社のために帰りたいという言葉が方便だとは思わないのだろうか。始発の電車に飛び込む算段かもしれない。
──なんて他人事のように考えていることもお見通しだから、引き留めようとしないのだろう。
もぞもぞと布団から這い出た杜上は、眠そうに目を擦って時計を見た。「うぇっ!?」とらしくない間抜けな声をあげる。
「三時!? 朝ですらない!」
腕をつかまれてベッドに引き戻され、抱き枕のように彼に抱かれる。
「杜上、暑い」
「もう千裕と呼んでくれないんですか?」
「……千裕」
《Good》の言葉の代わりに、首筋へキスされた。
自宅に戻り、シャワーを浴びて着替える。
普段通りに出社して、何事もなく退社した。
言いつけの通りに千裕と合流し、夕食を共にしてから彼の家へ。
──その日から、荷物を取りに帰るときしか自宅に帰らなくなった。
おかしな話だが、友達ですらない相手と同棲している。
千裕は2LDKのマンションに暮らしていて、俺が寝起きするのになんの不便もなかった。
そもそも俺はほとんど外で働いているし、睡眠+αのためわずかな時間しか家に滞在しない。
千裕と過ごす時間はたかが知れていて、寝床が変わったくらいの感覚だ。
診療室でのCareが不要になったいま、抑制剤の処方のためにしかクリニックには通っていない。
明らかに主治医と患者の関係を逸脱していたが、表向きはそれで通し続けている。
千裕が俺にこんな情けをかける理由はわからないままだ。
同情したのか、性欲処理に都合が良いと思ったのか、どうとでも解釈できる。なんでも良かった。
「──《他がなんと言おうと、あなたはすばらしい人ですよ》」
夜な夜な俺を認めてくれる。
それで満たされてしまっているから。
■
しばらく休職して家にいる選択肢もあると提案されたが、出社して平気だったことをふまえてこれからも働くことを選んだ。
千裕の家と会社を往復して数週間が経つ。
かけられたCollarのおかげなのか、俺は周囲からのCommandに鈍感になっていた。
悪化するから触りすぎないよう言われているものの、左手の傷をつい撫でてしまう。
Glareを浴びて気分が悪くなったときなどは、その鮮やかな痛みが心を落ち着けてくれる。
他人のCommandに足を引っ張られることもなくなったが、ならば駆け抜けてやろうという気になれない。
チームに対する発破も自分に対する厳しさもほどほどに案件をこなした。以前が目標に対して260%の成果を求めていたとしたら、いまは120%くらい。
手柄を他のDomに取られても何も言わない。
「丸くなった」という周囲の評価がネガティブや嘲笑のニュアンスを含みつつある。
会社での俺の立ち位置はかなり変わった。
社内でわかりやすく困惑しているのは誰でもない小紅だった。
隣のデスクで紙パックジュースを握り潰し、俺を睨む。
「セーブして働いてるのなに!? らしくなさすぎ、気持ち悪い!」
定時退社しやすくなって感謝しないところがいかにもプロヴィデーレ社員だ。
俺は手元の書類に目を向けたまま答える。
「千裕がそうしろと言うから、仕方なくだ」
「ちひろ?」
聞き返されてハッとする。慌てて訂正するが遅かった。
「……杜上が」
察しの良い小紅は「へー、ふーん、そーお」と繰り返しながら、次の紙パックにストローを差し込んでいた。
「おーじサマも人間だったんだね」
皮肉たっぷりな言い方だった。
翻訳すると、「色ボケしやがって」。
俺は言い返せないので、黙って業務を続ける。
しばらくキーボードを叩く音だけの静かな時間が続いた。
(俺だって、前の通りに働けるならそのほうがいい)
そうできないと理解してしまったからこそ、あがくことをやめた。
千裕は「無理なく生活することが大事」だと言うし、その言いつけを守れば褒美を与えてくれる。
「そうだよね、評価してくれない会社より、愛してくれるDomがいるならそっちになびくよね」
かこん。空になったジュースがゴミ箱に捨てられる。
今日で何個目だ。糖尿病になるぞ。
「そう考えると、おまえも変わったSubだよな。よっぽどモテないのか?」
プロヴィデーレは世間への申し訳程度に新卒のSubを雇うが、大抵はすぐに辞める。仕事のキツさで逃げ出すか、Dom社員と結ばれるかのどちらかで。
小紅はSub社員の中でもそんな気配が一切ない。
「ぼくサマにブチ殺されたいの?」
図星だったのか、はたまた、俺のようなタイプがDomになびくことがおもしろくないのか。
「そんなおーじサマ、つまんないよ」
後者だったらしい。俺がこうなっておまえになんの損失があるというのだろう。
いつの間にかパソコンをシャットダウンした小紅が通勤鞄を持って立ち上がる。
「どこへ行く」
「帰るの。オツカレサマデシタ」
相変わらず不機嫌な顔のまま、すたすたとオフィスを出て行ってしまった。
へッドボードの電子時計は午前三時を示していた。
重い身体を起こしてベッドから出ようとすると、手首をつかまれる。
隣で眠る杜上を起こしてしまったようだ。
「出社する前に一度帰りたい」
そう言うと、案外あっさりと手を離してくれた。
「退社したら電話してください。迎えに行きます」
「……わかった」
出社のために帰りたいという言葉が方便だとは思わないのだろうか。始発の電車に飛び込む算段かもしれない。
──なんて他人事のように考えていることもお見通しだから、引き留めようとしないのだろう。
もぞもぞと布団から這い出た杜上は、眠そうに目を擦って時計を見た。「うぇっ!?」とらしくない間抜けな声をあげる。
「三時!? 朝ですらない!」
腕をつかまれてベッドに引き戻され、抱き枕のように彼に抱かれる。
「杜上、暑い」
「もう千裕と呼んでくれないんですか?」
「……千裕」
《Good》の言葉の代わりに、首筋へキスされた。
自宅に戻り、シャワーを浴びて着替える。
普段通りに出社して、何事もなく退社した。
言いつけの通りに千裕と合流し、夕食を共にしてから彼の家へ。
──その日から、荷物を取りに帰るときしか自宅に帰らなくなった。
おかしな話だが、友達ですらない相手と同棲している。
千裕は2LDKのマンションに暮らしていて、俺が寝起きするのになんの不便もなかった。
そもそも俺はほとんど外で働いているし、睡眠+αのためわずかな時間しか家に滞在しない。
千裕と過ごす時間はたかが知れていて、寝床が変わったくらいの感覚だ。
診療室でのCareが不要になったいま、抑制剤の処方のためにしかクリニックには通っていない。
明らかに主治医と患者の関係を逸脱していたが、表向きはそれで通し続けている。
千裕が俺にこんな情けをかける理由はわからないままだ。
同情したのか、性欲処理に都合が良いと思ったのか、どうとでも解釈できる。なんでも良かった。
「──《他がなんと言おうと、あなたはすばらしい人ですよ》」
夜な夜な俺を認めてくれる。
それで満たされてしまっているから。
■
しばらく休職して家にいる選択肢もあると提案されたが、出社して平気だったことをふまえてこれからも働くことを選んだ。
千裕の家と会社を往復して数週間が経つ。
かけられたCollarのおかげなのか、俺は周囲からのCommandに鈍感になっていた。
悪化するから触りすぎないよう言われているものの、左手の傷をつい撫でてしまう。
Glareを浴びて気分が悪くなったときなどは、その鮮やかな痛みが心を落ち着けてくれる。
他人のCommandに足を引っ張られることもなくなったが、ならば駆け抜けてやろうという気になれない。
チームに対する発破も自分に対する厳しさもほどほどに案件をこなした。以前が目標に対して260%の成果を求めていたとしたら、いまは120%くらい。
手柄を他のDomに取られても何も言わない。
「丸くなった」という周囲の評価がネガティブや嘲笑のニュアンスを含みつつある。
会社での俺の立ち位置はかなり変わった。
社内でわかりやすく困惑しているのは誰でもない小紅だった。
隣のデスクで紙パックジュースを握り潰し、俺を睨む。
「セーブして働いてるのなに!? らしくなさすぎ、気持ち悪い!」
定時退社しやすくなって感謝しないところがいかにもプロヴィデーレ社員だ。
俺は手元の書類に目を向けたまま答える。
「千裕がそうしろと言うから、仕方なくだ」
「ちひろ?」
聞き返されてハッとする。慌てて訂正するが遅かった。
「……杜上が」
察しの良い小紅は「へー、ふーん、そーお」と繰り返しながら、次の紙パックにストローを差し込んでいた。
「おーじサマも人間だったんだね」
皮肉たっぷりな言い方だった。
翻訳すると、「色ボケしやがって」。
俺は言い返せないので、黙って業務を続ける。
しばらくキーボードを叩く音だけの静かな時間が続いた。
(俺だって、前の通りに働けるならそのほうがいい)
そうできないと理解してしまったからこそ、あがくことをやめた。
千裕は「無理なく生活することが大事」だと言うし、その言いつけを守れば褒美を与えてくれる。
「そうだよね、評価してくれない会社より、愛してくれるDomがいるならそっちになびくよね」
かこん。空になったジュースがゴミ箱に捨てられる。
今日で何個目だ。糖尿病になるぞ。
「そう考えると、おまえも変わったSubだよな。よっぽどモテないのか?」
プロヴィデーレは世間への申し訳程度に新卒のSubを雇うが、大抵はすぐに辞める。仕事のキツさで逃げ出すか、Dom社員と結ばれるかのどちらかで。
小紅はSub社員の中でもそんな気配が一切ない。
「ぼくサマにブチ殺されたいの?」
図星だったのか、はたまた、俺のようなタイプがDomになびくことがおもしろくないのか。
「そんなおーじサマ、つまんないよ」
後者だったらしい。俺がこうなっておまえになんの損失があるというのだろう。
いつの間にかパソコンをシャットダウンした小紅が通勤鞄を持って立ち上がる。
「どこへ行く」
「帰るの。オツカレサマデシタ」
相変わらず不機嫌な顔のまま、すたすたとオフィスを出て行ってしまった。
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