泥に咲く花

臣桜

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第十一章

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 また店に入って来た忠臣を見て店員が「ん」という顔をし、その隣に顔に痣のある桜。
 忠臣が人を待っているという話をして思い出したのか、一瞬その目つきが二人の関係性を疑うものになったが、基本は店員だ。
 先ほどまで忠臣が座っていた席とは違う席に案内され、忠臣はまたホットコーヒーを頼んで、桜はアイスティーを頼んだ。
「マスク……外して頂けませんか?」
「……」
 忠臣の言葉に桜が目を泳がせて少し戸惑い、目線をテーブルに落としてそっとマスクを外した。
「――」
 覚悟はしていた筈だ。
 マスクをしているからには、隠さないとならない状態になっているのだと。
 だが――、
 女性がこんな――。

 頬が腫れ上がって口端の切れている桜の顔を見て、忠臣が思い切り息を吸い込んだ。
 喉の奥がぎゅっと縮んで、目の奥がぎゅっとなり、
 ――涙が溢れてくる。

「忠臣さん、泣かんといて下さい」
 桜の声は悲しげだが、やはり何処までも優しい。

「……俺の、所為ですか?」
「いいえ、遅かれ早かれ、こないな事にはなっていたんやとと思います」

 目の前で綺麗な涙を見せてくれる彼が、愛しくて堪らない。
 人の為に泣ける人は優しい人だと思う。
 いい年齢の男性で、いい立ち位置にいて、それ相応のプライドなどもあるだろうに、忠臣は自分の感情に素直だ。
 そこに心を動かされたから、桜は忠臣の為に今付き合っている男と別れようと決意したのだ。

 忠臣はただ黙って悲しそうに目を潤ませ、頬に透明な粒を落としている。
 黙って悲しみに耐えているからこそ、ぎゅっとそこに彼の思いが濃縮されている気がした。
 誰かを思って心配する優しさがあるからこそ、そこに透明で純粋な悲しみがある。

 触れてみたい。
 その優しさに。

 桜が腰を浮かし、両手を伸ばして包み込む様に忠臣の頬に触れた。

 ピクッ、と忠臣が緊張する。

 優しい手がそっと忠臣の頬を撫で、指先から彼女の思いが浸透してくる気がする。
 彼女の香りは一層強まって、忠臣は悲しい筈なのにこうやって久し振りに会った桜に優しくされて、嬉しくて仕方がない。
 頬を包んだ手に両手を重ね、唇だけで「愛しています」と呟いた。

 こんな時なのに、彼女の香りに刺激されて興奮しているだなんて、片鱗でも見せてはいけない。

「別れない、と言っているんですか?」
「……」
 忠臣の問いに桜は黙って静かな微笑みを浮かべ、謝るように彼の頬に触れていた手が戻ってゆく。
 彼の脳裏にはネットで覗いた記事がちらついていた。
 その情景が、桜にだぶる。

 別れを切り出した桜の頬が思い切り張られ、そんな衝撃など予想もしていなかった細身の桜は、いとも簡単に吹っ飛んでしまう。
 状況を把握していない桜に男が馬乗りになり、二撃、三撃。
 生理的なものと、感情的なものが混じった涙に男が更に興奮し、自分の顔を守る桜を引きずり回して、彼女が泣き叫ぶ。

 もっと下衆な想像をすれば、
 それに更に嗜虐的になった男が、彼女の服を引き裂いて行為に及んだかもしれない。
 その肌に自分がつけた覚えのない跡を見つけて、更に怒り狂ったかもしれない。

 ああ、俺の所為だ。

 所詮、『罪』の味を知っている自分が幸せになろうと思った事自体が、間違いだったのではないだろうか。
 泥にまみれた者がどれだけ足掻いても、泥を掻いた手が次に掻くのは泥だ。
 岸はずっと遠くて、朧月に照らされたそれはあまりにも頼りない。
 岸に生えている綺麗な花に手を伸ばそうだなんて、夢物語なのかもしれない。
 自分は泥の沼に嵌ったまま、望んで止まない花が無残に踏みにじられるのを見ている事しか出来ないのだろうか。
 
 月に叢雲、花に風。

 どうしたら遮るもののない綺麗な満月が、眼下の花を優しく照らして包む事が出来るのだろうか?

 彼女を愛したい。
 彼女を大切にしたい。
 彼女と一緒に歩みたい。

 大切にしたいのに。

「俺がその男と話します。俺なら殴られても平気ですから。貴女と一緒にその場に立ち会って話し合って、その男の手が出そうになったら俺が止めます」
「喧嘩はあきまへん」
「貴女が望むのなら、喧嘩はしません。ただ、護身術程度は出来るので、押さえ込む程度はあるかもしれません」
「……」
 桜は何かを押さえ込んだ様な表情で黙り込み、テーブルの上に置かれたアイスティーのグラスの水滴が、つ、と落ちてゆく。
 
 グラスに浮かぶは思いの雫。
 思いは溢れ、温められて雫が重みに耐え切れず――、落ちる。
 受け止められる事なくテーブルに落ちて、じわりと滲んでゆく。

 暫く二人は黙って飲み物を飲み、忠臣が気の引けた声で「痛いですか?」と間抜けな質問をし、「いいえ」と桜が小さく微笑む。
 桜は夏だというのに、Tシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っている。
 それが、肌を隠そうとしている様に思えてならなかった。
 顔以外にも、衣服に隠された場所にまだ酷い痣があるのかもしれない。
 それを思うと胸が締め付けられて、忠臣の喉を通ってゆくコーヒーは泥の様だ。
「いつ頃に三人で話し合いが出来るでしょうか?」
「忠臣さん、いつなら都合よろしおすか?」
「俺はいつでも」
「ほな、近いうちに。同じ大学の芸術科の生徒なんです。今なら夏季休業ですから」
「必ず連絡して下さいね」
「はい」
 また、沈黙が訪れて静かにアイスミルクティーを飲む桜に向かって、忠臣が大きな手を差し出した。
 ずっ、と底の方でストローが空気を吸う音がし、桜が少し冷えた息を吐きながらストローから唇を離す。
 桜の手を待っている忠臣の手を見て彼女が目元を少し細め、また手を重ねる。
 そっと指先に力が入って気持ちを確かめ合い、その姿勢のまま二人は暫く口を噤む。

 この障害を乗り越えたら、きっと二人で新しい道を歩きだせる。

 そう信じて、今は苦難に立ち向かう時なのだと。
 桜がぎゅっと身を縮めて身を守って、それを忠臣が剣となり盾となって守る。

 世界の片隅に取り残された様な、二人きりだけになってしまった孤独を感じながら、それでもその手だけは離さない。
 もしその手を離してしまったら、お互いが一生後悔するだろう事は本能で理解していた。
 自分達は幸せになる為に、これから傷付いて、人を傷つけて前へ進んでゆく。
 一人なら恐れがあるかもしれない。
 腰が引けてしまうかもしれない。
 けれど、二人だ。
 相手がいるから傷付いても立っていられるし、守りたいという気持ちが自身を強くする。

 強くは握られていない、けれども固い絆となった二人の手は、お互いを労わる様にして時折指先で相手の手を撫でていた。

 外の蝉は、我関せずといった風に鳴き続けている。
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