蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の一 じゃんけん

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「巷で流行した、噂のタピオカだ、あれはこんな風にデザートとして食べるのはいいが、飲み物にするのはいかがなものかと思う。太いストローでタピオカを吸うのは喉を詰まらせる危険性があるし、飲み物と良い感じでタピオカを食べないと、最後にタピオカ三昧だ。寿司三昧なら良いが、タピオカなんてよっぽどタチが悪いぜ、うっかり気軽な気持ちでは注文してはいけないものだ。タピオカドリンクってそんなに美味しいと思うか? 僕は思わないね、それにダイエットが口癖の人間からしたって、高カロリーで避けるべきものだ、まあタピオカというよりドリンクの部分だけどね。僕はナタデココなんかはけっこう好きだけど、そういう人間からしたって寒天あたりでも無心に食べてた方が良いんじゃないのか、世の中の流行なんてよく分からない。ちなみに、今はタピオカってどうなってるんだ? 生きてるか?」
 蒼井はスプーンですくったタピオカを眺めると、綺羅へ視線を送った。
 昨日、緑黄色野菜やらアイスクリームやらと言っていたが、結局蒼井が持ってきたのはタピオカの入ったココナッツミルクだ。たまたま見かけて、急に食べたくなったのだと言う。もらったものにケチをつける性分ではないため、綺羅は素直に受け取った。蒼井が気まぐれなことは知っているし、案外ココナッツミルクは好きである。
 ぐるぐるとスプーンでかき混ぜながら言う。
「タピオカは生き物ちゃうで」
「存在が消えてしまえば、それは死と同義だ」
「今目の前に普通にあるやん。ていうか、あんなに流行る前からタピオカドリンクは存在してたし、タピオカだって被害者やねん。勝手に持ち上げられてもう流行らへんからとか言われたら可哀そうやわ」
「僕はタピオカを責めているんじゃなく、人間を責めている。タピオカに対する苦言に聞こえたのなら謝罪しよう」
「タピオカも大変やな」
 もごもごとタピオカを食べながら、タピオカの正しい食べ方について綺羅は考えていた。昔読んだ漫画で、タピオカに毒を仕込んで人を殺したという事件があったが、それを思うと小さいタピオカであっても一粒一粒噛んで確かめてから呑み込んだ方が良い気がしたのだ。しかし、実際出来るものでもない。蒼井が毒を仕込んでいるはずもないだろう。
 ごくんとそのまま呑み込むと、綺羅は机に肘を突いた。
「で、昨日は決着つかんかったんか」
 蒼井が家を訪ねて来た時、綺羅は内心でどきどきしていたのである。じゃんけん小僧との勝負はどうなったのか、蒼井じゃない誰かが蒼井の中に入っているのか、あるいは、あるいは。警戒するように蒼井を見て、しかしそんなものは杞憂であったと分かったのはすぐのことだ。蒼井という人間のことを、綺羅はそれなりに理解しているつもりだった。蒼井はいつも通りの蒼井だった。
「それか、もう決着はついてて、あれはやっぱり冗談やったってこと?」
 蒼井は静かに首を振った。
「まだだ、おそらく今日決着がつくだろう」
 なんだ、と内心で落胆する。まだこのもやもやとした気持ちからは解放されないようである。
「勝ちそう?」
「いや」
 蒼井は言いかけて、逡巡するようにしてから「分からない」と言った。蒼井らしくなくしおらしい様子に、綺羅は内心を推し量る。この様子では、負けているに違いない。つまり、身体を取られるのは時間の問題というわけだ。
「冗談やろうとは思ってるけど、一応考えてみたりはしててさあ、僕としては、身体が欲しいっていうのは、こう、魂的な話っていうか? 僕はそういうのあんまり信じてへんけど、話を聞いてる限りでは、身体を乗っ取るみたいなことかなーとは、思っててん。そしたら、身体を失った蒼井君の魂はそこらに漂うのかー、とかさあ。現実的ではないけど、どこかでよく聞く話やん」
 何気なく口にすると、蒼井は「ふうむ」と顎を撫でた。それからおもむろにスマートフォンを手に取ると、真剣に調べ始める。蒼井は、不確実なことがあるとすぐに調べたがる癖があった。
「魂、つまり霊魂は、人間の生命や精神の源とされ、非肉体的、人格的な存在とされるもの……五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している、か、輪廻転生だとか何とか言うけれど、実際、魂なんて本当にあるのか定かじゃないよ、信じる者は救われるかな、ああこれはウィキペディア抜粋だけど」
「ふうん。僕は輪廻転生はしたくないな」
「有村君の意見はそうだとしても、そう思わない人間も多いよ。そうだな、乗っ取られる、憑り憑かれるというと、狐憑きだとか悪魔憑きなんかを思い浮かべるけれど、今となっては医学的に説明がつくことだ」
「じゃんけん小僧憑きっていうのは聞いたことない」
「僕もない」
「ちょっと楽しそうな響きやんな。でも、憑りつかれるのと乗っ取られるのは違うんちゃうの?」
「漫画や小説なんかではそういう話をよく見るな、入れ替わり物語だとか」
「蒼井君は、じゃんけん小僧と中身が入れ替わるん?」
 蒼井はタピオカを食べ終えると、ひょいと肩を上げる。
「知らない者同士で話し合っても埒が明かないよ、これこそ無駄な時間だね」
「蒼井君は、無駄を愛してるんじゃないんか」
「別にそんなこと言っちゃいないよ」
「ああそう」
 綺羅がぐるぐるとタピオカをかき混ぜていると、玄関のチャイムが鳴った。反応した蒼井は、目線を窓の外に送った。
「炎天下の中配達する人はご苦労だな。有村君が何か頼んだのか? 可哀そうに、止めておけばいいのに」
「いや、僕じゃない。それに、それが仕事なんやから、むしろ仕事はないと困るやろ。感謝されるのが普通やで」
 そんな会話をしていると、専業主婦である母の友恵が玄関で対応する声が聞こえた。どうやら郵便物が届いたわけではないらしい。親し気に会話をする様子が伺えた。
「誰やろ」
 近所のクリーニング屋のおばさん? それとも、母が趣味でやっているフラワーアレンジメントの仲間?
 綺羅は様々な可能性を考え、じっと耳を澄ませた。
 すると、大きな声が聞こえた。
「綺羅ー! お友達来てんでー!」
 綺羅はふいに固まった。蒼井の前で、綺羅と名前を呼ばれるのは嫌なのだ。蒼井は半分にやけた顔で「良い名前じゃないか」と言うが、綺羅自身、そんなキラキラした名前は自分に似合わないと思っている。もっと普通の名前で良かったのだ。権太郎とか、康介とか、良い名前なんていくらでもある。とてもじゃないが、今さら両親に言える話ではなかった。改名などという大それた話にするつもりはないし、漢字を見たところで全く読めない名前よりは良かったと、慰めるしかない。
 綺羅が反射的に固まっていると、蒼井は言った。
「どうした綺羅君、呼ばれてるぜ」
「うるさいな」
 蒼井は毒気のある笑い方をした。綺羅はぷいと顔を背け、部屋を出て行く。
 それにしても、階段を降りながら、綺羅は不思議に思った。
 家まで訪ねて来る友達なんて、自分にいただろうか?
 現在綺羅が通うのは中高一貫の私立高校であり、京都だけでなく大阪や奈良から通っている人も多い。蒼井はたまたま偶然、奇跡的に家が近かっただけで、こんな風にべったりした家同士の付き合いがある人なんて、中学生以降は蒼井しかいない。それ以前、例えば小学生の頃を思い出せば、近所に友達はいたが、今さら友達顔をして会いに行ける間柄でもない。広く浅くは、最も孤独だ。
「来たけど」
 そっと階段から玄関を覗くと、母は楽しそうに笑った。
「何してんの、はよおいで。せっかく来てくれはってんから」
「え。誰?」
 綺羅はぽかんとした。玄関口に立っているのは、どう見ても知らない人だ。
「お友達やって言うてるやん」
「え。え?」
 そこにあるのは、にっこりとした純真な笑顔である。綺羅は何が何だか分からず、困惑するばかりである。
「石井拳です。突然お邪魔してすいません。たまたま通りかかったから」
「綺羅に小学生の友達がいるなんて知らんかったわ。まあまあ、上がってもらって、蒼井君にもらったタピオカ、まだ残ってるから持っていくわ」
「え、いや、えと」
「良いんですか! 僕タピオカ大好きで」
 小学生は、それこそキラキラとした眩しい笑顔をしている。拳より、綺羅という名前の方が似合うほどである。交換してもいいくらいだったが、有村拳も何かの技名のようで、どうにもしっくりこない。
「ほんま? それは良かった。まあまあ上がり」
「お邪魔します!」
 小学生らしい笑顔で上がり込んでくるのは、石井拳、つい昨日聞いた名前の彼である。綺羅は言葉が出なかった。
 いったい何がどうなっている?
 石井拳、通称じゃんけん小僧は、勝手知ったるように階段を上がっていく。母は鼻歌混じりの上機嫌だ。友達という言葉は、母をいつだって盲目にさせる。いったい、高校生がいつどこで小学生と友達になれるのか考えてくれと思うが、可能性なんてどこにでも転がっているのかもしれないと、綺羅はだんまりとなる。
 じゃんけん小僧は、軽い足取りで綺羅の部屋を叩く。
「お邪魔しまーす!」
「ちょっとちょっと」
 綺羅の制止もお構いなく、扉を勢いよく開けた。そこにいたのは蒼井である。
 すでに耳で異変は察知しており、身構えた状態だ。
「じゃんけん小僧」
 空気混じりの声は、動揺や驚愕を内包している。やがて苦虫を噛み潰したようになると、「何でここにいる」と唸るように言った。
「昨日ぶりです、お元気でしたか?」
「まずは僕の質問に答えて欲しいね、まさか有村君の家まで上がり込んでくるとは」
「蒼井さんがここに入って行くのを見て、じゃんけんをしに来たんです。蒼井さんは、僕よりも有村さんと一緒にいる方が楽しそうですから、邪魔しに来たといいますか」
「迷惑な話だな」
 じゃんけん小僧は楽しそうに笑う。蒼井に何を言われたところで痛くも痒くもなく、心底楽しそうだ。
 それに比べ、蒼井の口調はつっけんどんである。
 じゃんけん小僧は、子供らしい笑顔を湛え、ぐるりと部屋を見渡した。
「すごい、広いお家ですね。お母さんも優しいし、理想の家庭って感じがします」
「いや、そんなことはないけど」
 褒められて、悪い気分ではない。綺羅は戸惑いながら、静かに扉を閉める。
 部屋にいるのは、綺羅と蒼井、それに謎のじゃんけん小僧だ。
「この部屋は六畳くらいですか。すごい、整理整頓された良いお部屋ですね。雑誌とかに載ってそうです。いつもこんなに綺麗にされてるんですか?」
 問いには、蒼井が答える。
「有村君はミニマリスト的なところがあるからな」
「ミニマリストっていうか、物がごちゃごちゃしてるのが嫌なだけ」
「へー」
 じゃんけん小僧は物怖じせず、部屋を品定めするような視線を送った後、蒼井の隣に座り込む。やがて母がタピオカを持って来ると、嬉しそうに礼を言って受け取った。しかし、すぐに興味はタピオカから逸れ、綺羅と蒼井を交互に見つめた。
「ね、二人でいつも何をやっているんですか?」
 綺羅は目を瞬かせた。毎日蒼井と顔を突き合わせていったい何をやっているのか、綺羅にもよく分からなかったからだ。丸机を囲みだらだらと会話をしていることが、自分の人生にとって何の意味を成すのか、いくら考えても答えは出ない。夏休みに入ってからは毎日こんな感じで、高校生の夏休みとしてはあまりにも地味だ。
 質問には、綺羅の代わりに蒼井が答えた。
「何をやっているということもない、ただ話をしているだけだ」
「良いですね、楽しそうで。僕も仲間に入れて下さい」
「小学生は付いて来られない高度な話をしているから駄目だ」
 嘘吐け、と内心で思うが、綺羅は口を挟まない。状況が上手く呑み込めていないのだ。
「高度な話って何ですか?」
「愚問だな」
 蒼井の態度は終始そっけない。じゃんけんに付き合ってあげている優しいお兄さんかと思いきや、そういうわけでもないらしい。
 じゃんけん小僧はタピオカを三口ほどで食べ終えると、にこにことして言った。
「蒼井さん、今日で決着をつけてしまいましょう。きっと、その方が良いでしょう? この人もいることですし、はっきりと見届けてもらうんです。不正なく、公平に勝負は行われたと証言してもらいましょう」
「僕、そんな重要な役嫌なんやけど」
 綺羅はとんでもないと首を振る。
 人間には直観力がある。直観とは馬鹿にできないもので、それこそが案外真実であることも多い。綺羅は、今までの人生を直観ばかりに頼ってきたわけではないが、生物としての直観が今こそ発揮された。
 このじゃんけん小僧はただの小学生ではない。
 これは、綺羅にとって、すでに真実に近い推理である。あまり嫌な感じはしないけれど、仄かに危険な香りがするのだ。麦茶だと思って飲んだらめんつゆだった時のような、負の方向性としての意外性があるような気がする。
「そこまで重要なわけではありませんよ。念のため、一応見届けてもらおうというだけのことです。蒼井さんだって、別に負けたからと言っていちゃもんを付ける気はないでしょう?」
 じゃんけん小僧の挑発的な言葉に、蒼井は簡単に乗ってしまう。
「当然、僕は公正な人間だ」
 返答に、じゃんけん小僧は満足そうに頷いた。蒼井は、今さら勝負を止める気などないのである。綺羅が止めたところで、聞く耳を持つはずもない。
「有村君やってくれよ、やろうがやるまいが、有村君にとってはメリットもなければデメリットもない話だ」
「メリットがないならやりたくないな」
「器の狭い人間だな、小さい人間は嫌われるぜ」
 綺羅は、むうと唇を尖らせる。蒼井に言われたくはないと、すんでのところまで出かけて、止めた。
「分かった。やるよ」
 盛大な溜息と共に綺羅が承諾すれば、蒼井はおおむね満足そうに頷いた。
「ではそういうことで、続きを始めましょう。今、四百九十九勝四百五十七敗。勝負は残り四十四回です」
「え」
 綺羅は仰天した。これは千回勝負のはずだ。先に五百回勝った方の勝ちである。
「それ、勝ってるのはどっち?」
 綺羅は慎重に問いかけた。
「それは」
「僕ですね」
 蒼井の言葉を遮ったじゃんけん小僧は、余裕の表情だ。
 つまりじゃんけん小僧は、現在四百九十九回勝っているわけである。あと一回勝てば、勝利だ。それに比べ、蒼井は四百五十七回しか勝っていない。あと一回負ければ、この勝負は負けだ。
「そんなん、もう……」
 綺羅は口を噤んだ。こんなの、勝負はすでに決まったも同じだ。
 綺羅の言葉を汲み取った蒼井は、「とんでもない」と首を振った。
「まだ決まっていない、僕が連勝すれば良いだけの話だ」
「いやいやいや、さすがにそれはどうかと思うで?」
「世界じゃんけん協会のワイアット・ボールドウィン会長は、四十三連勝の記録を持っている、僕が出来ないとでも?」
「いやいやいや」
 確かに可能性はゼロではないが、一回でも負けたら負けだ。確率は限りなく低い。世界じゃんけん協会の会長ですら、四十三連勝なのだ。綺羅にすら負ける蒼井が出来るとは、とうてい考えられない。
 このままでは、蒼井がじゃんけん小僧の願いを叶えなければならない。
「蒼井君は負けたらどうするつもりなん? 身体欲しいって言われたら、正直に差し出すつもり?」
「当然、勝負は勝負だ。やり直しはきかない」
「おいおいおい蒼井君」
「それを聞いて安心しました。では、勝負をしましょう」
 じゃんけん小僧は、にっこりとして手を出す。冗談ですよ、なんて声はない。本気にしてたんですか、なんて言うかと思いきや、そんな様子は一切ない。
 蒼井は真剣な様子で頷くと、自らの手を出した。
「僕が勝ったら、蒼井さんの身体をもらいますね」
 幼い笑顔は、恐ろしいほどに純真で真っ直ぐに見える。
 どういう意味なのか、具体的にどうなるのか――そんな質問をしたところで無意味だと思うような、背筋がぞわぞわとする感覚に襲われる。
「臨むところだ」
 蒼井は挑戦的に答えた。
 勝負はもう止まらない。
 蒼井は綺羅を振り返った。
「どんな結果であれ、見ていてくれよ有村君」
「蒼井君」
 綺羅は二人の真ん中に立ち、勝負を見届けるしかない立場にいる。外野が何を言ったところで、何の意味もない。
 止めようがない。
 蒼井の背中には、強い意志が宿っていた。
「ではいきましょう。じゃんけんぽん!」
 掛け声とともに、手は出された。
 勝負は一瞬だった。
 とりあえず一勝くらいはしてくれ――なんて綺羅の願いは、あっさりと打ち砕かれた。
「五百勝」
 じゃんけん小僧はにんまりと笑った。屈託のない小学生の笑顔に、綺羅はひやりと背筋が凍る。
「僕の勝ちです。蒼井さん、僕との約束を覚えていますね?」
 グーとパー。
 間違いなく公正に行われた勝負に、ケチを付ける隙はない。正々堂々勝負をして、蒼井は負けたのである。
 手を握り締めた蒼井は、唇を噛み締めて頷いた。
 何か言うべきなのか迷い、綺羅は押し黙る。
 無理だとは思っていた。けれど、これほどあっさり勝負が付くなんて。
 視線を上げると、蒼井は綺羅を見つめていた。表情から感情を読み取ることは難しい。少なくとも、いつも通りの顔をしているように見える。蒼井はどういう心理状態なのか、にやりとしてから目を逸らした。
「当然だ、僕は約束を破らない人間だぜ」
「では、身体をもらいます」
 じゃんけん小僧は、指を鳴らした。
 パチン、と軽やかな音がする。
 とたん、蒼井の身体が揺れた。気を失ったようになって、床にばたんと倒れる。
「蒼井!」
 驚いた綺羅は、慌てて近寄り名前を呼んだ。蒼井は目を閉じ、いつもに増して青ざめた顔をしている。呼吸は通常で、苦し気な様子はない。眠っているようにも見える様子に、綺羅は混乱した。
「大丈夫か! どしたん! おい!」
「驚くことなんかないじゃないですか」
 はは、とじゃんけん小僧は笑う。
「約束をしていた通り、僕が蒼井さんの身体をもらうだけです」
「ま、待て待て待て待て!」
 青ざめた蒼井を目の前にして、綺羅はぞっとする。
 心のどこかで、これは冗談だと思っていたのだ。こんな訳の分からないことが起きるわけがないと、どこかで思いたかったのだ。
 こいつはやっぱり本物だった。こんな勝負、受けてはならなかったのだ。
 綺羅は、今までの人生でないほどに動揺していた。
 魂が抜けたように、だらんとなった蒼井の身体には、生気がない。
 蒼井という存在が幻だったように、どうにも存在が頼りない。
 綺羅はごくりと喉を鳴らした。蒼井を支える手が僅かに震えているのを感じて、ぎゅうと握り込む。
 このままでは、蒼井がどうなるか分かったものではない。
 勝負は勝負に違いないし、蒼井が良いと言ったのだから綺羅に口出し出来ることは何もない。分かっていても、綺羅は蒼井を放っておくことなんて出来ないのだ。最後に綺羅を見て笑った笑顔の意味を、都合の良いように解釈して、顔を上げた。
「そりゃあ、勝負は勝負やから、いいと思うねん。蒼井君だって本望やろ。でもな、まだ時間はある。小学生が帰るにしたってあんまり早すぎるわ」
 じゃんけん小僧は、綺羅の言葉の意味を図るように黙っている。
 綺羅は、熟考する前に言い放った。
「――僕とも勝負しよう」
 握りこぶしを突き出せば、じゃんけん小僧はぽかんとした。
「有村さんとですか? 何で?」
「何でって。じゃんけん好きなんやろ?」
「いや、別に? 蒼井さんとしたかっただけで、有村さんとしたいとは一度も思ったことはありません。すいませんけど」
「謝らんといてくれ。虚しくなる」
 綺羅は項垂れた。
 一大決心だったのに、あっさりと交わされてしまったのだ。綺羅とはじゃんけんをしたくないと言われてしまえば、どうしようもない。いや待て、ここで諦めるわけにはいかない。
「僕が今めっちゃじゃんけんしたいねん! 付き合ってくれ! この通り!」
「ええー」
 綺羅は全てをなげうって懇願する。もう土下座である。小学生にじゃんけんとねだる高校生など、全国を探しても綺羅くらいのものだろう。
 口を尖らせるじゃんけん小僧に、綺羅は「蒼井がそんなに良いの?」と問いかける。
 すると、じゃんけん小僧はにっこりと微笑む。
「蒼井さんって、素敵ですよね。存在が」
「存在が?」
「唯一無二です。こんな人、長い間生きてきてもなかなか出会えるものじゃないんですよ。匂いが素敵です」
「匂い?」
「分かりませんか? それも仕方がないかもしれません。だって有村さんは、たったの十数年しか生きていませんから」
 匂い。
 存在。
 そんな言葉で蒼井を表現されたところで、綺羅は全く分からない。匂いなんてよく分からないし、存在が素敵と言われても、そんなことはないと断言してしまう。唯一無二というところだけは、まあまあ理解出来るけれど、蒼井は変人なだけである。
 それに、じゃんけん小僧の言葉には理解の範疇を越えるものがあった。
 たったの数十年と言われてしまって、頭の中がクエスチョンマークである。
「えーっと、君、何年生きてる? 小学生、じゃないってこと? なんてな、ははは」
 ふと、じゃんけん小僧は大人びた顔つきをする。悠久の時を超えて来た宇宙船司令官とでも言うのか、一瞬見せた表情には膨大な思い出が詰め込まれているようだった。
「若作りだと思われたくないから言いません。言っときますけど、世の中には僕みたいな少しだけ変わった人間が、山ほどいるんですよ」
「それは……そうなん?」
「へへへ」
 じゃんけん小僧は、小僧と呼ぶのに相応しい天真爛漫な表情に戻る。さっき見せた表情は幻だったと思うほど、何の面影もない。
「笑って誤魔化してもあかんて」
「笑顔は大事です。笑う門には福来る、です」
 頬に人差し指を当て、にーっと笑う。
 綺羅は、胡散臭い笑みに「ああそう」とだけ返した。
 じゃんけん小僧は、これ以上説明をする気はないのだ。もしじゃんけん小僧が宇宙司令官だったとして、気まぐれでじゃんけんをしに地球へ来ていたとしても、真相など綺羅が知る由もない。
「蒼井さんは狙われやすいから、気を付けた方が良いでしょうね」
「狙われやすいって?」
「僕みたいなのに、好かれやすいってことです。じゃあ、ご希望通りに、じゃんけんをしてあげましょう。仕方がありませんからね。年上は、年下の言うことを聞いてあげないといけません」
「それは、どうも」
 案外あっさりと了承してもらい、綺羅はほっとした。じゃんけん小僧の正体に意識を奪われていたが、綺羅が今最も気にすべきは、蒼井のことである。
「じゃんけんは真剣勝負です。一瞬で全てが決まりますから、心が決まったら教えてください。こっちはいつでも万全の状態です」
「ああ、はい」
「僕が勝ったら、蒼井さんの身体はこのまま貰いますね。どちらにせよ、有村さんの身体はいらないので、今まで通り暮らしてください」
「え」
 綺羅は拍子抜けである。
 綺羅が勝ったら蒼井を返してもらい、綺羅が負けたら綺羅の身体をも差し出す展開を想定していたのである。
 自分の身体を見つめる。どこにでもいそうな、男子高校生だ。
「あのー、僕の身体って臭い?」
「臭くはないです。言うならば無臭、何の面白味もないので興味がありません」
「めっちゃ貶されてる気がする」
「安全ってことです。そういう人間は長生きしますよ」
「僕、太く短く生きていきたい。こう、好き勝手に、周りに迷惑をかけて生きていく感じ?」
「それは残念。有村さんは、きっとそういう生き方は無理です。憎まれっ子世に憚ると言いますから、むしろ良い人として生きて行った方が、短く生きられるのでは?」
「細く短くってこと? それはちょっと、僕の理想とちゃうねんなあ」
「それは残念」
 綺羅は心を落ち着けた。これほどじゃんけんに対し熱心になったことはないし、緊張感を持ったこともない。
「僕が負けたら、蒼井はどうなる?」
「僕が蒼井倫太郎として生きていくだけですよ」
「外面の良い蒼井なんか、想像出来ひんな」
「責任重大ですね?」
「責任なんてないし。あいつは好きでじゃんけんしただけやんか。どうなっても、自業自得」
「けっこうシビアな考え方ですね」
「ほんまのことや。でも蒼井と話せなくなるのは、ちょっとだけつまらんかなって。にっこり笑ってる蒼井は、やっぱり気味悪いと思うねん。家族とか、クラスメイトも困るやろ。あいつついに頭イカレたかーって、思うやろ」
「有村さんは、ツンデレですか?」
「まさか」
「この状況を見たのに、僕に勝負を挑んでくる人なんてそういませんよ。けっこうなチャレンジャーですよね。嫌いではないですけど、やっぱり興味はないかな」
「ああそう」
 もうそれ以上は何も言わなくていいと、綺羅は手を上げた。「興味がない」は、嫌いと言われるより辛いものがある。しかし、これが現実だ。こんな得体の知れないものに興味を持たれる方が災難である。
「有村さんが勝ったら、蒼井さんの身体は返してあげます。その代わり、有村さんの大事なものを下さい。あ、身体はいりませんよ?」
「え? 僕、勝ったのに何かを失わなあかんの?」
「千回近くも真剣丈夫をして、一回は勝ったのに何も得られない僕の気持ちを考えて下さいよ。とても寛大な処置じゃないですか」
「そうかあ?」
 綺羅に負けたとしても、今さらただでは引き下がらないというわけだ。蒼井との約束は約束なのだから、確かに不憫かもしれない
 綺羅は納得して、頷いた。
 綺麗ごとだと言われたとしても、やっぱり命より大事なものなど、この世には存在しない。
「分かった。何かあげるから」
「言いましたね」
 言葉と共に、辺りが波打つ感覚があった。二人だけの異空間に来たような気分で、綺羅はじゃんけん小僧を見つめる。
「では、一回勝負。勝ったも負けたも恨みっこなしです」
「おう」
 じゃんけん小僧は手を出した。綺羅も、同じように手を出す。
 負けたら蒼井はいなくなる。勝ったら大事なものを失う。
 どちらにせよ何かを失うが、生きるとはつまり、得て失っての繰り返しである。どちらにせよ失うのだ。それが今だという話。
 綺羅にとって今は、人生の一大勝負だった。
 深く呼吸をする。頭は冴えていた。
 世界じゃんけん協会会長の力を借りるつもりで、綺羅は声をかけた。
「じゃんけんぽん!」
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