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第六章①
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一華と沙夜の母親が桜のマンションを訪れたのは、十七時前だ。
「ママ~!」
廊下を走って沙夜が玄関先で母親に抱きつき、一華も「ママお帰り! お土産は?」と子供らしい反応をする。
「桜ちゃん、預かってくれてどうも有り難う」
「ううん、気にしんといて? 羽伸ばせた? 美容室行って髪綺麗になったねぇ」
「有り難う。お陰でゆっくりお買い物も出来たし本当に助かったわ。あれ? お客さん?」
廊下の後ろの方にいる忠臣の長身を認めて母親が軽く会釈をし、忠臣もそれに会釈を返す。
「ああ、こちら忠臣さん。今日ね、公園に二人を連れてったらいっちゃんが転んでもうて。それを忠臣さんがよその子なのに心配してくれはって、ドラッグストアまで消毒液とか買いに走ってくれはったの。えらい親切な方なんよ。
忠臣さん、こちらいっちゃんとさっちゃんのお母さんの未来ちゃん」
桜に紹介された姉妹の母は、二十代後半ぐらいの優しそうな女性だった。
「こんにちは、初めまして。時坂忠臣と申します」
「あらぁ、背が高くて格好いい上に、礼儀正しい。桜ちゃんいい男の子捕まえたね」
「いやや、未来ちゃんやめて」
冗談めかした未来の言い方に桜が少し照れて笑い、忠臣も頬を緩ませる。
「それにしても一華はよく転ぶ子ねぇ。お兄ちゃんにお礼は言ったの?」
「言ったよー? ねー?」
改めて礼を言われた感じはないが、それでも忠臣からすれば一華と沙夜が全身を使って懐いてくれた事がお返しの様なものだ。
「いっちゃんは強い子だから、泣かなかったもんね?」
忠臣がこっそりと一華が泣いてしまった事を秘密にすると、一華がびっくりした顔をした後、恥ずかしそうに笑って「うん!」と元気に返事をする。
「未来ちゃん、上がってって?」
「そぉ? あ、お土産買ってきたから、良かったら忠臣さんも一緒にお茶しません? ちょっと遅い時間のお茶だけど」
「いいんですか?」
「勿論!」
幸せの絆が増えてゆく。
今まで学友の繋がりはあったが、こんな風に好きな人やその肉親と温かな関係になったというのは初めてだ。
その後、桜のマンションで夕食にする事になり、未来が夫を電話で呼び出す羽目になる。
慌てて帰ろうとする忠臣だが、用事がないのなら食べていってくれという事で、女性陣に押される感じで忠臣はキッチンでお喋りをしながら一緒に料理をする桜と未来を見ていた。
ソファに座っている忠臣の両脇には、一華と沙夜がちょこんと座ってテレビを見ている。
一華は口を開けて土曜夕方のアニメに夢中になっていたが、沙夜は忠臣の腕にしがみついたままじっと忠臣を見ていた。
「ん? どうかした? 沙夜ちゃん」
その視線に気付いた忠臣が柔らかく微笑むと、沙夜が小さな手で手招きをして内緒話のジェスチャーをする。
「なに?」
微笑みながら耳を寄せた忠臣だが、沙夜の内緒話に思わず固まった。
「桜ちゃんとちゅーしてたでしょ」
「……」
これ以上ない程に目を見開いた忠臣がゆっくりと沙夜の方を見ると、沙夜が嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「秘密にしてあげる。桜ちゃんとケッコンするんでしょ? 『ケッコンの許し』が出るまで、ママにもナイショにしてるから」
「あ、有り難う」
「ふふーっ」
忠臣が礼を言うと、沙夜は満足そうに笑ってまた脚をブラブラとさせながら意識をアニメに戻してしまった。
リビングにはハヤシライスの匂いがしていて、いつもならそういう煮込み系の匂いは吐き気がしてしまうのに、今日は何だかとてもいい匂いに感じてしまう。
こういうのがプラシーボっていうのかな、とぼんやりと考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、きっと旦那さんだわ」
未来が明るく言って玄関に向かい、一華はアニメに夢中なままだが、沙夜はソファからピョンと降りて玄関の方へ走ってゆく。
今日初対面の桜に、桜の従姉の家族。
そんなアウェイな環境に忠臣は心配になってきてしまい、ソファから立ち上がってキッチンのカウンターの向こう側から桜に声をかける。
「俺、本当にここにいて大丈夫でしょうか?」
「平気、平気」
随分と打ち解けた様子の桜は、ハヤシライスの材料を炒めながら笑うだけだ。
ふと、カウンターの上に置いてあるサラダの大皿を見ると、随分と具沢山でボリュームがある。
「忠臣さん、サラダ主体になってもお腹一杯になれる様に、って思いまして」
忠臣の視線に気付いた桜がはにかみ、その心遣いと親切さに忠臣はますます桜に好印象を持つ。
「桜ちゃん、お邪魔するよー?」
男性の声がして忠臣が緊張し、その顔を見て桜が「大丈夫」と苦笑いする。
「いやぁ、家族揃って押しかけてごめんね? これお土産。あっ、こんばんは」
人の良さそうな三十前半あたりの男性がラフな格好で現れて、キッチンのカウンターの向こうにいる忠臣を見て会釈をした。
「こんばんは。初めまして、時坂忠臣と申します」
「あれー、未来ちゃんの言ってた通り礼儀正しくて格好いい子だ。俺は斉藤誠司、宜しく。ビール買ってきたんだけど飲む? 学生さんなら明日休みでしょ?」
随分と人懐こい男性だな、と思って忠臣は安心し、忠臣に勧められてまたソファに落ち着いた。
未来は微笑みながらまたキッチンに戻り、沙夜は誠司の膝の上によじ登っている。
「あ、頂きます」
「ビールには枝豆だよね。スーパーで一緒に買って来た」
「こらぁ、誠司くん。ご飯前にやめて」
キッチンから未来が笑いながら注意をし、その声に誠司が肩をすくめて「じゃあ後で」と言ってからビールを冷蔵庫に仕舞いに行った。
「みんな、もうご飯やからねぇ。準備してぇ」
桜の伸びやかな声がして丁度テレビアニメも終わった所で、一華がソファから降りて手伝いを始める。
「桜さん、何かお手伝いありますか?」
「おおきに、忠臣さん。ほなこれでテーブル拭いてくれはる?」
「はい」
渡された台布巾を持って忠臣が微笑み、相変わらず甘く香る桜の香りをこっそりと吸い込む。
これは一体、何の幸せだろう?
本当にこれは現実なんだろうか?
そんなモヤモヤを抱えたままダイニングテーブルを拭いて、どう考えてもダイニングテーブルだけでは人数が足りないので、リビングのテーブルも拭いた。
「いっちゃん、さっちゃん、ハヤシライスは何盛り?」
「大盛り!」
「特盛り!」
元気な声が聞こえて桜の笑い声がし、未来の「そんなに食べられないでしょ」と呆れた声がする。
そしてハヤシライスとサラダがテーブルに置かれ、桜が一家にダイニングテーブルの席を譲って、自分は忠臣と一緒にリビングのテーブルに座った。
サラダはダイニングテーブルの大皿から取り皿に取って、斉藤一家と桜が例の元気な挨拶をし、それが分かっていた忠臣は少し気恥ずかしさもありながら、そのノリに乗って自分も「いただきます」をする。
「未来さんのご家族と、いつもこんな風に仲がいいんですか?」
「ええ、私が東京に来た時から未来ちゃんと誠司くんは良くしてくれはって、ほんまに大切なご家族なんです」
「いいですね、そういうご関係」
未来たちが不自然に思わないように忠臣のハヤシライスも普通に盛られているが、忠臣は何でもないように普通に食べている。
それを見て、桜がこっそりと声を掛けて来た。
「忠臣さん、ご飯大丈夫なんですか? 無理しんといて下さい」
その声に忠臣も小さな声で返事をする。
「お気遣い有り難う御座います。でも、今日は何だか特別に美味しく感じられるんです」
「ほんまですか? 残してええですからね?」
「大丈夫です。凄く美味しいです」
桜の気遣いが温かく、思わず笑みが零れてしまう。
「いやや、市販のルー使うたハヤシライスやのに褒めんといて下さい」
そういう遣り取りをしていると、ダイニングテーブルの方からからかう様な未来の声がする。
「誠司くん、見てあの二人。まるで恋人同士みたい」
「ホントだ」
「未来ちゃん!?」
照れた桜が大きな声を出し、一家が笑う。
その後、誠司が買って来たプリンを食べてデザートにし、未来がお土産に買って来たケーキはそれぞれの家で、という話になった。
一華と沙夜がお腹一杯になってうとうとし、沙夜を抱っこして一華はソファにごろんと横になっている。
誠司は車で来たのでノンアルコールビールを飲み、残り三人はビールを飲みながら忠臣との出会いの話を聞いていた。
「いやぁ、本当に一華が世話になったね。本当に世の中こんなイケメンで性格もいい人っているんだ」
ノンアルコールを飲んでいるのにいい気分になっている誠司が感心した様に言い、先ほどから褒められっぱなしの忠臣が居心地悪そうに「いいえ」と長い指先でビールのプルタブを弄んでいる。
「桜ちゃん、忠臣くんと付き合っちゃえばいいのに」
こちらは本当にいい気分になっている未来がにんまりとして言い、桜が照れてソファにしなだれかかっている。
「ほらー、桜ちゃんもまんざらじゃないー」
「もぉ、未来ちゃんやめてぇな」
そんな和やかな談笑のなか、忠臣は思う。
化け物の自分がこんな温かい空気に触れていていいのだろうか?
自分の本質が露見してしまえば、きっと嫌われる。
もしかしたらさっき洗面所で目が赤くなっていたのも、三人の誰かに……子供ならではの視点を持っている沙夜辺りにバレてしまっていたかもしれない。
そう思うと心の底から震えが来て恐ろしく、ビールが入っても周りが笑っていても、忠臣は素直に笑う事が出来ない。
やがて十九時をまわって、熟睡してしまった一華と沙夜を抱えた誠司と未来が帰ってゆき、空き缶やつまみの小皿などを桜が片付け始め、忠臣も手伝う。
「楽しかったですねぇ」
「そうですね、こんな素敵な出会いがあるとは思っていませんでした」
「忠臣さん、酔ってはりません?」
「少し……」
誠司に飲まされてしまった感がある忠臣が酒臭い息で答え、桜はノンアルコールビールを飲んでいたのだが、こちらは雰囲気で酔ってしまった様だ。
空き缶をゴミ袋に入れてしまい、キッチンで桜が小皿を洗っている。
鼻歌混じりでご機嫌な彼女の横顔をリビングのソファから見て、忠臣は帰るタイミングを窺っていた。
ここまでズルズルと好意に甘えてしまっていても、本来の桜の客である一華と沙夜が帰ったのだから、元は何も関係のない自分が長居していては申し訳ない。
キッチンからの水音が止まった所で「あの」と忠臣が声をかけるが、桜はにこにことして「ご飯の後は歯磨きですよ」と忠臣の背中に手を当てる。
ドクン
ああ――
また、これだ。
全身の細胞が活性化された様な幻覚。
彼女が触れた箇所から体が熱くなって、自分が発情していくのが分かる。
駄目だ。
これ以上彼女と一緒にいたら、本当に自分自身を抑えられる事が出来なくなりそうだ。
歯磨きをしたら帰ろう。
洗面所で並んで歯磨きをしていると、桜が空いている手で忠臣のシャツの裾を掴んでくる。
「ろうかしまひたか?」
不明瞭な声で質問しても、桜は何も答えない。
しゃこしゃこ、しゃこしゃこ
少し気まずい沈黙のなか、歯磨きをする音だけが二人の耳に届き、お互いが次に何を話すのか、これからどうするのかという事を考えているだろう事が、手に取るように分かる。
それぞれうがいをしてしまってから、桜が黙ってその場に立ち尽くす。
ほっそりとした手は、忠臣のシャツの裾を掴んだまま。
「桜さん……?」
「……」
忠臣がそっと呼びかけても、桜は少し顔を俯かせたまま何も言わず、そっと忠臣の手を掴んで先に歩き出す。
手を掴まれた時、ピクッと忠臣の手が反応してしまったが、桜は何も言わない。
手を引かれて連れて行かれたのは、ベッドルームだった。
「桜さん……」
帰ります、と言おうとして忠臣が口ごもり、代わりに桜がやっと顔を上げて忠臣に笑顔を見せた。
脱力した様な、忠臣を安心させる様な笑顔。
だが、その笑顔は緊張で強張っていて、
その小さな顔も、手も、震えていて。
駄目だ。
これ以上、女性から誘わせるような事を言わせたり、させたりしてはいけない。
舌先で唇を湿らせ、霜が降る様にそっと呼吸を整えて、忠臣が桜を抱き寄せる。
細くてしなやかな肢体がすっぽりと腕の中に収まり、ぶわっと大輪の花が咲き誇るように、あの香りが匂い立つ。
忠臣を惑わせる、蟲惑的な香り。
甘くて、
ふわりとしていて、
それでいて濃密で、
全身を優しく包み込んで花びらの様に咲き誇り、
その優しさの奥で忠臣の中の雄としての本能を刺激する。
「……いいんですか?」
「……あの、はしたない女やて思わんといて下さい。誰にでもこないな事してるんやなくて……」
桜の手も忠臣の背中にまわされ、細い声が震える。
「貴女の事をそんな風に思う訳ないじゃないですか」
「……嫌わんといて下さい」
「……すき、です」
どさくさに紛れて忠臣が告白をした。
「あの、シャワー入ってええですか? 汗かいたし、このままじゃいややし」
「ええ、勿論」
「忠臣さんもその後使うて下さい。バスタオルとか用意しますさかいに」
「はい」
それまで緊張していた桜が少しだけ安心した笑顔を見せ、恥ずかしそうにバスルームの方へ去って行った。
「テレビとか見ててええですから」
「はい、お構いなく」
やがてシャワーの音が聞こえて忠臣は段々落ち着かなくなり、意味もなくスマホを開いてネットを開いてみたりする。
こんな事を調べていたら笑われるだろうか? と思いながら、女性を悦ばせる事の出来るページなどを開いて付け焼刃程度に取り入れてみる。
頭が混乱する。
これでいいんだろうか?
間違えていないだろうか?
今酔っているのは確かだが、酒の勢いとかに思われたら嫌だ。
でも、今このチャンスを逃してしまったら、仮に次に会うチャンスがあったとしても、恥ずかしくてこういう事には誘えないかもしれない。
なら、今が『そうなるべき時』なのか――?
何処を向いても正解はない。
「ママ~!」
廊下を走って沙夜が玄関先で母親に抱きつき、一華も「ママお帰り! お土産は?」と子供らしい反応をする。
「桜ちゃん、預かってくれてどうも有り難う」
「ううん、気にしんといて? 羽伸ばせた? 美容室行って髪綺麗になったねぇ」
「有り難う。お陰でゆっくりお買い物も出来たし本当に助かったわ。あれ? お客さん?」
廊下の後ろの方にいる忠臣の長身を認めて母親が軽く会釈をし、忠臣もそれに会釈を返す。
「ああ、こちら忠臣さん。今日ね、公園に二人を連れてったらいっちゃんが転んでもうて。それを忠臣さんがよその子なのに心配してくれはって、ドラッグストアまで消毒液とか買いに走ってくれはったの。えらい親切な方なんよ。
忠臣さん、こちらいっちゃんとさっちゃんのお母さんの未来ちゃん」
桜に紹介された姉妹の母は、二十代後半ぐらいの優しそうな女性だった。
「こんにちは、初めまして。時坂忠臣と申します」
「あらぁ、背が高くて格好いい上に、礼儀正しい。桜ちゃんいい男の子捕まえたね」
「いやや、未来ちゃんやめて」
冗談めかした未来の言い方に桜が少し照れて笑い、忠臣も頬を緩ませる。
「それにしても一華はよく転ぶ子ねぇ。お兄ちゃんにお礼は言ったの?」
「言ったよー? ねー?」
改めて礼を言われた感じはないが、それでも忠臣からすれば一華と沙夜が全身を使って懐いてくれた事がお返しの様なものだ。
「いっちゃんは強い子だから、泣かなかったもんね?」
忠臣がこっそりと一華が泣いてしまった事を秘密にすると、一華がびっくりした顔をした後、恥ずかしそうに笑って「うん!」と元気に返事をする。
「未来ちゃん、上がってって?」
「そぉ? あ、お土産買ってきたから、良かったら忠臣さんも一緒にお茶しません? ちょっと遅い時間のお茶だけど」
「いいんですか?」
「勿論!」
幸せの絆が増えてゆく。
今まで学友の繋がりはあったが、こんな風に好きな人やその肉親と温かな関係になったというのは初めてだ。
その後、桜のマンションで夕食にする事になり、未来が夫を電話で呼び出す羽目になる。
慌てて帰ろうとする忠臣だが、用事がないのなら食べていってくれという事で、女性陣に押される感じで忠臣はキッチンでお喋りをしながら一緒に料理をする桜と未来を見ていた。
ソファに座っている忠臣の両脇には、一華と沙夜がちょこんと座ってテレビを見ている。
一華は口を開けて土曜夕方のアニメに夢中になっていたが、沙夜は忠臣の腕にしがみついたままじっと忠臣を見ていた。
「ん? どうかした? 沙夜ちゃん」
その視線に気付いた忠臣が柔らかく微笑むと、沙夜が小さな手で手招きをして内緒話のジェスチャーをする。
「なに?」
微笑みながら耳を寄せた忠臣だが、沙夜の内緒話に思わず固まった。
「桜ちゃんとちゅーしてたでしょ」
「……」
これ以上ない程に目を見開いた忠臣がゆっくりと沙夜の方を見ると、沙夜が嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「秘密にしてあげる。桜ちゃんとケッコンするんでしょ? 『ケッコンの許し』が出るまで、ママにもナイショにしてるから」
「あ、有り難う」
「ふふーっ」
忠臣が礼を言うと、沙夜は満足そうに笑ってまた脚をブラブラとさせながら意識をアニメに戻してしまった。
リビングにはハヤシライスの匂いがしていて、いつもならそういう煮込み系の匂いは吐き気がしてしまうのに、今日は何だかとてもいい匂いに感じてしまう。
こういうのがプラシーボっていうのかな、とぼんやりと考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、きっと旦那さんだわ」
未来が明るく言って玄関に向かい、一華はアニメに夢中なままだが、沙夜はソファからピョンと降りて玄関の方へ走ってゆく。
今日初対面の桜に、桜の従姉の家族。
そんなアウェイな環境に忠臣は心配になってきてしまい、ソファから立ち上がってキッチンのカウンターの向こう側から桜に声をかける。
「俺、本当にここにいて大丈夫でしょうか?」
「平気、平気」
随分と打ち解けた様子の桜は、ハヤシライスの材料を炒めながら笑うだけだ。
ふと、カウンターの上に置いてあるサラダの大皿を見ると、随分と具沢山でボリュームがある。
「忠臣さん、サラダ主体になってもお腹一杯になれる様に、って思いまして」
忠臣の視線に気付いた桜がはにかみ、その心遣いと親切さに忠臣はますます桜に好印象を持つ。
「桜ちゃん、お邪魔するよー?」
男性の声がして忠臣が緊張し、その顔を見て桜が「大丈夫」と苦笑いする。
「いやぁ、家族揃って押しかけてごめんね? これお土産。あっ、こんばんは」
人の良さそうな三十前半あたりの男性がラフな格好で現れて、キッチンのカウンターの向こうにいる忠臣を見て会釈をした。
「こんばんは。初めまして、時坂忠臣と申します」
「あれー、未来ちゃんの言ってた通り礼儀正しくて格好いい子だ。俺は斉藤誠司、宜しく。ビール買ってきたんだけど飲む? 学生さんなら明日休みでしょ?」
随分と人懐こい男性だな、と思って忠臣は安心し、忠臣に勧められてまたソファに落ち着いた。
未来は微笑みながらまたキッチンに戻り、沙夜は誠司の膝の上によじ登っている。
「あ、頂きます」
「ビールには枝豆だよね。スーパーで一緒に買って来た」
「こらぁ、誠司くん。ご飯前にやめて」
キッチンから未来が笑いながら注意をし、その声に誠司が肩をすくめて「じゃあ後で」と言ってからビールを冷蔵庫に仕舞いに行った。
「みんな、もうご飯やからねぇ。準備してぇ」
桜の伸びやかな声がして丁度テレビアニメも終わった所で、一華がソファから降りて手伝いを始める。
「桜さん、何かお手伝いありますか?」
「おおきに、忠臣さん。ほなこれでテーブル拭いてくれはる?」
「はい」
渡された台布巾を持って忠臣が微笑み、相変わらず甘く香る桜の香りをこっそりと吸い込む。
これは一体、何の幸せだろう?
本当にこれは現実なんだろうか?
そんなモヤモヤを抱えたままダイニングテーブルを拭いて、どう考えてもダイニングテーブルだけでは人数が足りないので、リビングのテーブルも拭いた。
「いっちゃん、さっちゃん、ハヤシライスは何盛り?」
「大盛り!」
「特盛り!」
元気な声が聞こえて桜の笑い声がし、未来の「そんなに食べられないでしょ」と呆れた声がする。
そしてハヤシライスとサラダがテーブルに置かれ、桜が一家にダイニングテーブルの席を譲って、自分は忠臣と一緒にリビングのテーブルに座った。
サラダはダイニングテーブルの大皿から取り皿に取って、斉藤一家と桜が例の元気な挨拶をし、それが分かっていた忠臣は少し気恥ずかしさもありながら、そのノリに乗って自分も「いただきます」をする。
「未来さんのご家族と、いつもこんな風に仲がいいんですか?」
「ええ、私が東京に来た時から未来ちゃんと誠司くんは良くしてくれはって、ほんまに大切なご家族なんです」
「いいですね、そういうご関係」
未来たちが不自然に思わないように忠臣のハヤシライスも普通に盛られているが、忠臣は何でもないように普通に食べている。
それを見て、桜がこっそりと声を掛けて来た。
「忠臣さん、ご飯大丈夫なんですか? 無理しんといて下さい」
その声に忠臣も小さな声で返事をする。
「お気遣い有り難う御座います。でも、今日は何だか特別に美味しく感じられるんです」
「ほんまですか? 残してええですからね?」
「大丈夫です。凄く美味しいです」
桜の気遣いが温かく、思わず笑みが零れてしまう。
「いやや、市販のルー使うたハヤシライスやのに褒めんといて下さい」
そういう遣り取りをしていると、ダイニングテーブルの方からからかう様な未来の声がする。
「誠司くん、見てあの二人。まるで恋人同士みたい」
「ホントだ」
「未来ちゃん!?」
照れた桜が大きな声を出し、一家が笑う。
その後、誠司が買って来たプリンを食べてデザートにし、未来がお土産に買って来たケーキはそれぞれの家で、という話になった。
一華と沙夜がお腹一杯になってうとうとし、沙夜を抱っこして一華はソファにごろんと横になっている。
誠司は車で来たのでノンアルコールビールを飲み、残り三人はビールを飲みながら忠臣との出会いの話を聞いていた。
「いやぁ、本当に一華が世話になったね。本当に世の中こんなイケメンで性格もいい人っているんだ」
ノンアルコールを飲んでいるのにいい気分になっている誠司が感心した様に言い、先ほどから褒められっぱなしの忠臣が居心地悪そうに「いいえ」と長い指先でビールのプルタブを弄んでいる。
「桜ちゃん、忠臣くんと付き合っちゃえばいいのに」
こちらは本当にいい気分になっている未来がにんまりとして言い、桜が照れてソファにしなだれかかっている。
「ほらー、桜ちゃんもまんざらじゃないー」
「もぉ、未来ちゃんやめてぇな」
そんな和やかな談笑のなか、忠臣は思う。
化け物の自分がこんな温かい空気に触れていていいのだろうか?
自分の本質が露見してしまえば、きっと嫌われる。
もしかしたらさっき洗面所で目が赤くなっていたのも、三人の誰かに……子供ならではの視点を持っている沙夜辺りにバレてしまっていたかもしれない。
そう思うと心の底から震えが来て恐ろしく、ビールが入っても周りが笑っていても、忠臣は素直に笑う事が出来ない。
やがて十九時をまわって、熟睡してしまった一華と沙夜を抱えた誠司と未来が帰ってゆき、空き缶やつまみの小皿などを桜が片付け始め、忠臣も手伝う。
「楽しかったですねぇ」
「そうですね、こんな素敵な出会いがあるとは思っていませんでした」
「忠臣さん、酔ってはりません?」
「少し……」
誠司に飲まされてしまった感がある忠臣が酒臭い息で答え、桜はノンアルコールビールを飲んでいたのだが、こちらは雰囲気で酔ってしまった様だ。
空き缶をゴミ袋に入れてしまい、キッチンで桜が小皿を洗っている。
鼻歌混じりでご機嫌な彼女の横顔をリビングのソファから見て、忠臣は帰るタイミングを窺っていた。
ここまでズルズルと好意に甘えてしまっていても、本来の桜の客である一華と沙夜が帰ったのだから、元は何も関係のない自分が長居していては申し訳ない。
キッチンからの水音が止まった所で「あの」と忠臣が声をかけるが、桜はにこにことして「ご飯の後は歯磨きですよ」と忠臣の背中に手を当てる。
ドクン
ああ――
また、これだ。
全身の細胞が活性化された様な幻覚。
彼女が触れた箇所から体が熱くなって、自分が発情していくのが分かる。
駄目だ。
これ以上彼女と一緒にいたら、本当に自分自身を抑えられる事が出来なくなりそうだ。
歯磨きをしたら帰ろう。
洗面所で並んで歯磨きをしていると、桜が空いている手で忠臣のシャツの裾を掴んでくる。
「ろうかしまひたか?」
不明瞭な声で質問しても、桜は何も答えない。
しゃこしゃこ、しゃこしゃこ
少し気まずい沈黙のなか、歯磨きをする音だけが二人の耳に届き、お互いが次に何を話すのか、これからどうするのかという事を考えているだろう事が、手に取るように分かる。
それぞれうがいをしてしまってから、桜が黙ってその場に立ち尽くす。
ほっそりとした手は、忠臣のシャツの裾を掴んだまま。
「桜さん……?」
「……」
忠臣がそっと呼びかけても、桜は少し顔を俯かせたまま何も言わず、そっと忠臣の手を掴んで先に歩き出す。
手を掴まれた時、ピクッと忠臣の手が反応してしまったが、桜は何も言わない。
手を引かれて連れて行かれたのは、ベッドルームだった。
「桜さん……」
帰ります、と言おうとして忠臣が口ごもり、代わりに桜がやっと顔を上げて忠臣に笑顔を見せた。
脱力した様な、忠臣を安心させる様な笑顔。
だが、その笑顔は緊張で強張っていて、
その小さな顔も、手も、震えていて。
駄目だ。
これ以上、女性から誘わせるような事を言わせたり、させたりしてはいけない。
舌先で唇を湿らせ、霜が降る様にそっと呼吸を整えて、忠臣が桜を抱き寄せる。
細くてしなやかな肢体がすっぽりと腕の中に収まり、ぶわっと大輪の花が咲き誇るように、あの香りが匂い立つ。
忠臣を惑わせる、蟲惑的な香り。
甘くて、
ふわりとしていて、
それでいて濃密で、
全身を優しく包み込んで花びらの様に咲き誇り、
その優しさの奥で忠臣の中の雄としての本能を刺激する。
「……いいんですか?」
「……あの、はしたない女やて思わんといて下さい。誰にでもこないな事してるんやなくて……」
桜の手も忠臣の背中にまわされ、細い声が震える。
「貴女の事をそんな風に思う訳ないじゃないですか」
「……嫌わんといて下さい」
「……すき、です」
どさくさに紛れて忠臣が告白をした。
「あの、シャワー入ってええですか? 汗かいたし、このままじゃいややし」
「ええ、勿論」
「忠臣さんもその後使うて下さい。バスタオルとか用意しますさかいに」
「はい」
それまで緊張していた桜が少しだけ安心した笑顔を見せ、恥ずかしそうにバスルームの方へ去って行った。
「テレビとか見ててええですから」
「はい、お構いなく」
やがてシャワーの音が聞こえて忠臣は段々落ち着かなくなり、意味もなくスマホを開いてネットを開いてみたりする。
こんな事を調べていたら笑われるだろうか? と思いながら、女性を悦ばせる事の出来るページなどを開いて付け焼刃程度に取り入れてみる。
頭が混乱する。
これでいいんだろうか?
間違えていないだろうか?
今酔っているのは確かだが、酒の勢いとかに思われたら嫌だ。
でも、今このチャンスを逃してしまったら、仮に次に会うチャンスがあったとしても、恥ずかしくてこういう事には誘えないかもしれない。
なら、今が『そうなるべき時』なのか――?
何処を向いても正解はない。
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キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
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