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短編用
5 婚約時の契約 sideナサニエル
しおりを挟むそして今、婚約破棄を告げた婚約者は、観念したのか書類を取り出して署名を求めてきた。
破棄ではなく白紙に戻す書類だと言うそれは、内容を確認しても、婚約は白紙撤回として今後双方干渉しない事や、婚約時に契約した事は無効となる旨が書いてあるくらいで、問題は無いと署名をした。
署名の後に返した書類を、クレアは大事そうに俺の文字を指で辿っていた。
署名はしたのだ。今更そんな仕草をしても、何も変わる事はないと苛立って声を上げた時、彼女の上げた顔に息を呑んだ。
大粒の涙を零しながら、それはそれは嬉しそうに感謝の言葉を述べたのだ。
「…なにを…」
感謝の意もわからず、長年見ていなかったその笑顔にやっと絞り出した言葉ではあったが、クレアからの返答は無く、そのまま俺に背を向けて足早に扉へ向かって行く。
声を掛けようとして戸惑った。
今更何を言おうとしているのか自分でもわからなかったが、ただどうしてあんな笑顔を見せたのか、何に感謝していたのか気になった。
俺を好いていたわけでは無かったのかと、胸中にじわりと立ちこむ何か。
答えを聞けばすっきりするだろうと、再度声を掛けようとした時、クレアが足を止めて徐にこちらへ体を向けた。
やはり俺に言いたい事の一つでもあるのだろうと思うと、なぜか少しだけ胸がすいた。
一瞬だけ絡んだ視線は、次の瞬間にはお互い一枚の書類へと注いだ。
光輝いていたそれは、表面に紋様を浮かべると光の粒子となって消えていった。
貴重な契約などに魔法を使う事があるのは知っていたし、全てではないが王族の婚姻でも使用する事があるのも知っていた。
だが、俺の知識が正しければ、婚約程度で使用するものではなかったはずだ。
困惑し始めた俺の脳は、ピキリと空気が割れるような音と共に驚きで占められた。
突然、クレアの顔に亀裂が入ったのだ。次第にそれは音を立てて全身に広がり、パキンと一際高い音を放つと、光の粒子になって弾けた。
そして、光が消えた後に佇んでいたのは、呼吸を忘れてしまう程の美しさをもった女性だった。
彼女はゆっくりと大きな瞳を開くと、自分の体を確認するのように、手の平や甲を見たり、腕を触ってみたり、スカートを少しばかり持ち上げて膝を曲げ、足を見つめたりしていた。
「はぁ…せっかくお化粧したのに、台無しだわ。まぁ靴も丁度良くなったし、胸は…ちょっと苦しくなっちゃったけど」
息を吐いて、そう言いながら触れる胸に、彼女の指先が沈み込むのが見えた。
ふと視線に気付いたように、彼女がこちらへ顔を向けた。
「この姿でお会いするのは初めてかと思います。開催の宣言もされておりませんが、お騒がせしてしまいましたので、クレア・ティレット、退出させていただきます」
そうして彼女…いや、クレアはまるで絵画のように美しいカーテシーをした。
俺は到底理解が追いつかなかった。
「どういう事だ…」
答えを求めるように吐き出した。
クレアは首を傾げ、大きな瞳を瞬かせていた。
「どういう事だと聞いている!お前は私を謀っていたのか!」
突然湧き上がる焦燥感を払うように声を荒らげた。
少しずつ追いついていた脳が出した言葉は、先程微かに浮かんだもの。
クレアに俺への想いなんて無かったということだった。
もしこれが、この姿がクレア・ティレットとするならば考えられる事だ。この焦燥感の意味さえも……。
「謀っていたのかと言われましても……。これが、婚約するに際しての契約の一つですの」
申し訳無さそうにクレアは言うが、俺にはわからなかった。
「ご存知無いのも無理はありません。王子に知らせないという事も契約の一つですから」
そう続けたクレアの言葉に、俺は今までに無いほど混乱した。
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