泥に咲く花

臣桜

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第三十一章

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 食事が終わって子供たちはテレビを見、誠司はその面倒をみている。
 未来は桜に付き添って先にトイレや風呂などの世話をしてくれていたので、忠臣は手持ち無沙汰という事もあって、寿司桶や取り皿を洗っていた。
「忠臣くん」
 洗い物が終わってテーブルを拭いている忠臣に、誠司が声をかける。
「はい?」
「桜ちゃん、大丈夫?」
 何気ない言葉だが、その一言の奥には色んな意味があった。
「……夕方、一度大泣きしました。俺に世話を焼かせてしまうのが申し訳ないとか、そういう感情だと思います。女性特有のものがあったり、そこに当然恥ずかしいという気持ちもあるでしょうし」
 テーブルを拭いてキッチンに戻り、台布巾を洗ってシンクに掛け、忠臣がリビングのソファに座る。
「正直、悪いけど会って時間がそんなに経ってない君達が、こんな関係になるのは難しいと思っていたんだ。本来なら佐咲家の方に何か言って、本家の使用人さんを一人出して貰ったり、ヘルパーさんを雇った方がいいのかもしれないって、未来ちゃんとも言っていた」
 誠司の言い分は尤もだ。
「それは……考えましたし、病院で未来さんに言われました。けど、桜が何かフラッシュバックに陥ってしまって、混乱したり泣いたりしてしまった時、側にいるのが俺がいいと言ってくれて、俺も桜の側にいたいと思いました」
「うん……、その気持ちは分かるよ」
 沙夜は満腹になってトロンとした顔で誠司の胡坐の上で脱力し、一華は口を開けてテレビアニメを見ている。
「ただ、分かっていると思うけど、手が不自由だとフラストレーションも溜まるし、思い通りにならなくて癇癪を起こす事もあると思う。増してやあの子はピアニストになりたいと熱望してる子だ。どれだけの爆弾を抱えているか分からない」
「……はい」
 それは想定している。
 当たり前の事だと思っているし、受け止める覚悟はある。
「不謹慎な言い方かもしれませんが、俺達がこうやって逸った同棲をして介護までが重なって、大変かもしれませんが、こういう事を乗り越える事が出来れば、結婚しても問題なく暮らしていける気がするんです」
「……そうだね、上手くいく事を願ってる。けど、一人じゃ手に負えないと思ったら、いつでも未来ちゃんを呼んで? 俺が休みの時は、俺もすぐに来るから」
「はい、有り難う御座います」
 バスルームの方から、桜と未来の声が聞こえる。
「桜ちゃん、割と挫折のない人生だったんだって。京都の家で生まれて、大切に育てられて、性格もいい子だったから運も良かったのもあるかと思うけど、いじめとかにも遭わなくて。小さい頃からピアノに触れていて、恋愛をまともにする暇もなくピアノばっかり弾いて、夢に向かって驀進していたんだって。
 未来ちゃんから聞いた話では、あの犯罪者が初めて付き合った相手らしい。そういう意味では、運がなかったよね、桜ちゃん」
「……」
 無理もない。
 大切に育てられたお嬢様というものは、基本汚れや疑う事を知らない。
 優しくて誰にでも分け隔てなく接するから相手にも大切にされ、結果、より純粋培養な人間が出来てしまう。
 それが高校生までエスカレーターだったのだというから、大学生になって京都から上京して、そこで彼女の魅力に惹かれて怖気づく事なく声をかけてきたのが、たまたまあの男だったのだ。

 桜だってピアノ一筋でも、恋愛がしたくない訳じゃない。
 共学になった環境で、知人に紹介されたのがあの男だという。
 初めは興奮して未来に報告していたらしい。
 告白をされたとか、手を握ったとか、一緒に映画を観たとか、そういう可愛らしい報告があった後、キスの報告はどうにも歯切れが悪かった。
 電話口で、「思ってたより、キスってロマンチックやないんやね」と寂しそうに言っていたのが印象的だったらしい。
 その後、初体験やらもあったらしいが、歯切れの悪い桜の報告を未来がまとめると、どうにもあの男は嗜虐的な性癖の持ち主らしく、キスもセックスも桜に優しくしてくれた事はないらしい。
 そういう性癖を持つから、そういう話題をネットで取り入れて、それを桜に試したくなる。
 桜はそういう行為を受けて喜ぶ性質ではなく、ただただ「大切にされていない」と不満だった様だ。
 そこに現れたのが忠臣、という流れだったらしい。
 プレイ的なものではなく、初めて暴力という暴力を受けて泣きながら未来に電話をした時は、付き合っている男性に暴力を振るわれたというショックもあったが、それよりも男が発した「家畜」「雌豚」「奴隷」、そんな暴言に心の傷の方が深かったという話だ。

 その話は入院中に忠臣も聴いていて、怒りと悲しみとやるせなさで、やはり涙を零してしまった。
 忠臣はそれまで随分と自分を淡白な人間だと思っていたが、本気で人を好きになる事で自分がかなり涙脆い人間だと分かり、それが好きな女性の目の前で流すものだから、ずっと決まりの悪い思いをしていた。

 けれど、桜は忠臣の涙が好きだという。
 綺麗な涙だと。

 忠臣としては、男なのに情けないという気持ちがある。
 けれど桜や未来はそんな忠臣を、可愛いとか愛しいとか言う。

 歓迎してくれているのは分かるが、男としては可愛いと言われてもしっくりこない。
「格好いい」「頼りになる」、そんな言葉が欲しいと思うのは、性の意識や境界線がぼやけている現代において、古臭い考えなのだろうか?
 男らしさ、女らしさは人それぞれの価値観があっていいと思うし、その価値観に合う者同士が恋人になったり結婚すればいいとは思っている。
 それに他人が自分の価値観を押し付けるのは、余計なお世話だ。

 価値観については勿論恋愛においても同じで、幾ら桜が初めて付き合ったとしても、通常ではない性癖を持つ者が、相手にそれを無理矢理合わせさせようとするのは、どれだけ愛情が付随していても、合う合わないが生じるのは仕方のない事なのだ。
 それで拒絶されて逆ギレされていては、交際相手としても安心して付き合う事は出来ない。

「メンタルケアは……、心療内科とかそういうものは、まだ行かなくていいんでしょうか?」
「どうだろう? 多分、今は心が麻痺しているんだと思う。メンタルケアだけは、病気の予防みたいにはいかないし、必要になってから……になるんじゃないかな」
 一華はテレビアニメが終わって、誠司にもたれかかって寝ていた。
「桜が目覚めて、すぐにアフターピルを服用させたというのは本当ですか?」
「ああ、手術が終わってHCUで意識が戻った時、投与されたみたいだよ」
「効けばいいんですが……」
「七十二時間以内に飲んだら、かなり避妊の確立は高いらしいよ」
 ソファに座った忠臣が両膝に肘をつき、両手で顔を覆って重たい溜息をつく。
「……桜が何をしたんだ」
 バスルームから笑い声が聞こえ、シャワーの音がする。
「ごめん、まだ同棲して一日目なのに、少し俺が心配しすぎたね」
「いえ、心配して下さるのは嬉しいです」
 沙夜は誠司の胡坐の上で、すっかりごろんと横になって小さな寝息を立てていた。

 翌日も平日という事なので、未来が桜の世話をした後は斉藤一家は揃って帰っていった。
 玄関先で礼を言って見送り、さっぱりした桜が裸足でリビングに戻ってゆく。
「忠臣さんもお風呂入ってもうて? 私、未来ちゃんのお陰でお風呂もおトイレも済んでるし、あとはテレビついてたら平気」
「そう? なら急いで入って来るから」
 桜に新聞のテレビ欄を見せ、見たいというチャンネルに合わせてから、忠臣は急いでバスルームへ向かう。

 手早く体と髪を洗いながら、出来るだけ先ほど誠司と話した事については、余計に考えないようにしていた。
 それでも、自分用に買って来た男性用シャンプーとリンスで髪を洗い、バスチェアに座って後頭部にシャワーを当てて洗髪液を流しながら、瞑った目からは涙が出てしまう。
 
 脆くなる。

 大事な人が出来て強くなると思っていたら、
 思いの他自分は脆くなっていた。

 シャワーを止めてタオルでざっと髪の水気を拭き、曇った鏡を掌でキュッと擦ると、そこには疲れた顔の自分がいる。

 桜が生きていて嬉しい筈だ。
 桜と同棲できて嬉しい筈だ。
『美味しい』が分かって嬉しい筈だ。

 なのに、どうして?

 不安なのは分かっている。
 悔しいのも、憎いのも分かっている。

 けれど、どうして過ぎたものとして処理出来ず、『今』を見られないのだろう?

 分かっている。
 桜が大切だからだ。

 あの時、自分がもっとしっかりしていれば、
 あの時、自分が桜を守っていれば、
 そういう後悔ばかりが纏わりついて、じわじわと黒い毒が忠臣を苦しめる。

 だがこれは、桜の家族や斉藤夫婦も感じている事だ。

 自分だけではない。
 今の自分が出来る事は、明るく振舞って桜が絶望と対面しても、それと一緒に戦っていかなければならない事なのだから。

 一つ息をついて立ち上がり、手早く後片付けをしてバスルームを出た。
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