蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の二 大食い

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 夢を見た。蒼井が曽根に食われる夢だ。ばりばり、ぼりぼりとアニメの効果音のような音が聞こえたのをよく覚えている。これは夢だと、頭のどこかで分かっていた。だから現実味はなく、アニメーションでも見ているような気分だった。動揺はしなかった。だってこれは夢で、フィクションだ。
「…………」
 分かっていても、目覚めは最悪な気分だった。夢だと分かっていたところで、蒼井が食われる現場を見たのである。血が薔薇のように舞っていたのはなかなか幻想的でもあったが、やはりグロテスクだ。
 早く忘れてしまうのがベストだった。清く正しく美しい一日のために、有村は夢をなかったことにしようとした。
 ゲームでもやるか、と寝そべったところで、遠くから玄関のチャイムが聞こえる。応答したのは母友恵だ。何やらガチャガチャと音がした後、甲高い声が聞こえた。親し気な声に、蒼井だろうかと起き上がる。
 約束もしていないのに、よくも毎日飽きずに来るものである。ゲームを横に置いたところで、歓談を上がる足音が聞こえた。タンタンタン、とリズミカルな足音を聞いて、有村は訝しく思った。足音が多い。
 二階に到達したタイミングを計って、有村は自室の扉を開く。
 ぎょっとした。そこには蒼井と曽根が立っていたのだ。
 なぜ?
 可愛い女の子が家に来たぞわーい、なんて考えは浮かばず、まず浮かんだのが疑問である。
 頭にハテナを飛ばしながら立ち尽くしていると、蒼井は「やあ」と存外機嫌が良さそうに挨拶をした。曽根は半歩後ろで、控えめに会釈をする。どこからどう見ても、大人しくて綺麗なお姉さんだ。
「邪魔するぜ、ほら、曽根さんもどうぞ」
「し、失礼します……」
 有村と二人きりの時と比べると、曽根は終始緊張気味だ。表情は硬く、恥ずかしそうにうつむいている。
 蒼井に促され、曽根は有村の部屋へ控えめに入って行く。いつも二人で囲んでいる小さなテーブルの前に座ると、スカートがふわりと揺れて、曽根の足の下に収まった。睫毛が遠慮がちに震えている。
 有村は扉の前に立ち尽くしたまま、その光景を眺める。蒼井は自分の家のように振る舞い、「飲み物は何がいい?」などと聞いている。
「ええと、何でも……」
「じゃ、僕と曽根さんはメロンソーダ、有村君は麦茶で」
「僕のまで勝手に決めんな」
「有村君はメロンソーダを飲まないんだから仕方がない、本当は炭酸が苦手な人生なんて、損過ぎて目も当てられないと思っているけど、僕は有村君の趣味嗜好を最大限尊重しているんだぜ」
「そりゃどうも!」
 有村は二人に背を向けた。説明もないままだが二人をもてなすために、一階へ飲み物を取りに行くのだ。何と器の大きな人間だろうか。
 すると、蒼井が背中に呼びかけた。
「僕が行こう」
「お客様たちはどうぞお座りください!」
 立ち上がりかけた蒼井を制し、有村は一階の台所へ下りて行く。何となく、曽根と二人きりになるのは避けたかった。曽根だって、有村より蒼井と二人きりになりたいだろう。
 台所では、母友恵がにやにやとして待っていた。
「あの子、どしたん? 蒼井君の彼女? それともあんたの彼女? えらい別嬪さんやんか」
「どっちでもない。メロンソーダ二つと麦茶持ってくから」
「ああそうなん? こんなことなら、お洒落なお菓子でも買っとくんやったなあ」
「普通のお菓子でいいやろ。向こうもアポ取ってたわけちゃうしな。あ、ビスコあった。おいしくてつよくなる」
「ビスコでええんか?」
「ええんちゃう? 知らんけど」
 有村はそそくさと台所へ出た。
 母親の視線を背中に受けながら、そそくさと階段を上がる。女の人を家に連れて来るのは初めてだったから、気になるのだろう。実際、連れて来たのは蒼井だけれど。
 盆に乗ったビスコの袋には、笑顔の少年がいる。曽根がこれを食べたら少年のようになるのだろうか? あるいは、腕っぷしが強くなる可能性もある。いろんなことを考えながら、自室の扉をノックした。
「お待たせ」
 部屋はしんとしていた。二人きり、会話はなかった模様だ。
 飲み物を机に置きながら、曽根へ視線を送る。
 曽根は膝の上で拳を握っていて、軽く汗をかいていた。じっとしていて汗をかく温度設定ではないはずだが、感情がいろいろと高ぶっているせいだろうか。対し、蒼井は涼し気な表情だ。会話がないことに何のプレッシャーも感じていない。
「今日はビスコ付きか、豪華だな」
「豪華か?」
 メロンソーダを二人の前に置く。曽根は「ありがとうございます」と微かな声で言った。緊張がほぐれるどころか、悪化の一途だ。蒼井を前にすると、普通ではいられないのだろう。
「えーっと、それで?」
 有村は、さっそく問いかけた。
 この状況に対する説明を求めたのである。蒼井だけが来るのならいつものことだが、曽根まで来るとあっては普通ではない。
 カニバリズムの件といい、有村の胸には嫌な予感が溢れている。
 蒼井はメロンソーダに手を伸ばしながら、曽根へ視線を送った。
「今日は、僕は主体じゃない、曽根さんが有村くんに用があって来たんだ」
「え?」
 顔を赤く染めている曽根は、深くうつむいている。
「そ、そう、なんです、すいません、急に」
「それは良いんですけど」
 曽根と会ったのは近くのコンビニだ。有村の家を知っているわけもない。
 蒼井に訊いてわざわざ家までやって来るほどの用事とは、いったい何だと言うのだろうか。
 曽根の言葉の続きを待ってみるものの、なかなか曽根は話し出そうとしない。蒼井の前だと、いつもこんな調子である。
 すると、蒼井が口を開いた。
「昨日、割引券を使ってメロンソーダを飲みに行ったんだ、そこで彼女に大食い勝負を申し込まれた、僕は勝てない勝負はしない主義だと答えた」
「懸命な判断やな」
 有村は頷く。話さない曽根にしびれを切らした蒼井が、事情を説明する気らしい。なかなか親切じゃないかと思うが、こういうところが、曽根が蒼井のタイプではない理由の一つなのだろう。
「で、有村君に勝負を申し込みに行きたいと言われたんだ」
「僕?」
 有村はぽかんとする。曽根を見れば、やっと顔を上げている。控えめな視線が、有村をそっと伺っていた。
 曽根と大食い勝負。
 嫌な予感がした。
「大食い勝負、しませんか」
 真っ直ぐすぎる言葉に、有村は狼狽える。冗談であるわけもない。曽根が冗談を言うところなんて、見たことがなかった。
「何でですか? 僕と勝負って、いったいどういう風の吹き回しで?」
「わ、私、誰かと勝負して勝てるとしたら、大食いしかないんです。それで、あの……」
 曽根は拳を握り締めた。呼吸だけで緊張感が伝わって来る。
 曽根は素知らぬ顔をする蒼井の横顔を見てから、有村を真正面から捉えて言った。
「私が勝ったら、蒼井さんを下さい!」
 デジャヴという言葉が頭を過る。
 空気が一瞬にして張り詰めた。
 さすがの蒼井も驚いたのか、目を開いて曽根を見つめている。
「有村さん、私と勝負してくれませんか。有村さんと私なら、実力はほぼ同じはずです。勝てない勝負はしないなんて言わせません」
「ちょっと待って下さい、蒼井さんを下さいて言ったって」
「負けたら、今後一切蒼井さんに近づきませんから」
「え? ほんまに? どういう意味で言ってます?」
「そのままの意味です! 愛の話です! スピリットです!」
「spirit?」
 蒼井がやたら発音良く言って、首を傾げる。
「いや、いやいやいや、そんなん僕に言われても困りますって」
「そこを何とか」
「何とかって言われても」
 惚れた腫れたの話とは思えない。
 蒼井が欲しいというのはつまり、蒼井を食べて蒼井になりたい、ということだ。曽根は真剣んである。
 蒼井は、稀に見るおかしな顔をしていた。有村から話を聞いている以上、求婚されているだけだとは思えないのかもしれない。顔面に「不可解」を貼り付けたまま、蒼井は深く考え込んでいる。
 とにかく有村は、勝負を受けるわけにはいかなかった。これはあかんパターンであると、有村は知っている。
 このまま流されれば、確実にあかんルートに入ってしまう。つまり、じゃんけん小僧ルートだ。
 そのせいで有村は、名前を失ったのである。あれ以来、有村は有村でしかなくなった。そのことに違和感を覚えることも少なくなってきた。思い出そうとしても、すっかり記憶から抜けているのだ。そのうち、名前があったことすらも忘れてしまうだろう。
 蒼井はたまに、有村の名前を呼ぶ時に変な顔をする時があるが、違和感でも覚えているのかは定かではない。
 有村は、失った有村の名前を最後に呼んだのは、蒼井だったことだけ覚えていた。
「僕なんてほんまは小食やし、いっつもあっぷあっぷですわ。言ってませんでしたけど、大食いチャレンジした後、一週間は何も食べれませんから」
「え、ええと、チャレンジ後すぐ、甘いものが食べたいって言って、プリンと胡麻団子と杏仁豆腐を注文してたことあるって蒼井さんから聞いたんですけど……あれ? あれは夢?」
「間違いなく夢ですね」
「え、ええ?」
 そんなはずはない、あれは現実だ――曽根はもの言いたげな顔をしているが、口に出すことはない。そういう人なのだ。言いたいことが言えない。蒼井とは正反対である。
 よけいなことを言ったな、と目線で蒼井を責める。蒼井は有村の視線に気づくことなく、考えに耽っている。
 何がどうしてこうなったのだろう。
 曽根はなぜか、有村に了承を得ようとしている。有村は蒼井の親でも家族でもない。なぜか、曽根は有村に固執していた。
 困る。頭にはその文字ばかりが回っていた。
 もし勝負を受けて、負けたら蒼井は食われて死ぬのか? そんな馬鹿なことがあって良いのだろうか?
 勝負を受けるなんて、絶対に駄目だ。
 幸い、曽根は困ったようにうつむいている。押しが弱いのだ。二人の時ならまだしも、蒼井のいる手前上手く立ち振る舞うことも出来ないでいる。
 よし、これならいける――有村が内心で思っていた時である。
「勝負をするなら真剣勝負だよ」
 蒼井は表情のないままに言った。
「曽根さんが勝負したいと言ってるんだ、受けてやっても有村君にデメリットはないだろう」
「はあ?」
 有村は驚きに声を上げた。
 まさか、蒼井が曽根の味方をするとは思わなかったのだ。
 やはり蒼井は、まさか食われるとは思っていないのだろうか。澄ました顔で、可愛い女の子と付き合える可能性について考えているむっつりなのか。
 心配してやっているのに、蒼井はいつだって無謀なことをしがちだ。じゃんけん小僧の一件を真相心理で覚えているのか、「勝てない勝負はしない」とは言うものの、これだってたいがい危険な賭けだ。
 食われるかもしれないんだぞ、と視線で蒼井に訴えかけるも、蒼井に前言撤回する様子はない。
 自転車を食べる女やで、とは言いたくても言えなかった。これでは曽根と同じだ。
「いやいやいや、そもそも僕が立ち入って良い話ちゃうやろ。当事者同士で話し合えや」
「話し合いの場を設けられてなくてな」
「今! ナウ! ここでいいからやってくれ! 何なら席外そうか!」
「いや、それには及ばない」
 蒼井は腕を組むと、曽根へ向き直る。
「曽根さん、どういうことか、僕にもう一度説明してくれないか」
 曽根は、分かりやすく顔を真っ赤にさせた。目を伏せ、睫毛を震えさせる。
「わ、わたし、その」
 待てども、続きの言葉は出てこない。
 有村にとって、蒼井は緊張の対象にはならないから理解出来なかったが、曽根は蒼井を前にすると言葉が出なくなる。理由は緊張だ。曽根は、蒼井のファンなのだと言っていた。ファン心理とはそういうものなのだろうか。 
 蒼井はつまらなさそうに溜息を吐く。
「この通りだよ有村君」
 ひょいとアメリカ人のように肩を上げる。この状況では、「そうね」としか言いようがない。曽根は蒼井と普通に会話をすることさえままならないのだ。
「話し合いで全てが解決出来たら、戦争なんて馬鹿げたものは起こらない、人間は分かり合えない生き物なんだ」
「何を言っとんねん」
「悲しいことだね」
 蒼井は頬杖を付くと、有村を試すような目つきになる。
「僕は良いと思うぜ、有村君が勝てば、曽根さんは今後一切僕に近づかない、曽根さんが勝てば、願い通り僕は曽根さんのものになる、僕のことはどうしてくれても構わない」
「まじで?」
「まじだよ、僕は有村君と同じでボケたりしたことのない人間なんだ、お上品さで言うと僕の方が有村君よりよほど格上だ」
 有村は反論の言葉をぐっと堪えた。それよりも言わなければならないことがあったからだ。
「なあ、まじでいいの? 僕ほんまに知らんで?」
 考え直せ、やめろ――視線で訴えかけるものの、蒼井は挑戦的な目をしている。
 いつも無謀なのだ。昔から、蒼井にはこういうところがある。
 飛んで火にいる夏の虫と言うけれど、蒼井はまさしくそれである。
 曽根は、大きな目で蒼井を見ていた。きらきらとした感情が浮かんで見える。曽根にとっては当然、勝てば蒼井が自分のものになるのだ。願ったり叶ったりである。
「じゃあ、良いってことですよね。日時は合わせますので、有村さんの都合の良い時にしましょう」
「え、ええ……」
 はいではそうしましょう、なんて言えるわけがない。いくら蒼井がやると言ったって、有村がやらないと言えば良いのだ。すっかりやる方向になっているが、有村はふるふると首を振る。
「何だ、意気地なしめ」
「それ僕に言える立場ちゃうからな? 僕は、ただ」
 有村はふいに口を噤む。
 何と言葉を続けたものか、分からなかったのだ。
 有村の様子を見て、蒼井はふんと鼻で笑った。
「僕は有村君が負けるなんて、一ミリ足りとも思っちゃいない」
「一ミリくらいは考えろや」
「有村君の胃袋はブラックホールだ」
「ごめんやけど、まじでブラックホールじゃないし限界はあんねん。肌色やねん。他人を簡単に信頼するのは良くないって。信じて良いのは自分だけとちゃうんかい。前自分で言ってたやん」
 蒼井は心外だという顔をして、有村を見た。
「当然有村君を信頼しているわけじゃない、有村君の胃に敬意を払っているだけだ」
 臓器に敬意を払われても、言葉に困る。有村は文句を言いたかったが、ぐっと堪えて頭を垂れた。
「そんなん、責任重大やんか」
 蒼井はにやにやと笑うばかりだ。有村の反応を見て楽しんでいる節がある。
 くそう、とじわじわ腹が立って来る。蒼井とはこういう奴なのだ。心配してやっているのに、人の思いなんて知らない顔で無謀なことをする。
「ほんまに知らんからな」
「お、やっと決まったか、責任があるからこそ人は大人になれるんだ、無責任な大人なんて目も当てられないんだぜ、有村君にはそういう大人になって欲しくないね」
「蒼井君は僕の親か?」
 どうなっても知らん、自己責任やからな――有村は何度も蒼井に言って聞かせた。あるいは、自分に言い聞かせていた。
 勝負を受けたのは実質蒼井だ。有村は、やらないと明確に意思を表した。
 もやもやとしながら、有村は溜息を吐いた。
 もし、またじゃんけん小僧のような展開になったら、有村はいったい何を捧げれば、蒼井を取り戻せるのだろうか?
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