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第五章②
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歯磨きをしてからは桜がお昼寝の時間だと言って、一華と沙夜を畳のある部屋に連れてゆき、体が痛くない様にマットレスを敷き、扇風機を回してやってから二人がリュックの中にぎゅうぎゅうに詰めてきたバスタオルを掛けて、「おやすみ」と襖を閉める。
「はぁ、お腹一杯」
アイボリーのソファに腰掛けて桜が笑い、隣に座る様にポンポンと軽く叩く。
それに忠臣は会釈をして腰掛けた。
「ピアノ、流石にお上手ですね」
二人の事を考えて少し音量を下げた声で先ほどの事を言うと、桜が「おおきに」と恥ずかしそうに頭を下げる。
「大学生になってから、東京で一人暮らしをしているんですか?」
「はい、最初は何もかも京都と違うてて迷いましたけど、人間なんとかなるもんです」
「俺は生まれも育ちも東京なので、違う土地で一人で暮らすという経験はなくて……桜さん、凄いですね」
「いいえ、それを言うたら忠臣さんのご学友かて、地方から来はって一人暮らししてはる方いはるでしょう?」
「そうですね」
その通りだ。
その通りなのだけれども、今は忠臣は桜を褒めたい。
少しでも彼女の気を引いておきたい。
そんな下心があった。
「忠臣さんは何のお勉強をしてはるんですか?」
「経済学部です。父の後を継がないとならないので」
少し苦手そうに忠臣が答え、その言葉の先を想像して桜がほっそりとした手で口元を覆う。
「まぁ、ほな……やらしいこと言いますが、ええ所のお人なんですか?」
「どうなんでしょうね? 自分が生まれ育った環境の事はよく分からないのですが、多少は恵まれた環境なのかもしれません」
夏の熱気なのか、隣に座った彼女の体温が感じられるのか。
はたまた意識している自分の早とちりなのか。
座っている忠臣の半袖のシャツから出た腕の表面が、チリチリと神経が過敏になっている気がする。
また肌が触れ合ってしまったらどうしよう?
また目が赤くなってしまったらどうしよう?
化け物だとバレてしまう。
嫌われてしまう。
それが怖くて、先ほどから忠臣は桜と目を合わせられずにいた。
「私も……、ちょびっとは恵まれた環境なのかもしれへんです。一人暮らしするマンションがあって、グランドピアノも置かせてもろて、音楽大学にも通わせてもろて」
言われてみれば、桜の環境というのもお嬢様っぽい感じがする。
立ち振る舞いも上品だし、ピアノを生業にしたいという人間は多くいても、一人暮らしの先に専用のグランドピアノがあるだなんて余程だ。
普通ならアップライトのピアノがあってせいぜい。
きっと、京都の名家のお嬢様なんだろうか?
何となく心でそう思いながら、自分もそういう様な家に生まれたので家の事とかはあまり話題にするのが気恥ずかしい。
自分の家が金持ちだとか、恵まれているとか、それを自慢する学友は数人いた様な気がしたが、それは自分が成功してなった立場ではないし、自分が稼いだお金ではない。
人の褌で相撲を取るつもりはないから、忠臣は出来るだけ外では自分の家柄の事などは言わないようにしている。
持ち物はいい物を長く使うようにしてはいるが、あからさまに目立つ様なブランド品を持ち歩いたりはしない。
忠臣が心から渇望しているのは、人並みである事。
何よりも願って止まない味覚障碍の事については、もう諦めている。
「忠臣さんの味覚障碍……、治ったらええですね」
ぽつり、と落とす様に桜が言葉を紡ぐ。
「私は普通に生まれましたさかいに、不自由な方の事はぜぇんぶ想像するしか分からへんのです。
高校生の社会科の授業で、障碍を持ってはる方と一日を過ごすっちゅう課外授業がありましたが、あとでお友達がもし自分に腕がなかったら、とかいうお話をしたりもしたんですが、ピアノに夢中な私には考えただけでも恐ろしくて。
そやし、ああやって障碍があっても笑って元気に生活してはる方を見ると、私も気張らな、て思いまして」
「体の一部、何処に関しましても、無駄な所なんてありませんものね」
「ほんまに。それに私食いしん坊やさかいに、ほんまに忠臣さんがお気の毒で。ああ、あの……変な言い方になってまいました。同情とかやなくて……」
「いえ、いいんです。お気持ちは分かっているつもりです。桜さんはお優しいですね」
忠臣が桜の言葉に理解を示すと、桜は有り難そうに「おおきに」と小声で礼を言う。
「桜さん……、何か香水をつけてらっしゃいますか? 甘い系の」
「え? いいえ? 何か匂います?」
急に忠臣が話題を変えて桜が隣の彼を覗き込み、それから自分の腕や手に鼻を寄せてみる。
納得するまで匂いを嗅いでみて首を傾げ、結論を出して一言。
「いやや、そないに匂うんかな? あの、香水を直接体とかにはつけてへんのです。私もあんまりきつい匂いは好きやのうて。ただ、お風呂に入る時に一滴香水を入れたり、ボディクリームに少し香水を入れたりとか、そういう使い方はしてます」
そう説明をしてから、首を捻って「汗かいたからやろか?」とまた体の匂いを嗅いでいる。
「女性らしい工夫をしているんですね。俺も女性がいい匂いがするのは大賛成ですが、あまりプンプンと匂いがするのもあまり……。金木犀や百合の匂いも正直あまり強すぎるな、と思っている手合いなので」
桜の身だしなみの意識に忠臣が関心を示すと、それを変な風に取ってしまったのか、桜が恥ずかしそうに顔を伏せた。
「あの、ほんまにすみません。そないに匂うんやったら、もうちょっと離れます……」
消え入りそうな声で謝り、腰を浮かせてソファのギリギリまで離れてゆく桜の反応に、忠臣が内心「しまった」と舌を出す。
「いえ、そうじゃないんです。俺の言い方が悪かった。そうじゃなくて――」
思わず何気なく掴んだ桜の手首の細さに忠臣がギクリと体を強張らせ、固まってしまう。
桜もそんな風に忠臣に手首を掴まれるのが意外だったのか、大きな目を丸くして固まり――。
きし
アイボリーのソファに忠臣の手がついて体が寄り、大きな手の親指がそっと柔らかい唇をなぞってから、唇と唇が重なった。
二人共、どうしてこうなったのか分かっていない。
お互いに好意は抱いていた。
けれども、初対面で会った人間に対して踏み込むには、お互いぎこちなくて。
もっと仲良くなりたいと思っていて、少しずつお互いの身の回りの事などを話して、距離を縮めていくつもりだった。
それが――、
気がついたら忠臣の体が動いていた。
ただ唇を押し付けるだけのキスが終わって、忠臣がそっと桜の面を押さえていた手を外し、欲情している目をそっと逸らす。
チッ、チッ、チッ、チッ、……
壁時計の音がやけに大きくリビングに響く。
「……すみません、つい」
吐き出した忠臣の声は、羞恥と悔恨でかすれていた。
「すみません」
もう一度呟いて、帰ろうと思って立ち上がると、今度は桜が忠臣の手首を掴んだ。
「?」
強く引いてまたソファに座らせ、驚きと戸惑いを隠せないでいる忠臣の茶色い目に桜が映り、アップになって――
チッ、チッ、チッ、チッ……
襖の向こうから一華の寝息が聞こえる。
襖一枚を隔てて、熱く漏らされる吐息。
二酸化炭素が絡まりながら吐き出されて、それをすぐに吸い込んで濡れた音がする。
幼い目が襖の隙間から覗いているのを、二人は知らない。
夏の陽気に浮かされた様に二人の舌が絡み合い、幼い黒い目がじっとそれを見ている。
いつの間にか目を覚ました沙夜が、尿意を感じて起きようとして、襖の向こうで桜と忠臣が二人きりで話しているのに聞き耳を立てていたのだ。
話の内容はよく分からなかったが、途中で話し声が途切れて不思議に思い、そっと襖を開いてしまった。
幼稚園児が覗いた、大人の世界。
やがて、重なっていたシルエットが離れて二人がそれまでの様に隣り合って座ると、少ししてからまたポツリポツリと会話をする声がある。
その二人の手がソファの上で重なっていたのを沙夜は見て、確信した。
あの二人は『ケッコン』する二人だ。
沙夜が振り返ると、姉の一華は自由な寝相で平和に寝ている。
自分はこんなに恋愛に敏感なのに、姉ときたら、というおませな事を思って溜息をつき、それから桜と忠臣の秘密を知っているのは自分だけなのだと思い、興奮してバスタオルを体に巻きつけた。
桜ちゃんとお兄ちゃんがしていたのは、『キス』だ。
あの二人は好き合っていて、イシキし合っていて、『ケッコン』する。
幼い沙夜の頭の中でそれだけがグルグルと回り、アニメの中に出てきた女の子が変身して『お嫁さん』になったシーンの、綺麗な白いドレスを思い浮かべた。
それを綺麗な桜が着るのかと思うと、嬉しくて堪らない。
もしかしたら、『ケッコンシキ』の時に自分もママに新しいお洋服を買って貰えるかもしれない。
美味しいもの食べられるのかな?
『ケッコンシキ』って何をするんだろう?
そんな事を考えていると、忘れていた尿意を思い出して沙夜が慌て、わざとらしく物音を立ててから襖を開けた。
「あら、さっちゃん起きたの?」
桜は何もなかった顔で沙夜に笑いかける。
「桜ちゃん、おしっこ」
「はぁい」
立ち上がった桜がサブリナパンツを穿いた脚を動かして沙夜と手を繋ぎ、トイレに付き合ってやる。
二人が廊下の方へ消えてゆくのを忠臣は見送り、一人になって溜息をついて大きな手で顔を覆った。
何をしてるんだ。
初対面の女性にあんな事。
でも、桜さんも応えてくれた。
希望を持ってもいいのだろうか?
いい香りがずっと強くなった気がする。
彼女も興奮していたのかな?
だとしたら嬉しい。
――嬉しい。
味覚は破壊されているが、嗅覚と聴覚、視覚は桁違いにいいと思っている。
大学や街中を歩いていてそれですぐに具合が悪くなってしまったりはあったが、今はそれらの事を全て含めてでも、今自分が人生最高に幸せである事の為の基盤なのかとも思えた。
山あれば谷あり、と言う。
今まで味気ないモノクロの生活をしてきて、金銭的には恵まれているもののこれからもずっとこんな生活が続くのかと思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
家にいる『化け物の父』をあまり直視したくなくて、出来るだけ家から出る様にしていたが、今日はそのお陰で桜と出会えた。
初対面でこんな所までとんとん拍子に話が上手く進むなんて、そうそう滅多にない。
きっと、自分達二人は運命に祝福されているんだ。
そういう浮かれた気持ちが忠臣の中に沸き起こって、思わず忠臣はクッションを抱えて抱き締めていた。
今はまだ桜をこうするには早い気がする。
だが、この春が訪れた喜びをどうにかしたい。
桜が沙夜を伴って戻ってくるまで忠臣はクッションを抱き締めて顔を埋め、トイレの方から水が流れる音がすると、そっとクッションを元あった場所へと戻した。
やがて一華も起きて元の騒がしさが戻り、桜の提案で四人でトランプをする事にする。
「え~? 沙夜トランプ出来るの?」
「さっちゃんお利口やさかいに、数字分かるもんな?」
「うん! 十までわかるよ!」
「そやったら、十から上は桜ちゃんが教えたげる。何なら出来るかなぁ?」
「だったら、七並べはどうですか?」
「あ、ええですね。ルール簡単やし」
「私できる!」
一華が自慢そうに手を上げて小鼻をひくひくとし、姉の態度に沙夜も対抗する。
「沙夜だって出来るもん! 桜ちゃん教えてくれるもん!」
「ほな、いっちゃんとお兄ちゃんチーム、さっちゃんと桜ちゃんチームになろっか」
それから七並べが始まり、時折桜が関西ルールを持ち出して忠臣と意見の食い違いになって笑いが起こり、東京生まれの一華も知っている関東ルールで七並べが、何度も何度も繰り返し行われた。
「はぁ、お腹一杯」
アイボリーのソファに腰掛けて桜が笑い、隣に座る様にポンポンと軽く叩く。
それに忠臣は会釈をして腰掛けた。
「ピアノ、流石にお上手ですね」
二人の事を考えて少し音量を下げた声で先ほどの事を言うと、桜が「おおきに」と恥ずかしそうに頭を下げる。
「大学生になってから、東京で一人暮らしをしているんですか?」
「はい、最初は何もかも京都と違うてて迷いましたけど、人間なんとかなるもんです」
「俺は生まれも育ちも東京なので、違う土地で一人で暮らすという経験はなくて……桜さん、凄いですね」
「いいえ、それを言うたら忠臣さんのご学友かて、地方から来はって一人暮らししてはる方いはるでしょう?」
「そうですね」
その通りだ。
その通りなのだけれども、今は忠臣は桜を褒めたい。
少しでも彼女の気を引いておきたい。
そんな下心があった。
「忠臣さんは何のお勉強をしてはるんですか?」
「経済学部です。父の後を継がないとならないので」
少し苦手そうに忠臣が答え、その言葉の先を想像して桜がほっそりとした手で口元を覆う。
「まぁ、ほな……やらしいこと言いますが、ええ所のお人なんですか?」
「どうなんでしょうね? 自分が生まれ育った環境の事はよく分からないのですが、多少は恵まれた環境なのかもしれません」
夏の熱気なのか、隣に座った彼女の体温が感じられるのか。
はたまた意識している自分の早とちりなのか。
座っている忠臣の半袖のシャツから出た腕の表面が、チリチリと神経が過敏になっている気がする。
また肌が触れ合ってしまったらどうしよう?
また目が赤くなってしまったらどうしよう?
化け物だとバレてしまう。
嫌われてしまう。
それが怖くて、先ほどから忠臣は桜と目を合わせられずにいた。
「私も……、ちょびっとは恵まれた環境なのかもしれへんです。一人暮らしするマンションがあって、グランドピアノも置かせてもろて、音楽大学にも通わせてもろて」
言われてみれば、桜の環境というのもお嬢様っぽい感じがする。
立ち振る舞いも上品だし、ピアノを生業にしたいという人間は多くいても、一人暮らしの先に専用のグランドピアノがあるだなんて余程だ。
普通ならアップライトのピアノがあってせいぜい。
きっと、京都の名家のお嬢様なんだろうか?
何となく心でそう思いながら、自分もそういう様な家に生まれたので家の事とかはあまり話題にするのが気恥ずかしい。
自分の家が金持ちだとか、恵まれているとか、それを自慢する学友は数人いた様な気がしたが、それは自分が成功してなった立場ではないし、自分が稼いだお金ではない。
人の褌で相撲を取るつもりはないから、忠臣は出来るだけ外では自分の家柄の事などは言わないようにしている。
持ち物はいい物を長く使うようにしてはいるが、あからさまに目立つ様なブランド品を持ち歩いたりはしない。
忠臣が心から渇望しているのは、人並みである事。
何よりも願って止まない味覚障碍の事については、もう諦めている。
「忠臣さんの味覚障碍……、治ったらええですね」
ぽつり、と落とす様に桜が言葉を紡ぐ。
「私は普通に生まれましたさかいに、不自由な方の事はぜぇんぶ想像するしか分からへんのです。
高校生の社会科の授業で、障碍を持ってはる方と一日を過ごすっちゅう課外授業がありましたが、あとでお友達がもし自分に腕がなかったら、とかいうお話をしたりもしたんですが、ピアノに夢中な私には考えただけでも恐ろしくて。
そやし、ああやって障碍があっても笑って元気に生活してはる方を見ると、私も気張らな、て思いまして」
「体の一部、何処に関しましても、無駄な所なんてありませんものね」
「ほんまに。それに私食いしん坊やさかいに、ほんまに忠臣さんがお気の毒で。ああ、あの……変な言い方になってまいました。同情とかやなくて……」
「いえ、いいんです。お気持ちは分かっているつもりです。桜さんはお優しいですね」
忠臣が桜の言葉に理解を示すと、桜は有り難そうに「おおきに」と小声で礼を言う。
「桜さん……、何か香水をつけてらっしゃいますか? 甘い系の」
「え? いいえ? 何か匂います?」
急に忠臣が話題を変えて桜が隣の彼を覗き込み、それから自分の腕や手に鼻を寄せてみる。
納得するまで匂いを嗅いでみて首を傾げ、結論を出して一言。
「いやや、そないに匂うんかな? あの、香水を直接体とかにはつけてへんのです。私もあんまりきつい匂いは好きやのうて。ただ、お風呂に入る時に一滴香水を入れたり、ボディクリームに少し香水を入れたりとか、そういう使い方はしてます」
そう説明をしてから、首を捻って「汗かいたからやろか?」とまた体の匂いを嗅いでいる。
「女性らしい工夫をしているんですね。俺も女性がいい匂いがするのは大賛成ですが、あまりプンプンと匂いがするのもあまり……。金木犀や百合の匂いも正直あまり強すぎるな、と思っている手合いなので」
桜の身だしなみの意識に忠臣が関心を示すと、それを変な風に取ってしまったのか、桜が恥ずかしそうに顔を伏せた。
「あの、ほんまにすみません。そないに匂うんやったら、もうちょっと離れます……」
消え入りそうな声で謝り、腰を浮かせてソファのギリギリまで離れてゆく桜の反応に、忠臣が内心「しまった」と舌を出す。
「いえ、そうじゃないんです。俺の言い方が悪かった。そうじゃなくて――」
思わず何気なく掴んだ桜の手首の細さに忠臣がギクリと体を強張らせ、固まってしまう。
桜もそんな風に忠臣に手首を掴まれるのが意外だったのか、大きな目を丸くして固まり――。
きし
アイボリーのソファに忠臣の手がついて体が寄り、大きな手の親指がそっと柔らかい唇をなぞってから、唇と唇が重なった。
二人共、どうしてこうなったのか分かっていない。
お互いに好意は抱いていた。
けれども、初対面で会った人間に対して踏み込むには、お互いぎこちなくて。
もっと仲良くなりたいと思っていて、少しずつお互いの身の回りの事などを話して、距離を縮めていくつもりだった。
それが――、
気がついたら忠臣の体が動いていた。
ただ唇を押し付けるだけのキスが終わって、忠臣がそっと桜の面を押さえていた手を外し、欲情している目をそっと逸らす。
チッ、チッ、チッ、チッ、……
壁時計の音がやけに大きくリビングに響く。
「……すみません、つい」
吐き出した忠臣の声は、羞恥と悔恨でかすれていた。
「すみません」
もう一度呟いて、帰ろうと思って立ち上がると、今度は桜が忠臣の手首を掴んだ。
「?」
強く引いてまたソファに座らせ、驚きと戸惑いを隠せないでいる忠臣の茶色い目に桜が映り、アップになって――
チッ、チッ、チッ、チッ……
襖の向こうから一華の寝息が聞こえる。
襖一枚を隔てて、熱く漏らされる吐息。
二酸化炭素が絡まりながら吐き出されて、それをすぐに吸い込んで濡れた音がする。
幼い目が襖の隙間から覗いているのを、二人は知らない。
夏の陽気に浮かされた様に二人の舌が絡み合い、幼い黒い目がじっとそれを見ている。
いつの間にか目を覚ました沙夜が、尿意を感じて起きようとして、襖の向こうで桜と忠臣が二人きりで話しているのに聞き耳を立てていたのだ。
話の内容はよく分からなかったが、途中で話し声が途切れて不思議に思い、そっと襖を開いてしまった。
幼稚園児が覗いた、大人の世界。
やがて、重なっていたシルエットが離れて二人がそれまでの様に隣り合って座ると、少ししてからまたポツリポツリと会話をする声がある。
その二人の手がソファの上で重なっていたのを沙夜は見て、確信した。
あの二人は『ケッコン』する二人だ。
沙夜が振り返ると、姉の一華は自由な寝相で平和に寝ている。
自分はこんなに恋愛に敏感なのに、姉ときたら、というおませな事を思って溜息をつき、それから桜と忠臣の秘密を知っているのは自分だけなのだと思い、興奮してバスタオルを体に巻きつけた。
桜ちゃんとお兄ちゃんがしていたのは、『キス』だ。
あの二人は好き合っていて、イシキし合っていて、『ケッコン』する。
幼い沙夜の頭の中でそれだけがグルグルと回り、アニメの中に出てきた女の子が変身して『お嫁さん』になったシーンの、綺麗な白いドレスを思い浮かべた。
それを綺麗な桜が着るのかと思うと、嬉しくて堪らない。
もしかしたら、『ケッコンシキ』の時に自分もママに新しいお洋服を買って貰えるかもしれない。
美味しいもの食べられるのかな?
『ケッコンシキ』って何をするんだろう?
そんな事を考えていると、忘れていた尿意を思い出して沙夜が慌て、わざとらしく物音を立ててから襖を開けた。
「あら、さっちゃん起きたの?」
桜は何もなかった顔で沙夜に笑いかける。
「桜ちゃん、おしっこ」
「はぁい」
立ち上がった桜がサブリナパンツを穿いた脚を動かして沙夜と手を繋ぎ、トイレに付き合ってやる。
二人が廊下の方へ消えてゆくのを忠臣は見送り、一人になって溜息をついて大きな手で顔を覆った。
何をしてるんだ。
初対面の女性にあんな事。
でも、桜さんも応えてくれた。
希望を持ってもいいのだろうか?
いい香りがずっと強くなった気がする。
彼女も興奮していたのかな?
だとしたら嬉しい。
――嬉しい。
味覚は破壊されているが、嗅覚と聴覚、視覚は桁違いにいいと思っている。
大学や街中を歩いていてそれですぐに具合が悪くなってしまったりはあったが、今はそれらの事を全て含めてでも、今自分が人生最高に幸せである事の為の基盤なのかとも思えた。
山あれば谷あり、と言う。
今まで味気ないモノクロの生活をしてきて、金銭的には恵まれているもののこれからもずっとこんな生活が続くのかと思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
家にいる『化け物の父』をあまり直視したくなくて、出来るだけ家から出る様にしていたが、今日はそのお陰で桜と出会えた。
初対面でこんな所までとんとん拍子に話が上手く進むなんて、そうそう滅多にない。
きっと、自分達二人は運命に祝福されているんだ。
そういう浮かれた気持ちが忠臣の中に沸き起こって、思わず忠臣はクッションを抱えて抱き締めていた。
今はまだ桜をこうするには早い気がする。
だが、この春が訪れた喜びをどうにかしたい。
桜が沙夜を伴って戻ってくるまで忠臣はクッションを抱き締めて顔を埋め、トイレの方から水が流れる音がすると、そっとクッションを元あった場所へと戻した。
やがて一華も起きて元の騒がしさが戻り、桜の提案で四人でトランプをする事にする。
「え~? 沙夜トランプ出来るの?」
「さっちゃんお利口やさかいに、数字分かるもんな?」
「うん! 十までわかるよ!」
「そやったら、十から上は桜ちゃんが教えたげる。何なら出来るかなぁ?」
「だったら、七並べはどうですか?」
「あ、ええですね。ルール簡単やし」
「私できる!」
一華が自慢そうに手を上げて小鼻をひくひくとし、姉の態度に沙夜も対抗する。
「沙夜だって出来るもん! 桜ちゃん教えてくれるもん!」
「ほな、いっちゃんとお兄ちゃんチーム、さっちゃんと桜ちゃんチームになろっか」
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