蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の一 じゃんけん

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 日本には四季がある。夏は、綺羅にとって最も嫌な季節である。暑さは綺羅を自堕落で無気力な世界へと誘い、全てのやる気、活力を奪い去ってしまう。元々少ないエネルギーが、暑いというだけで根こそぎ消えてしまうのである。これは由々しき事態だ。地球温暖化の進む昨今、暑さから逃れるために出来ることはただ一つ、クーラーの効いた冷えた部屋で、ごろごろとしていることである。電力消費が云々と言われたところで暑いものは暑いし、あんまり暑ければ死ぬ。これはどうしようもない事実だ。必要なのは地球の未来より自分の未来だ。
 祇園祭と言われても行こうなどという気は一切起きず、街中で流れるコンチキチンを聴いたところで、抱くのは「暑いな」という感想のみである。海なんてもってのほか、暑いのにわざわざ遠出をしようなんて考える人間の気持ちは、綺羅には理解出来ない。せめてもの綺羅の活動時間帯は、陽が落ちてからである。それでも蒸し蒸しとして気だるげなのだから、どうしようもない。
 自室で大の字になり、夏休みを謳歌していた昼過ぎ、ピンポーンと玄関のインターフォンが鳴った。配達だろうかと思いながらも起き上がろうという意思は生まれず、自分が立ち上がる必要性も感じなかったため、そのままじっとしていると、玄関で応答する甲高い母の声が聞こえる。話しぶりからすると、どうやら来たのは配達員ではないらしい。やけに親し気である。綺羅は重い瞼を開けると、上半身を起き上がらせた。じっと扉の向こうを透視するように見つめていると、どすどすと誰かが階段を上がって来る音が聞こえた。綺羅の部屋は二階、階段を上がってすぐ左手にある。億劫な様子で綺羅が立ち上がったところで、扉が勢いよく開いた。
 現れたのは、綺羅のクラスメイトである蒼井倫太郎だ。
 一見大人しそうに見える顔に、にやりとした爽やかでない笑みを浮かべ、探求心の強そうな黒い瞳を綺羅へ向けると、「やあ」と手を上げた。
「有村君一日ぶりだね。どうせまたカップラーメンばかり食べている頃だろうと思って、姉が秋田から取り寄せたラーメンセットを持ってきた、ねぎでも切って入れると良いよ」
「蒼井君は、僕の健康を気遣ってるわけじゃないってこと?」
 戸を開けるや否や、はきはきとした声でラーメンセットが入っている袋を掲げる蒼井は、綺羅とは違い、元気が有り余っている様子である。いつもと変わらず、どこぞの坊ちゃんのような風体でありながら、純粋培養とは言い難いシニカルっぽさを抱えている。
「カップラーメンと、このラーメンは全く違うよ心外だな、このラーメンの方がよほど健康的だ、あっさりとした醤油味だよ」
「ああそう」
 蒼井曰く、夏は史上最悪の殺人鬼であり、何よりもまずこの世から抹殺すべき季節だとのことだが、蒼井は夏の暑さにやられている気配は一切ない。むしろ元気そうだ。綺羅のように部屋で転がっているだけではない。
 蒼井はにやにやとして続けた。
「有村君、このままだと高血圧になるぜ、緑黄色野菜でも食べたらどうだ? 脳梗塞で死なれちゃかなわない」
「僕、そこまでラーメンばっかり食べてるわけちゃうで。昨日は素麺とハンバーガーとフランクフルトとあと何やったかな」
「相変わらずよく食べるな、つまり今日はラーメンを食べたってことか。じゃ、明日は緑黄色野菜のお裾分けでも持って来るよ、まあまあ、とりあえず座ってくれよ」
 蒼井はどっかりと床に座り込む。ぼんやり突っ立っている綺羅へ「Have a seat」なんて流暢に言うものだから、綺羅は「ここ僕んち」と不満の声を漏らしながら座った。
 蒼井は、関西弁よりも英語の方がよほど得意なのだ。帰国子女ではないが、幼い頃から熱心に英語教室に通わされていた成果らしい。言語は得意なようで、中国語も日常会話程度なら話すことが出来ると宣っている。そのくせ、関西弁はどうしたって話せないのだ。関西弁をマスターしたいとのことで、綺羅はかつて蒼井のレッスンに付き合ったが、紆余曲折あった挙句に指導を諦めたという経緯がある。
 座り込んだ綺羅を前に、蒼井はまるで自分の部屋のようにくつろいだ。それも仕方がないほど、蒼井は綺羅の部屋へ通っているのである。特に、一週間前に夏休みが始まってから、蒼井は毎日飽きることなく綺羅の家へやって来ている。かといって、特別仲が良いわけではない、と綺羅は認識していた。
「すっかり自分のテリトリーみたいにしてるけど、ここ僕の部屋やで。ていうかよくここまで来れたよな。家が近いとはいえ、十分は歩くやんか」
「有村君はこの一週間でどんどん脆弱になっているな、何か飲もう、メロンソーダはないのか」
 綺羅は口を噤む。
 本来、有村家はメロンソーダを常備していない家であったが、この蒼井倫太郎が頻繁に遊びに来るようになってからは、常に冷蔵庫に入っている。これは、有村綺羅本人ではなく、両親の仕業だ。綺羅の両親は蒼井のことをとても気に入っていて、家庭の話題にも頻繁に上がる。特に夏休みに入ってから、蒼井は毎日のように有村家へやって来るので、その好感度はさらに上がっている様子だ。綺羅には理解出来なかった。「どうせ暇してるんだろう」とにやにやしながら言う蒼井は、両親にとって、息子を遊びに誘ってくれるとても優しいお友達なのだ。
「あるけど」
 不承不承綺羅が言えば、蒼井はにやにやと笑った。
「良いね、じゃ、有村君は麦茶、僕はメロンソーダで。取って来る」
「待て待て。僕が取って来る」
「そうか、じゃ、頼んだ」
 蒼井に見送られながら、綺羅はしぶしぶ台所へ向かう。到着した時点で、すでに母がメロンソーダを二つ用意していたので、それを盆に置いて運ぶだけである。用意の良い専業主婦、名は友恵である。蒼井が来たから喜んでいるのだ。しかし、用意が良過ぎた。綺羅は、炭酸がそれほど得意ではないため、蒼井に合わせてメロンソーダばかり飲むのは嫌なのだ。母は良かれと思ってやってくれているが、綺羅は何となく言うことが出来ないまま、「ありがとう」と受け取る。
 部屋の扉を開ければ、蒼井は顔を上げた。しゅわしゅわとしたメロンソーダが二つあるので、「有村君も好きだな」と嫌味っぽく言う。蒼井は、綺羅があまり炭酸が得意ではないことを知っている。
「二つともあげる」
「一つで十分だ、いくら好きって言ったって、一気にたくさん飲むのはしんどいだろう。何事も適度に、が僕の座右の銘だ」
「嘘吐け。初めて聞いたわ」
 蒼井は綺羅の前にメロンソーダを置くと、嬉しそうに毒々しい緑色の液体を飲み始める。
「僕の今の流行はメロンソーダなんだ、これはいいよ、メロンって言いながらメロンの味なんてしない、甘い炭酸水だ、その裏切りをみんな知りながら、メロンソーダと言って注文をする。この馬鹿馬鹿しさがたまらないね、むしろ好印象を持つようになったのは、小学生の高学年くらいだったかもしれない、それで空前のメロンソーダブームだ、アイスクリームをのっけてもうまい」
「じゃあのっける?」
「明日、僕が持ってくるよ。有村君は、アイスクリームはいける口か?」
「うん。好き」
「じゃあ決まりだ、四人分買って来るよ、ご両親にも、いつもお世話になってるから」
「それはどうも」
 本当に蒼井が買って来るかは不明だったが、綺羅は礼を言っておいた。蒼井倫太郎という人間は気まぐれなのだ。振り回されるのはいるも綺羅の方である。
 綺羅はメロンソーダに口を付けながら、「メロンソーダブームは、いつか終わる予定あるん?」と問いかける。
「そうだな、五年以上続いているけど、終わる兆しはない」
 だろうな、と綺羅は内心で思う。蒼井はブームなどと言うが、出会った当初から蒼井はメロンソーダ人間なのだ。蒼井の認識がブームであったことに驚きである。
「そりゃ良かった。でも毎日飲んでたら、炭酸で身体はち切れそうやな」
「毎日飲んでるわけじゃないけど、そんな人間は知らないな、はち切れるのなら一度はち切れてみたいよ。面白い人間として、未来永劫語り継がれることだろう」
「蒼井君って、そういう願望あったっけ?」
「いや別に」
 言ってみただけだと、蒼井はとたんに興味を失くした顔をした。興味のあることはとことん追及するが、興味を失うとあっさり手を引くのだ。「はあ」とか「ふうん」とか、何かしらの返事をする時は良い方である。
 しばらくじっと考え込むようにしていた蒼井は、思い出したように「なあ」と綺羅へぐいと近付いた。
「何」
 綺羅が応答すると、蒼井は考えを巡らせるような間の後、口を開いた。
「有村君は、じゃんけん小僧っていうのを知っているか」
 どうにも真剣そうな眼差しに、綺羅は眉を潜めた。それから少し考えて、「新手の妖怪?」と尋ねる。今は夏だ。蒼井であっても、そういう話題を出してくるのはそこまでおかしなことではない、はずだった。しかし、蒼井は首を振った。
「妖怪じゃない、いや、妖怪と言っても差し支えはないのかもしれないな、妖怪というのは、つまり化け物ってことだからな、まあ、あながち間違いでもない」
「豆腐小僧みたいなこと?」
「はは、有村君は面白いことを言う」
「何もボケてへんけど」
 何が面白いのだろうと、綺羅は不思議な気持ちになる。
 蒼井とは中学一年からの付き合いだが、未だによく分からない奴なのだ。東京から引っ越して来たらしい無口な少年は、当初からクラスで浮いていて、「大人しい奴やな」と誰もが言っていた。当時中学一年生だった綺羅も、同じく蒼井を大人しい奴だと認識していた。見た目はどこぞのお坊ちゃんであるし、話しかけても小さな声で一言二言話すだけなのである。大人しくて、つまらない奴。綺羅は、蒼井のことをしばらくそう思っていて、教室の隅にいる空気の様に捉えていたのだ。それだけではないと分かったのは、後に彼と話すようになってからだ。きっかけは、些細なことだったように思う。蒼井の不審な行動を目撃したり、家が近いことが分かったり、とにかく偶然が重なって、綺羅の方から声をかけたのだ。そして、一癖も二癖もある蒼井に、綺羅は興味を持ってしまったのだった。逆も然りで、蒼井の方も何かと綺羅へ話しかけるようになった。ザ・普通を自負している綺羅のどこに興味を持ったのかは分からないが、しだいに「有村君は、蒼井君と仲良いもんねえ」などと周りに言われるほどになってしまった。どうしたものかと、複雑な気分になる時は多い。
 蒼井はメロンソーダを一口飲むと、「ふふ」と言う。笑うでもない不穏な言葉に、綺羅は「何」と返した。
「じゃんけん小僧だよ。僕が勝手にそう呼んでいるだけなんだけど、その名にふさわしい、あれは、じゃんけんに命を賭けているぜ」
「じゃんけんって」
 綺羅は昨日の日暮れ、蒼井を目撃した時のことを思い出した。見てはいけないものだと思って、ついと目を逸らしたあの現場だ。
 あの日、蒼井は小学生の男の子を相手に、真剣にじゃんけんをしていた。一度だけではなく、何度も「じゃんけんぽん」を繰り返していたのだ。それはまさしく真剣勝負、隙のないその動作は、傍から見れば間抜けであった。小学生同士ならまだしも、高校生が真剣に白熱して挑むものではないと、綺羅は考えていた。
 もしかしてあの時の話だろうかと思いながら、綺羅は「それで?」と続きを促す。
「僕は最近、じゃんけんをしているんだ」
「うん?」
「相手は小学生だ、真剣勝負だ」
「……へー」
 やはりそうか、と綺羅は内心で思った。見なかった振りなどしなくとも、結果は同じだったというわけだ。首を突っ込むと面倒くさそうだと思っていたが、堂々と自ら言っていくそのスタイルこそが、蒼井倫太郎である。
 真っ黒な目が、綺羅の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「有村君は、じゃんけんの必勝法というのを知っているか」
 真面目にそんなことを言い出すので、綺羅は「はあ」とやる気のない声を出す。
「聞いたことはあるけど、あんまり興味ない」
 蒼井はひょいと肩を上げる。
「どうせ有村君ならそう言うと思っていた、知っているか、この世には世界じゃんけん協会というのがある。年齢制限が存在しない、ウェイトトレーニングも必要ない、生まれつきの才能に左右されず事前準備も要らない、試合終了後の後始末が要らない、年齢や性別に結果が左右されないなんてわけで、じゃんけんの公平性や利便性などを強調しているその世界じゃんけん協会なわけだが、そこのワイアット・ボールドウィン会長は、運に頼らずに勝つ方法を語っている。先出ししない、ランダムな手を出す、対戦相手の読みを理解する、という三点が重要だそうで、会長によると、じゃんけんが上達するためには、先出しをしないことらしい。初心者はグーを出す直前に手を握りしめすぎていたり、チョキを出す直前に人差し指を少し開いていたりする傾向があるため、これから出す手を相手に教えてしまっている場合がある、じゃんけんに挑む際には、タイミングにピッタリ合わせて手を出すようにだとさ、今後、有村君も是非とも参考にすると良い。じゃんけんで物事を決める機会は、人生でそう少なくはないだろう、必勝法を知っておいて損はない。この前だって、委員会をじゃんけんで決めさされた、悪習といえば悪習だが、元はと言えば何のやる気も起こさない消極的な生徒たちのせいだから、じゃんけんは何一つ悪くないわけだ、むしろ救世主だ、僕は聖書を読破していないけど」
 蒼井はそこまで言って急停止すると、綺羅の言葉を待つような間を作った。エンジンのかかった蒼井は、息を吐く間もなくマシンガンのように話すので、綺羅は適当に聞き流すことも多い。
「まあ、分かるよ。でもなあ、知識があっても、それを実践できるかどうかは別やん。言うのは簡単でも、やるのは難しいってやつ」
「知識すらない人間よりはずっと良いね。じゃ、それを踏まえてじゃんけんをやってみようか?」
 蒼井は手を振って挑戦的に笑った。当然、そういう流れになるだろうと予想は付いていた。
 綺羅は自分の手を見つめる。
「別に良いけど。勝ったら何かあんの?」
「いいや、何もない。それじゃモチベーションが上がらないか?」
 蒼井は右手を上げた。何もないのに、蒼井のモチベーションはぐいぐいと上がっているようだ。おかしな奴である。
 綺羅は、モチベーションなどでじゃんけんをやったことはない。じゃんけんをする時、綺羅は前向きな気持ちになったことが一切ないのだ。嫌だなあ、負けたらこれをやらなきゃいけないのかあ、などという薄暗い気持ちばかりである。
 嫌だと断っても面倒なだけであるし、負けたところで何かを強要させられるわけでもない。どうせ遊びだと、綺羅は手を上げて口を開いた。
「じゃあいくでー。最初はグー、じゃんけんぽん」
 ぬるい掛け声とともに、二人は手を出す。綺羅はチョキ、蒼井はパーだ。
 しん、と部屋が静まり返った。
 蒼井は、信じられないという顔で開いた己の手を見つめた。珍しい表情だ。
 拍子抜けな結果を前に、綺羅は得意げにふふんと笑った。
「な、なぜ僕が負けた」
 がっくり、と蒼井は肩を落とす。
「今自分で言ってたやろ。蒼井君、ちょっとだけ先出ししたで。最初はグーの時点で、ちょっと手開いてた。だから、蒼井君はチョキかパーを出すんやろなと思って、安全にチョキを」
 綺羅が平和の気持ちを込めてピースをしてみせると、蒼井は珍しく綺羅を褒めるような言葉を口走った。
「もしかしたら有村君は、将来世界じゃんけん協会の会長に就任しているかもしれない。もしくは、日本じゃんけん協会か?」
「ならんと思う。僕、そこまでじゃんけんに対する熱はない」
「ああそう、じゃ話を戻すけど」
 蒼井は興味を失くした様子で表情を変えると、今の勝負がなかったもののような顔をして続けた。
「僕のじゃんけんの相手だ、小学生のじゃんけん小僧、名前は石井拳(いしいけん)と言うそうだけど、これほどじゃんけんに相応しい名前はないね、偽名かもしれない、あるいは本当にじゃんけんの王に愛されているとかね、はは、馬鹿げてるな、とにかく彼とは千回勝負で、今は八百を過ぎたところだな、四百十一勝、四百九敗、どうなるかはまだまだ分からない」
「意外。めちゃくちゃ接戦やん。ていうか、千回勝負って多くない?」
「意外とは聞き捨てならない。僕が負けているとでも? さっきはたまたま負けただけで、僕は会長から受け継いだ必勝法をぶら下げているんだぜ、いくらじゃんけん王の子とはいえ、そう簡単に負けるわけがない、千回勝負も良いだろう、きりが良くて。それにしても、日本にはじゃんけん大会ってのはほとんどないらしいぜ、僕は常々思っている、これはオリンピックの種目として相応しい、どうしてじゃんけんは種目に選ばれない? 僕は不思議で仕方がない」
「僕はじゃんけんに興奮するタイプじゃないな」
「ああそう、じゃあ有村君みたいな人間がこの世には多いってことだな、世も末だ」
 勝手にこの世の終わりを予言されて、綺羅は頬杖を付く。
「それで、蒼井君は、何でじゃんけん小僧とじゃんけんしてんの?」
「よくぞ聞いてくれた、きっかけは向こうだった」
 手を叩いた蒼井の説明によると、石井拳ことじゃんけん小僧と出会ったのは、期末試験最終日のことだったそうだ。重圧感から解放され、じりじりとした太陽の下を、セミの声を聞きながら歩いていると、後ろから声をかけられた。蒼井が振り向くと、そこに立っていたのはTシャツと短パンという姿の小学生である。妙に親近感のある笑顔で「こんにちは」と挨拶をされたのだ。蒼井が挨拶を返すと、じゃんけん小僧はこう言った。
「僕とじゃんけんをしてくれませんか?」
 突飛な誘いである。じゃんけんをしようと、見知らぬ人に誘われた経験のある人間は、きっと多くはない。
 蒼井は、誘いに乗ったのである。
「僕だって、気まぐれで了承したわけじゃない、期末試験最終日だったとか、そういうシチュエーションも関係ないよ、じゃんけんは非常に魅力的な遊びだからね、僕だってたまには童心に帰ったって悪くはないだろう? 基本的に、人間は嫌いで通している僕だけど、子供は例外だ、何故って、未来だからね。無邪気に誘われて断るなんて、人間のすることじゃない、有村君だってそう思わないか」
「僕は断る気がするな。暑いし」
「どうせ有村君ならそう言うと思っていた」
 軽蔑するような声で言ってから、蒼井は続けた。
 最初は、少しじゃんけんをするだけだと思っていたが、じゃんけん小僧はなかなか蒼井を離そうとはしなかった。「もう一回」「もう一回」と有名な曲の歌詞のようなことを言い続けたのだ。蒼井は了承しじゃんけんを続けた。炎天下の中でじゃんけんを続けるメリットなんて存在しないだろうに、蒼井もなぜかじゃんけんを終わらせたくはないと思ったのだ。二十回ほどじゃんけんをした後、じゃんけん小僧はおもむろに言った。
「千回勝負にしませんか」
 蒼井はその勝負に受けて立つことにした。
 だって、千回勝負である。じゃんけんに対して、そこまでの熱量を持ち続けられるかどうか、この勝負は己との戦いでもあると蒼井は思ったのである。勝った方が、負けた方の願いを聞くということにして、二人は千回の真剣勝負をすることになったのだ。
 頬杖を付きながら説明を聞き終えると、綺羅は「熱中症にならん?」とあからさまに興味のない質問をした。
「僕たちだって馬鹿じゃない、もちろん場所を変えたよ、一日で千回勝負をやるわけでもないんだから」
 綺羅は、真剣にじゃんけんをする小学生と高校生の姿を思い出す。それは傍から見ると滑稽であったが、彼らは非常に真剣で、笑いが起きる余地はない。
 やりたければやれば良いし、綺羅が止める理由もない。思い存分勝負をして、勝負がついた暁には、お互いを称え合い握手でもすれば良いのだ。
「まあでも、偉いやん。蒼井君の方もめっちゃ楽しんでるみたいやけど、一緒に遊んであげてるわけやろ。その子、暇なんかな。友達おらんのかも」
 わざわざ見知らぬ高校生にじゃんけん勝負を挑むのだ。朧げな小学生の姿を思い出していると、蒼井はにやりとした。
「有村君みたいに?」
「まさか。僕は友達いるし。蒼井君みたいに、友達おらんのかもな」
 蒼井君みたいに、の部分を強調して言えば、蒼井は意味深な風ににやにやとする。
 蒼井は綺羅に友達がいないと思い込んでいるが、綺羅は蒼井のような変人ではない。人間嫌いではないし、普通にクラスメイトたちとも交流がある。深追いはしないだけで、浅く広く、それなりの付き合いはあるのだ。たびたび一人を好む癖が出て、人の輪からはみ出すことはあっても、蒼井ほどではない。蒼井は、いつだって教室の隅で一人でいるタイプなのである。無口な仮面を被り続け、それで満足している。綺羅とは違うのだ。
「まあ、それはいいさ、自分の思う自分と、他人から見た自分は、往々にして異なるものだよ。言っておくが有村君は、周りから孤高という言葉で表現されていることがあるんだぜ」
「鼓行?」
「意味としては、ひとり超然としていること、かな」
 綺羅は、小学生の頃、太鼓クラブに入っていたことがある。クラブへの所属を強要されたいたいけな少年は、じゃんけんによって太鼓を叩かされることになったのである。あの時の太鼓の感触を、綺羅はいつまでも忘れることがない。
 そんな過去の記憶を思い出していたので、孤高という言葉がぴんと来なかった。
「それ蒼井君のことやって」
「どうだか」
 蒼井は気を失くしたような声で言うと、「ここからが本題だよ」と人差し指を振った。
「本題って?」
「まさか有村君だって、僕が小学生とじゃんけんをしているだけという、何のオチもない話をするはずがないことは知っているだろう」
「いや、僕は蒼井君にオチは求めてない」
「関西も関東も国も関係なく、人は常にオチを求めているものだよ、落とされたいんだ、落とし穴が何故この世に存在しているか知っているか?」
「妖怪穴掘り小僧でもおるんやろ。ていうかそれはどうでもいいし、僕は大してオチを必要としない人間やねん」
 蒼井は妖怪穴掘り小僧について考えているのか、視線を上へとやると、ふん、と鼻で笑うようにした。
「求めるべきだよ、人生なんて、探し求めてなんぼのものだからね」
「そこはそれで、気が向いたらな。それで?」
 綺羅が話の続きを促すと、蒼井はにやりとして続けた。
「すでに言った通り、千回勝負をするに当たって、僕たちは約束をしたわけだ、勝った方が、負けた方の願いを何でも聞くってね。そしたら、当然相手が何を願うのかが気になるだろう? 二分の一の確立で相手の願いを聞かなくちゃならないんだから、無茶な願いをされると、さすがの僕でも困ってしまう」
「蒼井君の願いは何なん?」
「それはどうでも良い、いや、まだ決めていないっていうのが正しいな、願いと言われても、小学生が叶えられる願いじゃないといけない、かなりの難問だ――と思ってね。まあ、今は保留にしている、そこは問題じゃないんだ。僕は、ちょうど百回の勝負を終えた頃、勝ったら何を願うのかと彼に訊いてみた、すると奴は何と答えたと思う?」
 蒼井は、期待を込めた眼差しをしている。あえて問題にしてくるということは、じゃんけん小僧の願いは、普通の願いではなかったわけだ。
 綺羅は首を捻る。
「さあ? そんなん言われてもなあ。普通やったら、何か欲しいとかやろうけど、その言い方やとちゃうってことやろ?」
「いいや、珍しく冴えているじゃないか、じゃあ何が欲しいと言ったと思う?」
 綺羅の答えは、抽象的だが当たっていた。欲しいものがあるという部分だけならありきたりだが、その欲しいものが普通ではないようである。
「そんなん言われても」
 綺羅は頭を悩ませる。対して興味のないじゃんけん小僧の欲しいものなど、考え付かない。
 綺羅は数秒後に言った。
「金?」
「有村君の考えそうなことだね、この世には金で買えないものはたくさんあるんだぜ」
「じゃあ愛」
「極端だな、良いだろう、答えを教えよう。奴が言ったのは、「蒼井さんの身体を下さい」だ」
 綺羅は眉を潜めた。言葉の意味は分かるが、どう理解したものか考え、しばらく口を閉じていた。やがて「愛か?」と呟く。
「何をどう聞いたらそう聞こえる? 愛どころかホラーじゃないか、笑いながら言うんだぜ、正直僕はぞっとしたね」
「あるやん、あなたが欲しいって歌詞の歌。誰が歌ってたっけ? なんか、昔のやつ。それに、コマーシャルでもあるで。そこに愛はあるんかって、問いかけて来るやつ。深いよなあ。見るたび、愛かーってなる」
「深いわけがあるかよ、そこはどうでも良い。愛っていう考えから一旦離れるんだ、そこに答えはない」
 蒼井は一刀両断すると、もう一度「愛ではない」と念押しする。
 愛ではないとすれば。
 綺羅は考えた。
 蒼井さんの身体を下さい。
 意味を図りかねる言葉である。どんな空気感で飛び出た言葉だったのかも分からない以上、下手に愛ともホラーとも判断出来ないのが現状だ。ただ、蒼井は愛ではないと断言するし、ホラーだと言う。ならば、空気としてはそういう殺伐とした、あるいは緊張感の漂うものだったのだろうと推測は出来る。
 綺羅を見る蒼井は真剣な様子でいて、冗談や怪談話なんてものには一切興味をそそられないと言わんばかりだ。
「身体って言うけど、詳しくは訊いてへんの? ある意味具体的ではあるけど、よく分からんやん」
「僕も訊いたんだよ、そしたら、まさしく僕の身体が欲しいって言うんだ。今の小さな身体は飽きたし、もともと上等でもなかったから、そろそろ新しい皮が欲しいって」
「はあ?」
 蒼井はあくまでも真剣な様子だった。冗談の世界で生きている奴ではない。
 綺羅は眉を潜めた。
「皮って、何? どういうこと? 皮膚ってこと? 身体?」
 訳が分からず、綺羅は自分の腕の皮膚を引っ張った。皮膚の構造など綺羅は詳しく知らないが、皮を剥がされたら痛いであろうことは容易に想像出来る。けれど、蒼井の話しぶりからすると、皮膚の一部が欲しいなんて話ではない。
 皮。身体。
 つまり、じゃんけん小僧が言っているのは、器としての身体、ということなのだろうか。
「それ以上ははぐらかされてしまったから、僕にも分からない」
「え? それってめちゃくちゃ怖くない?」
「だから言っただろう、ホラーだって」
「もっと、はっきりとは聞いてへんの? 身体とか皮とかっていうのはつまり、」
「話したくない人間に、無理に話をさせるなんて能力はないんだよ、僕だって詳しく聞きたかった」
 綺羅は口を閉じ、眉間に皺を寄せる。そうとなれば、ホラーと言ってしまって差し支えはない雰囲気が立ち込めて来る。
 怪談話や、本当にあった怖い話など、世の中には奇怪な話はいくらでも転がっている。でもそれはあくまでも他人事だ。綺羅が体験したことはないし、身近な人が体験したという話もほとんど聞かない。
「それが嘘じゃないなら、その子、まじの妖怪か?」
「嘘かどうかは、実際に負けてみないと分からない」
 蒼井が言うと、綺羅は呆れた。
「その時点で終わりやろ」
「でも事実だ」
 部屋の中は、瞬間的に無音になった。毒々しい緑の液体は、しゅわしゅわと弾けている。ガラスから水滴が落ちるのを眺めると、蒼井は視線を上げた。
 綺羅はからからとした笑い声を上げる。クーラーのせいか、乾燥したような乾いた笑い声だ。
「いやー、でも普通に考えて冗談やろうな」
「普通? 普通って?」
「皮って、何か聞き間違えたんちゃう? 皮が欲しいって、普通ないやん」
「有村君の考える普通と、僕の考える普通は違うよ、じゃんけん小僧の考える普通も違うだろう」
「うーん、皮……身体が欲しい、か」
 小さな身体は飽きた。
 蒼井の言葉を反芻しながら、綺羅は考えを巡らせる。
 つまりそれは、蒼井が負けたら、蒼井の身体がじゃんけん小僧に乗っ取られる、ということだろうか?
 綺羅はちらと蒼井を見た。蒼井は飄々とした表情をしていて、感情が掴めない。だから人から避けられるのだ。何を考えているか分からないし、何を考えているか話そうともしない態度は、クラスメイトたちから距離を取られる一因である。しかし蒼井は、「それがどうした」と言うのだ。何かあった時、味方が一人もいないぞと言ったところで、「それがどうした、味方が裏切る場合もあるじゃないか」である。信じられるのは自分だけと、カエサルが言いそうなことを平気でのたまうのだ。腹心に刺された経験なんてないだろうに。即座に言い返せない綺羅も綺羅だが、蒼井がそういう考えを曲げない以上、「まあ知らんけど」で済ましてしまう癖があった。他人の人生を心配するより、まず自分を心配しろという話だ。
「とにかく、今日明日くらいには決着が着くはずだから、有村君は僕におかしな様子がないか見ててほしいんだ」
「今日明日って言われてもな。じゃんけん小僧と待ち合わせしてんの?」
「約束なんか一度もしていないんだけど、どうしてか向こうはいつも僕を待ち伏せしている、行動を見張られているみたいで気味が悪いぜ。急にどこかから姿を現して、じゃんけんをしようって言うんだ」
「確かにそれは化け物じみてる」
「だろう」
「でも、冗談かも」
「そうだ、分かっていることなんて一つもない、僕がすべきなのは真剣勝負だ」
 メロンソーダを煽るようにして飲んだ蒼井は、「ご馳走様」と空になったガラスコップを綺羅へずいと押し付けた。綺羅の方はと言うと、まだ少ししか減っていない。そうしているうちに、炭酸はすっかり抜けてしまうだろう。炭酸が抜けたメロンソーダがいったい何物へと変化するのか、綺羅はまだ知らなかった。
「今日は帰るよ、それを言いに来ただけだから」
 え、と綺羅は声を上げる。もう帰るのなら、滞在時間は史上最短だ。
「いつも無駄にごろごろしていくのに」
「無駄という言葉こそ無駄だと思わないか、僕は役に立たないように見える時間こそ、人生において最も大切な時間なんじゃないかと思うね」
「はいはい。じゃあまた」
 面倒なことを話し出す蒼井には慣れているが、綺羅はいっそう面倒な気持ちになったので、さっさと蒼井を追い出すことにした。
「うん」
 蒼井は部屋の扉を開けると、ふいに振り返る。
「そうだ、僕は夏が嫌いだと十年も前から公言しているのに、どうして未だに夏が来るんだ? これは不思議なことだと思わないか、なあ有村君」
「いや夏来なくなる方がよっぽど怖いやろ」
「どうせ有村君はそう言うだろうと思っていた、大事なのは共感性なんだぜ」
「蒼井君に言われたくない」
 蒼井は一度瞬きをすると、毒気のあるような笑い方をした。蒼井はどんな時でも、爽やかに笑うということがない。一般的な十代の若者らしさもなく、普通とは言い難い独自性を持っているが、それを指摘したところで「それがどうした」と奴は言う。世界を変えて来たのは、いつだって変わり者なのだと言って憚らない。
 ある意味清々しく、羨ましいほどだ。
「じゃ、頼んだよ。お邪魔しました」
 勝手に頼まれてしまい、何とも返事をする間もなく扉は閉められた。
 ぱたぱたと階段を降りていく音がする。一階で、何やら母と元気そうに会話をしている声がしたと思うと、ばたんと玄関の扉が閉まった音がした。窓から覗けば、蒼井は大股で灼熱の中を歩いている。
「よくやる」
 綺羅は部屋でごろんと横になった。
 蒼井の不穏さを内包する話は、嘘か真か判別出来るものでもない。冗談を言う奴ではないので、少なくともそう言われたのは事実だろうが、じゃんけん小僧の内心を推し量ることなんて綺羅に出来るはずもない。
 もし、自分が蒼井の立場であったらどうするだろうか、と綺羅は考えた。簡単なことで、じゃんけんをしなければ良いのだ。やっぱり止めたと言ってじゃんけんを終了させてしまえば、勝負はなかったことになる。勝つも負けるもくそもない。それで万事解決だ。
 しかし、蒼井は綺羅ではない。変なところで頑固で、プライドがあり、勝負事が好きな奴なのだ。
 全ては冗談でありますようにと思いながら、綺羅はゲームを手にした。暑い日は外になんか出ず、麦茶でも飲んでゲームをしているのが一番である。
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