4 / 28
其の一 じゃんけん
四
しおりを挟む
しばらく眠っていた蒼井倫太郎は、ゆっくりと目を開けた。瞳に映ったのは、白い天井。そして、有村の顔である。
「おはよ」
「……おはよう有村君、今は何時だ?」
蒼井はゆっくりと身体を起こした。眠気は一瞬にして吹き飛び、顔には訝し気な表情が映る。
「夕方の五時半。そろそろ帰ったら? 家で晩御飯作って待ってはるんちゃう?」
「僕は何をしていた?」
記憶がはっきりしないらしい。蒼井は頭に手を当てながら、難しい顔で問いかける。
「寝てた」
「どうして」
「どうしてって、寝るのに理由がいんの? 眠いから寝るんやろ。三大欲求の一つ」
「そりゃあ、今までだって有村君の家で昼寝をしていたことはあるけど、どうにも奇妙な気分だ」
「奇妙?」
蒼井は深く頷いた。顎に手を当て、いっそう眉間に皺を刻む。
「おかしな夢を見ていた気がする」
「夢って何の?」
「じゃんけんの夢だ。負けて、僕の身体が奪われかけた」
「変な夢やな。でも、夢って変なもんやから逆に普通か」
あははは、と空笑いする有村の声が、部屋に響いた。
有村は、じゃんけん小僧との勝負に勝ったのだった。残念そうなじゃんけん小僧に、有村が何をあげたかといえば、綺羅である。
石井綺羅。じゃんけん小僧は、その名を案外気に入ったようだった。拳は捨てておくよ、と楽し気に言ったのだ。
大事なものと言われ、その時咄嗟に思いついたのが名前だった。気に入っていなかったとはいえ、名前は大事だ。いくつか候補を挙げた中、唯一了承されたのが名前だった。幼い頃に遊んでいたミニカーなどは、じゃんけん小僧に却下されてしまったのである。
名前をあげるなんてぴんと来なかったし、案外気軽な気持ちでやってしまったが、今回の件で、有村は綺羅という名を失った。その影響は多大であった。蒼井が目を覚ますまでの短い間だけでも、有村は実感した。
母親はすっかり息子の名を忘れ、有村を「ちょっと」「ねえ」などと呼んだ。そのことに何の違和感も抱いていないのだ。
有村は事態の深刻さに気付いた。
慌てて、机に置いていた学校の教科書やノートを広げる。そこには、有村という名前だけが書かれていた。下の名前はなかったのだ。書いていたはずなのに、消えている。動揺して、真っ白なページに自分の名前を書こうとした有村は、有村と書いたところで手が止まった。頭がもやもやとして、次に何と書けば良いか分からなくなったのだ。
有村は天井を見上げた。一人で笑った。
有村は、軽い気持ちで名前をあげてしまったことを後悔したが、悪い気分ではなかった。
似合わない名であっても、失うと物寂しいものである。でも、別に良いかと思えた。
有村の名前は、人々の記憶から消え去ったようだった。そんな名前であったことすら、自分でも分からなくなるのだろう。
じゃんけん小僧の力、恐るべし。
有村は降参だと手を上げた。
「有村君」
蒼井は、何も知らない顔で有村を呼んだ。
「どうかしたか、顔色が悪いぜ」
「別に、普通普通。むしろ、ちょう元気」
もともと、蒼井は有村のことを有村君と呼んでいた。そこには何の変化もなく、違和感もない。
けれど蒼井は、違和感を覚えているようだった。
有村は、何も言うつもりはない。名前と引き換えに云々、なんて言ったところで無意味だ。夢と思っていてもらう方がよほど楽だった。幸い、記憶は朧げだ。もしはっきりと覚えていたらどうしようかと思っていた。恩着せがましいのは苦手なのだ。ましてや相手は蒼井である。蒼井の「ありがとう」なんて聞きたくはない。
「そうだ、有村君はじゃんけんの必勝法というのを知っているか。夢の中で、僕は有村君にそんな話をしていて、なかなか愉快だったんだけど――」
蒼井の中で、じゃんけん小僧との記憶はどのように保存されているのだろうか。有村は気になったが、そっとしておくことにした。どうかその記憶は開かないでくれ。見ざる聞かざる言わざるというわけで、猿のような気持ちで蒼井の話をふんふんと頷いて聞く。蒼井が何かおかしいと思っても、有村が何も言わなければ真相など知らないままだ。世の中には知らなくて良いことが山ほどある。
自分がじゃんけんに負けて死にかけた記憶なんて、持っていたところでどうしようもないだろう。
「蒼井君が見そうな夢やな。じゃんけんの妖怪なんて聞いたことないわ」
ははは、なんて有村が笑っていると、蒼井は口を噤む。
珍しく、反省したような、気まずそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべると、一つ嘆息してから言った。
「どちらにせよ、真剣勝負なんて生半可な気持ちでやるものじゃないんだよ、たとえそれがじゃんけんであってもね――――綺羅君も、僕を見て思い知っただろう?」
「おはよ」
「……おはよう有村君、今は何時だ?」
蒼井はゆっくりと身体を起こした。眠気は一瞬にして吹き飛び、顔には訝し気な表情が映る。
「夕方の五時半。そろそろ帰ったら? 家で晩御飯作って待ってはるんちゃう?」
「僕は何をしていた?」
記憶がはっきりしないらしい。蒼井は頭に手を当てながら、難しい顔で問いかける。
「寝てた」
「どうして」
「どうしてって、寝るのに理由がいんの? 眠いから寝るんやろ。三大欲求の一つ」
「そりゃあ、今までだって有村君の家で昼寝をしていたことはあるけど、どうにも奇妙な気分だ」
「奇妙?」
蒼井は深く頷いた。顎に手を当て、いっそう眉間に皺を刻む。
「おかしな夢を見ていた気がする」
「夢って何の?」
「じゃんけんの夢だ。負けて、僕の身体が奪われかけた」
「変な夢やな。でも、夢って変なもんやから逆に普通か」
あははは、と空笑いする有村の声が、部屋に響いた。
有村は、じゃんけん小僧との勝負に勝ったのだった。残念そうなじゃんけん小僧に、有村が何をあげたかといえば、綺羅である。
石井綺羅。じゃんけん小僧は、その名を案外気に入ったようだった。拳は捨てておくよ、と楽し気に言ったのだ。
大事なものと言われ、その時咄嗟に思いついたのが名前だった。気に入っていなかったとはいえ、名前は大事だ。いくつか候補を挙げた中、唯一了承されたのが名前だった。幼い頃に遊んでいたミニカーなどは、じゃんけん小僧に却下されてしまったのである。
名前をあげるなんてぴんと来なかったし、案外気軽な気持ちでやってしまったが、今回の件で、有村は綺羅という名を失った。その影響は多大であった。蒼井が目を覚ますまでの短い間だけでも、有村は実感した。
母親はすっかり息子の名を忘れ、有村を「ちょっと」「ねえ」などと呼んだ。そのことに何の違和感も抱いていないのだ。
有村は事態の深刻さに気付いた。
慌てて、机に置いていた学校の教科書やノートを広げる。そこには、有村という名前だけが書かれていた。下の名前はなかったのだ。書いていたはずなのに、消えている。動揺して、真っ白なページに自分の名前を書こうとした有村は、有村と書いたところで手が止まった。頭がもやもやとして、次に何と書けば良いか分からなくなったのだ。
有村は天井を見上げた。一人で笑った。
有村は、軽い気持ちで名前をあげてしまったことを後悔したが、悪い気分ではなかった。
似合わない名であっても、失うと物寂しいものである。でも、別に良いかと思えた。
有村の名前は、人々の記憶から消え去ったようだった。そんな名前であったことすら、自分でも分からなくなるのだろう。
じゃんけん小僧の力、恐るべし。
有村は降参だと手を上げた。
「有村君」
蒼井は、何も知らない顔で有村を呼んだ。
「どうかしたか、顔色が悪いぜ」
「別に、普通普通。むしろ、ちょう元気」
もともと、蒼井は有村のことを有村君と呼んでいた。そこには何の変化もなく、違和感もない。
けれど蒼井は、違和感を覚えているようだった。
有村は、何も言うつもりはない。名前と引き換えに云々、なんて言ったところで無意味だ。夢と思っていてもらう方がよほど楽だった。幸い、記憶は朧げだ。もしはっきりと覚えていたらどうしようかと思っていた。恩着せがましいのは苦手なのだ。ましてや相手は蒼井である。蒼井の「ありがとう」なんて聞きたくはない。
「そうだ、有村君はじゃんけんの必勝法というのを知っているか。夢の中で、僕は有村君にそんな話をしていて、なかなか愉快だったんだけど――」
蒼井の中で、じゃんけん小僧との記憶はどのように保存されているのだろうか。有村は気になったが、そっとしておくことにした。どうかその記憶は開かないでくれ。見ざる聞かざる言わざるというわけで、猿のような気持ちで蒼井の話をふんふんと頷いて聞く。蒼井が何かおかしいと思っても、有村が何も言わなければ真相など知らないままだ。世の中には知らなくて良いことが山ほどある。
自分がじゃんけんに負けて死にかけた記憶なんて、持っていたところでどうしようもないだろう。
「蒼井君が見そうな夢やな。じゃんけんの妖怪なんて聞いたことないわ」
ははは、なんて有村が笑っていると、蒼井は口を噤む。
珍しく、反省したような、気まずそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべると、一つ嘆息してから言った。
「どちらにせよ、真剣勝負なんて生半可な気持ちでやるものじゃないんだよ、たとえそれがじゃんけんであってもね――――綺羅君も、僕を見て思い知っただろう?」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる