蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の一 じゃんけん

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 しばらく眠っていた蒼井倫太郎は、ゆっくりと目を開けた。瞳に映ったのは、白い天井。そして、有村の顔である。
「おはよ」
「……おはよう有村君、今は何時だ?」
 蒼井はゆっくりと身体を起こした。眠気は一瞬にして吹き飛び、顔には訝し気な表情が映る。
「夕方の五時半。そろそろ帰ったら? 家で晩御飯作って待ってはるんちゃう?」
「僕は何をしていた?」
 記憶がはっきりしないらしい。蒼井は頭に手を当てながら、難しい顔で問いかける。
「寝てた」
「どうして」
「どうしてって、寝るのに理由がいんの? 眠いから寝るんやろ。三大欲求の一つ」
「そりゃあ、今までだって有村君の家で昼寝をしていたことはあるけど、どうにも奇妙な気分だ」
「奇妙?」
 蒼井は深く頷いた。顎に手を当て、いっそう眉間に皺を刻む。
「おかしな夢を見ていた気がする」
「夢って何の?」
「じゃんけんの夢だ。負けて、僕の身体が奪われかけた」
「変な夢やな。でも、夢って変なもんやから逆に普通か」
 あははは、と空笑いする有村の声が、部屋に響いた。
 有村は、じゃんけん小僧との勝負に勝ったのだった。残念そうなじゃんけん小僧に、有村が何をあげたかといえば、綺羅である。
 石井綺羅。じゃんけん小僧は、その名を案外気に入ったようだった。拳は捨てておくよ、と楽し気に言ったのだ。
 大事なものと言われ、その時咄嗟に思いついたのが名前だった。気に入っていなかったとはいえ、名前は大事だ。いくつか候補を挙げた中、唯一了承されたのが名前だった。幼い頃に遊んでいたミニカーなどは、じゃんけん小僧に却下されてしまったのである。
 名前をあげるなんてぴんと来なかったし、案外気軽な気持ちでやってしまったが、今回の件で、有村は綺羅という名を失った。その影響は多大であった。蒼井が目を覚ますまでの短い間だけでも、有村は実感した。
 母親はすっかり息子の名を忘れ、有村を「ちょっと」「ねえ」などと呼んだ。そのことに何の違和感も抱いていないのだ。
 有村は事態の深刻さに気付いた。
 慌てて、机に置いていた学校の教科書やノートを広げる。そこには、有村という名前だけが書かれていた。下の名前はなかったのだ。書いていたはずなのに、消えている。動揺して、真っ白なページに自分の名前を書こうとした有村は、有村と書いたところで手が止まった。頭がもやもやとして、次に何と書けば良いか分からなくなったのだ。
 有村は天井を見上げた。一人で笑った。
 有村は、軽い気持ちで名前をあげてしまったことを後悔したが、悪い気分ではなかった。
 似合わない名であっても、失うと物寂しいものである。でも、別に良いかと思えた。
 有村の名前は、人々の記憶から消え去ったようだった。そんな名前であったことすら、自分でも分からなくなるのだろう。
 じゃんけん小僧の力、恐るべし。
 有村は降参だと手を上げた。
「有村君」
 蒼井は、何も知らない顔で有村を呼んだ。
「どうかしたか、顔色が悪いぜ」
「別に、普通普通。むしろ、ちょう元気」
 もともと、蒼井は有村のことを有村君と呼んでいた。そこには何の変化もなく、違和感もない。
 けれど蒼井は、違和感を覚えているようだった。
 有村は、何も言うつもりはない。名前と引き換えに云々、なんて言ったところで無意味だ。夢と思っていてもらう方がよほど楽だった。幸い、記憶は朧げだ。もしはっきりと覚えていたらどうしようかと思っていた。恩着せがましいのは苦手なのだ。ましてや相手は蒼井である。蒼井の「ありがとう」なんて聞きたくはない。
「そうだ、有村君はじゃんけんの必勝法というのを知っているか。夢の中で、僕は有村君にそんな話をしていて、なかなか愉快だったんだけど――」
 蒼井の中で、じゃんけん小僧との記憶はどのように保存されているのだろうか。有村は気になったが、そっとしておくことにした。どうかその記憶は開かないでくれ。見ざる聞かざる言わざるというわけで、猿のような気持ちで蒼井の話をふんふんと頷いて聞く。蒼井が何かおかしいと思っても、有村が何も言わなければ真相など知らないままだ。世の中には知らなくて良いことが山ほどある。
 自分がじゃんけんに負けて死にかけた記憶なんて、持っていたところでどうしようもないだろう。
「蒼井君が見そうな夢やな。じゃんけんの妖怪なんて聞いたことないわ」
 ははは、なんて有村が笑っていると、蒼井は口を噤む。
 珍しく、反省したような、気まずそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべると、一つ嘆息してから言った。
「どちらにせよ、真剣勝負なんて生半可な気持ちでやるものじゃないんだよ、たとえそれがじゃんけんであってもね――――綺羅君も、僕を見て思い知っただろう?」
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