泥に咲く花

臣桜

文字の大きさ
34 / 56

第三十二章

しおりを挟む
 半乾きの頭でリビングに戻った忠臣は、ぎくりとして立ち止まった。
 桜が見たいと言っていた番組はCMになっていて、そのCMでは日本人ピアニストの公演会の知らせが流れている。
 桜はじっとテレビを見詰めていて、その表情の裏に何が渦巻いているのかは分からない。
 咄嗟に、忠臣の口から声が出た。
「桜!」
 ハッとして桜が忠臣を振り向き、その目には涙が浮かんで頬を濡らしている。
「た、忠臣さん、もぉ出たの? さっぱりしはった?」
 慌てて頬をごしごしとギプスで擦り、桜が取り繕った笑顔を浮かべ、忠臣にはそれが痛々しくて堪らない。
「ああ、お陰様で」
 隣に座って桜を覗き込むと、甘える様に桜が抱き付いてくる。
「……忠臣さんは優しいねぇ。……きっと、これがほんまの優しさなんやと思う」
 シャワーを浴びた後の少し上昇した忠臣の体温を感じ、その胸元で桜がぽつりと言葉を落とす。
 忠臣はその華奢な体を優しく抱きしめ、何度も何度も頭を撫でてやる。
 この細い体に、今どれだけの悲しみと絶望とが渦巻いているのかは分からない。
 シェアする事が出来れば、と思うが、人の心だけは想像するしか出来ない。
 
 なんて不完全なんだろう。
 不完全だから、自分の型とカッチリと合う型を求め続け、その間にも笑って、泣いて、怒って、様々な感情を経て疲れてしまって。
 疲れてしまえば、歩みは止まってしまう。
 それを癒してくれる病院という場所があったり、それにかかる余裕のない者は、ボランティアが受け入れてくれるかもしれない。
 そんな善意の団体があるに関わらず、世の中には何処もかしこも殺人や詐欺、差別などの、心がささくれる様なニュースで騒がれていて。
 人を傷つける事で心が痛まず、慣れてしまえば人は化け物になる。
 優しくあり続ける事は難しい。
 やられれば、やりかえしたくもなる。
 だが、桜がかのガンジーの様な非暴力、不服従の姿勢を取り続けていれば、やがて彼女は心身ともに傷だらけになって死んでしまうだろう。
 殺されなくても、彼女が自ら命を断ってしまう事も有り得る。
 世界は無情で、死を選ぶ者に対する反応と言うのは、その家族や身内以外の者を見れば冷徹なものである。

 自分に関係なければいい。
 自分に害がなければいい。
 死んだの? 可哀相に。
 葬儀はどうなるの?
 遺産は?
 
 その程度だ。

 存在が消えれば、やがて忘れられる。
 残された家族がどれだけ思っても死んだ者は戻らず、せめてと思って裁判を起こして勝訴したとしても、やはり死人はかえらない。
 その人がどれだけ懸命に生きて、どれぐらいに嬉しい事があったり、悲しい事があったとしても、その生涯が短ろうが長かろうが、関係ない者にとっては「あ、そう。大変だったね」の一言で済んでしまう。

 桜の命は助かった。
 忠臣と出会って桜が忠臣を愛そうとしたからこの様な事にはなったが、男と付き合ったままであったら桜は性格の不一致から別れを切り出し、同じ事になっていたのかと思う。
 その時、桜のマンションを訪れる者がいなかったら――。
 桜が普段、周囲の住人と仲良くしていて好感を持たれていなかったら――。
 そう思うと忠臣の背筋がゾクリとし、桜を抱く手に力が入る。
「……忠臣さん? 心配してくれはるの?」
 しっとりとした桜の声は、以前の様に優しい声だが、事件以来はその声に常に悲しみが混じっている。
「桜さんの事はいつも心配しています。貴女が好きだから」
「私も忠臣さんが好き。優しくしてくれはるから」
「ん? 優しい所だけ?」
 忠臣がそっと腕を伸ばしてリモコンを手にし、テレビを消してしまう。
「嘘や。ぜぇんぶ好き。けど、顔とか、背が高い所、とか言うたら、忠臣さんもっと怒るでしょう?」
 クスクスと桜が笑って「よいしょ」と小さく言って体を横にし、忠臣の膝枕の上に頭を乗せて寛ぐ。
「怒りませんよ。ちょっとガッカリするだけだ」
 その頭を忠臣が優しく撫で、愛でられている猫の様に桜が目を細めた。
「ほらぁ。忠臣さん、また敬語に戻ってる」
「あれ、本当だ。なかなか抜けないね」
「根っから丁寧な人なんやね。自分から言い出したのに」
 おかしそうに桜が笑い、忠臣としては笑われて照れ臭いという気持ちはあるが、今は桜が笑ってくれているのなら、何でもいい。
「ねぇ、忠臣さん。お寿司美味しかった?」
「うん。米と脂の相性って凄いね」
「もぉ。そういう表現やなくて、もっと美味しそうな表現で言ってぇな」
「でも、そういう事言うと、テレビの芸能人がやってる食レポみたいで恥ずかしい」
「そやし、私はどんな感想でも笑わへんて。唐揚げと茶碗蒸しはどうやった? 美味しいって思った?」
「美味しかったよ。
 肉って美味しいね。グルメ番組とかで高級ステーキとかやっているのがよく分からなかったが、今なら食べてみたい気もする。
 茶碗蒸しは凄く繊細な味がした。あれって卵使ってるの? 優しい味だね」
「ふふ、ほな私が元気になったら、唐揚げと茶碗蒸し作るね。茶碗蒸しは、卵さんとお出汁で作ってるんよ」
「楽しみにしてる」
 桜が作ってくれるというだけで嬉しいのに、今日出前で食べて美味しいと感じた物を、わざわざ桜が作ってくれると約束してくれるその心が嬉しい。
「テレビ、一緒に見よ? さっきのCMなら私気にしてへんし」
 ピアノの部屋のドアは閉じたまま。
 桜が柔らかい嘘をつく。
「そう? さっき見てたのクイズ番組だっけ? まだやってるかな?」
 時計を見てみると長針は五十分過ぎを指していて、一時間枠の番組ならそろそろ終わりかける時間だ。
 リモコンでテレビをつけると、スタジオが拍手に包まれていて司会がまとめに入っている。
「さっきの問題、結局答えは何だったんかなぁ?」
「ああ、ごめんね? 消してしまって」
「ううん」
「次は何か見たいのある?」
 テーブルの上の新聞を取って桜にテレビ欄を見せ、彼女が「うーん」と悩み始めた。
 
 こういう場合に、テレビというものはいいと思う。
 暇つぶしになるし、一部の報道番組の報道の仕方によっては物議が巻き起こるかもしれないが、基本的に悪意を持った公共電波というものはない。
 忠臣は今までテレビはあまり見なかったが、こうやって桜と一緒にのんびりするのも悪くはない。
 ただ心配なのは、テレビというものは様々な情報が流れるので、先ほどの様にうっかりとCMで避けているものが映ると、こちらとしてもヒヤッとしてしまう。
 徹底的に避けるのは音楽番組だと注意しているが、桜が見たいと言うのなら仕方がない。
 それでも出来る事なら、桜の心の傷をえぐるような映像は見せたくなかった。
「明日にでも、レンタルDVD屋に行ってみませんか? 夏休みだから少ないかもしれないけど、在庫のある古い映画とかでいい物があるかもしれない」
「あ、それええねぇ。て、忠臣さんまた敬語」
「あ」
 顔を見合わせて二人で笑い、それから桜が見たいと言った外国の観光地を紹介する番組を見る事にした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...