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第三十章
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誠司がマンションに来たのは十六時過ぎで、彼は残業があったが何とか明日に持ち込んで帰って来たと、笑っていた。
「さーくらちゃん、いぇーい」
既に酔っ払っている様なハイテンションの誠司が、ソファに座っている桜の頭をグシャグシャと撫で、ついでにその両脇にいる娘たちの頭もグシャグシャと乱暴に撫でる。
「あはは、誠司くんやめてぇな」
「パパひどーい!」
「パパもっとー!」
娘たちの反応はそれぞれだ。
やがて出前が届いて子供達が大はしゃぎし、忠臣と桜が世話になったからと支払おうとしたが、社会人になっても現役で柔道をやっている誠司がガッチリと忠臣を押さえ込み、その隙に未来が出前料金を払っていた。
「未来ちゃん……」
「いいのよぉ、私達もお寿司食べたかったし。ねー? 誠司くん」
「そうそう、うちの家族が四人でそっちが二人、うちの勝ち」
よく分からない理屈で夫婦が問題を片付けてしまい、呆然とする忠臣と桜の前で、「美味しそう」と言いながら二人が寿司桶をテーブルに置き、子供たちがいつもの席に先に着席する。
「桜ちゃんは椅子の方が楽でしょう?」
「あ、うん」
「じゃあリビングのテーブルで皆で囲まないか? 桜ちゃんはソファに座って」
「それいいわね。いち、さや、あっちに移るわよ」
「はぁーい!」
それまでボウッとしていた忠臣だったが、慌ててダイニングテーブルに置いてあった取り皿などを移動させ始める。
「忠臣くんって寿司のネタ何が好きなの?」
誠司が何気ない質問をしてきて、忠臣は困ってしまう。
少し考えて、正直に答える事にした。
「あまり味わって食べた事がないんです。だから、今日何が好きなのか見つけてみようと思います」
「そっか」
「誠司くん、今日ねぇ。忠臣さんのお寿司記念日なんや」
「ふぅん?」
事情は知らずとも、誠司は何となく空気を読んで軽やかに返事をするだけだ。
「おっ、唐揚げある。ラッキー」
「パパずるい! いちもお肉食べるもん!」
「さっちゃんの茶碗蒸し!」
子供たちは常にフリーダムである。
「ほな皆でお寿司いただきますしよっか」
そして斉藤一家と忠臣と桜とで、例のやけに元気のいい挨拶をし、寿司パーティーが始まった。
「桜さん、何から食べたいですか?」
「私より先に、忠臣さん食べてみて?」
「え?」
小皿と箸を両手にした忠臣が、隣に座っている桜を見れば彼女は随分とわくわくとした顔をしている。
「ほな、中トロからいってみよか」
「……何だか変な趣向ですね」
「忠臣さんに美味しいって言わせる会やもん」
「何ですか、それ」
「ねぇ、忠臣さん。口調が戻ってる」
「あ」
そんな遣り取りを、斉藤夫婦はにやにやとしながら見守っていた。
忠臣の事情を知っている桜と未来、知らされてはいないが、忠臣がまともに寿司を食べるのが初めてだというのを知った誠司が、じっと忠臣の同行を見詰める。
「……恥ずかしいから普通にしていて下さい」
「あかん。未来ちゃん、スマホで記念写真撮って」
「はぁい」
桜に言われてすぐに未来がスマホを構え、誠司までスマホを構えている。
「……もぉ、本当にやめて下さい」
「忠臣くん、記念すべき中トロを食べていいよ」
「……」
こうなっては「もうどうにでもなれ」という心境で、忠臣は一つ息を吐いてから箸で中トロを一貫取り、ネタに醤油を少しつけて――じっと見詰めてからパクリと口に入れた。
「どぉ?」
「忠臣くん、どう?」
「美味しいかい?」
「お兄ちゃん美味しい?」
「美味しい?」
その場にいた全員が次々に訊いてくるので、忠臣は恥ずかしくなってソファの背もたれの方を向いてしまう。
「あーっ、お兄ちゃん照れてる」
「これも記念に撮っとこ」
カシャッとシャッター音が聞こえて、こんなどこの家庭にもありそうな何気ない風景が、忠臣には初めての体験で嬉しくて堪らない。
後ろを向いている忠臣を、隣に座っている桜がギプスの両手で抱き締めてくる。
「忠臣さん、美味しい?」
「……はい」
カシャッ
それをまた未来がスマホの画面をタップして、写真を撮った。
「どんな風に? 馬鹿にしたりしぃひんさかい、感じたままに言ってみて?」
桜が体を戻してギプスの両手で忠臣の腕を挟むと、顔を真っ赤にした忠臣が口をもぐもぐさせながら前を向き、口の中の米粒を飲み込んで口を開く。
「……本当に、笑わないで下さいね?」
「うん」
「……中トロの脂がふわっと舌の上に優しく降りて、身が凄く甘くて……、ああ、甘いってああいう感じなんですね。シャリが程よくその脂を打ち消してくれて、ネタとシャリのバランスが絶妙で……。ああ、何言ってるんだろう」
最後は恥ずかしそうに片手で顔を覆ってしまう忠臣の頭を、桜がギプスの手で優しく撫でた。
「なんも恥ずかしゅうないんえ? 私は忠臣さんがどんな風に美味しいって感じたのか、素直な所が知りたかったの」
「……うん」
その間、二人の子供は好きな寿司ネタを食べてしまってから、それぞれ唐揚げや茶碗蒸しを食べている。
「忠臣くん、お寿司美味しくて良かったわね!」
「はい、ご馳走様です」
舌が喜びを覚えている。
「おーい、ご馳走様言うの早いぞ。他のネタ食べて、唐揚げと茶碗蒸しも全部食べてくれ」
「はい」
初めて味わった中トロが美味しくて、周りが優しくて、涙もろい忠臣がまた泣いてしまう。
それを茶化す事なく、桜がにこにことして口を開いた。
「忠臣さん、私にも中トロあーんして?」
「はい」
本来の自分の役割を思い出した忠臣が、乱暴に涙を拭いて桜の紅色の漆の箸で中トロを取り、醤油をつけて受け皿を下に彼女の口元まで運んでゆく。
「半分で噛み切る?」
「お家やし、美味しいもんは元気に食べる」
「ん」
あーん、と桜が大きな口を開いて、その中に忠臣が中トロをそっと送り込むと、桜がもぐもぐと口を動かして「んんふぃ」と目を細めた。
「美味しそうに食べるね」
「うん!」
「忠臣くん、美味しいって普通なのよ? 普通って特別よりもずっと凄い事なんだから」
茶碗蒸しの器を手に未来が笑い、それに誠司も微笑む。
「本当に、未来ちゃんは大切な事が分かってる自慢の奥さんだな」
「あ~、パパのろけてる!」
そこをおませな沙夜が口を挟んで、場が和やかに笑いに包まれた。
「さーくらちゃん、いぇーい」
既に酔っ払っている様なハイテンションの誠司が、ソファに座っている桜の頭をグシャグシャと撫で、ついでにその両脇にいる娘たちの頭もグシャグシャと乱暴に撫でる。
「あはは、誠司くんやめてぇな」
「パパひどーい!」
「パパもっとー!」
娘たちの反応はそれぞれだ。
やがて出前が届いて子供達が大はしゃぎし、忠臣と桜が世話になったからと支払おうとしたが、社会人になっても現役で柔道をやっている誠司がガッチリと忠臣を押さえ込み、その隙に未来が出前料金を払っていた。
「未来ちゃん……」
「いいのよぉ、私達もお寿司食べたかったし。ねー? 誠司くん」
「そうそう、うちの家族が四人でそっちが二人、うちの勝ち」
よく分からない理屈で夫婦が問題を片付けてしまい、呆然とする忠臣と桜の前で、「美味しそう」と言いながら二人が寿司桶をテーブルに置き、子供たちがいつもの席に先に着席する。
「桜ちゃんは椅子の方が楽でしょう?」
「あ、うん」
「じゃあリビングのテーブルで皆で囲まないか? 桜ちゃんはソファに座って」
「それいいわね。いち、さや、あっちに移るわよ」
「はぁーい!」
それまでボウッとしていた忠臣だったが、慌ててダイニングテーブルに置いてあった取り皿などを移動させ始める。
「忠臣くんって寿司のネタ何が好きなの?」
誠司が何気ない質問をしてきて、忠臣は困ってしまう。
少し考えて、正直に答える事にした。
「あまり味わって食べた事がないんです。だから、今日何が好きなのか見つけてみようと思います」
「そっか」
「誠司くん、今日ねぇ。忠臣さんのお寿司記念日なんや」
「ふぅん?」
事情は知らずとも、誠司は何となく空気を読んで軽やかに返事をするだけだ。
「おっ、唐揚げある。ラッキー」
「パパずるい! いちもお肉食べるもん!」
「さっちゃんの茶碗蒸し!」
子供たちは常にフリーダムである。
「ほな皆でお寿司いただきますしよっか」
そして斉藤一家と忠臣と桜とで、例のやけに元気のいい挨拶をし、寿司パーティーが始まった。
「桜さん、何から食べたいですか?」
「私より先に、忠臣さん食べてみて?」
「え?」
小皿と箸を両手にした忠臣が、隣に座っている桜を見れば彼女は随分とわくわくとした顔をしている。
「ほな、中トロからいってみよか」
「……何だか変な趣向ですね」
「忠臣さんに美味しいって言わせる会やもん」
「何ですか、それ」
「ねぇ、忠臣さん。口調が戻ってる」
「あ」
そんな遣り取りを、斉藤夫婦はにやにやとしながら見守っていた。
忠臣の事情を知っている桜と未来、知らされてはいないが、忠臣がまともに寿司を食べるのが初めてだというのを知った誠司が、じっと忠臣の同行を見詰める。
「……恥ずかしいから普通にしていて下さい」
「あかん。未来ちゃん、スマホで記念写真撮って」
「はぁい」
桜に言われてすぐに未来がスマホを構え、誠司までスマホを構えている。
「……もぉ、本当にやめて下さい」
「忠臣くん、記念すべき中トロを食べていいよ」
「……」
こうなっては「もうどうにでもなれ」という心境で、忠臣は一つ息を吐いてから箸で中トロを一貫取り、ネタに醤油を少しつけて――じっと見詰めてからパクリと口に入れた。
「どぉ?」
「忠臣くん、どう?」
「美味しいかい?」
「お兄ちゃん美味しい?」
「美味しい?」
その場にいた全員が次々に訊いてくるので、忠臣は恥ずかしくなってソファの背もたれの方を向いてしまう。
「あーっ、お兄ちゃん照れてる」
「これも記念に撮っとこ」
カシャッとシャッター音が聞こえて、こんなどこの家庭にもありそうな何気ない風景が、忠臣には初めての体験で嬉しくて堪らない。
後ろを向いている忠臣を、隣に座っている桜がギプスの両手で抱き締めてくる。
「忠臣さん、美味しい?」
「……はい」
カシャッ
それをまた未来がスマホの画面をタップして、写真を撮った。
「どんな風に? 馬鹿にしたりしぃひんさかい、感じたままに言ってみて?」
桜が体を戻してギプスの両手で忠臣の腕を挟むと、顔を真っ赤にした忠臣が口をもぐもぐさせながら前を向き、口の中の米粒を飲み込んで口を開く。
「……本当に、笑わないで下さいね?」
「うん」
「……中トロの脂がふわっと舌の上に優しく降りて、身が凄く甘くて……、ああ、甘いってああいう感じなんですね。シャリが程よくその脂を打ち消してくれて、ネタとシャリのバランスが絶妙で……。ああ、何言ってるんだろう」
最後は恥ずかしそうに片手で顔を覆ってしまう忠臣の頭を、桜がギプスの手で優しく撫でた。
「なんも恥ずかしゅうないんえ? 私は忠臣さんがどんな風に美味しいって感じたのか、素直な所が知りたかったの」
「……うん」
その間、二人の子供は好きな寿司ネタを食べてしまってから、それぞれ唐揚げや茶碗蒸しを食べている。
「忠臣くん、お寿司美味しくて良かったわね!」
「はい、ご馳走様です」
舌が喜びを覚えている。
「おーい、ご馳走様言うの早いぞ。他のネタ食べて、唐揚げと茶碗蒸しも全部食べてくれ」
「はい」
初めて味わった中トロが美味しくて、周りが優しくて、涙もろい忠臣がまた泣いてしまう。
それを茶化す事なく、桜がにこにことして口を開いた。
「忠臣さん、私にも中トロあーんして?」
「はい」
本来の自分の役割を思い出した忠臣が、乱暴に涙を拭いて桜の紅色の漆の箸で中トロを取り、醤油をつけて受け皿を下に彼女の口元まで運んでゆく。
「半分で噛み切る?」
「お家やし、美味しいもんは元気に食べる」
「ん」
あーん、と桜が大きな口を開いて、その中に忠臣が中トロをそっと送り込むと、桜がもぐもぐと口を動かして「んんふぃ」と目を細めた。
「美味しそうに食べるね」
「うん!」
「忠臣くん、美味しいって普通なのよ? 普通って特別よりもずっと凄い事なんだから」
茶碗蒸しの器を手に未来が笑い、それに誠司も微笑む。
「本当に、未来ちゃんは大切な事が分かってる自慢の奥さんだな」
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