泥に咲く花

臣桜

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第三十三章①

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 その様にして緩やかに二人の夏休みは過ぎてゆく。
 本来なら桜は夏季の間にみっちりとレッスンをする筈だったが、それは暫くキャンセルとなり、大学側にもそれは断ってある。
 桜が通院する時は勿論忠臣も付き添って、出来る限り未来も病院で話を聞いてくれていた。
 一緒に買い物をして、その材料で忠臣が桜に指導されながら料理を作り、その腕前も少しずつ安定している。

 そんな時に、忠臣のスマホに母から電話が掛かってきた。
「はい、母さん?」
『こんにちは、忠臣。桜さんのサポートをするって言って家を出たけど、上手くやれているの?』
「はい、今は大きな問題もなく」
『今度都合が合うのなら、迎えの車をよこすから桜さんと一緒に家に来ない?』
「それは……一時的な事ですか?」
『そうよ、余所余所しい言い方をすれば、遊びに来ない? っていう意味』
「……桜に訊いてみて、返事をします。詳細はメールか何かで」
『分かったわ』
 そうやって通話が切れ、忠臣の隣に座って映画を見ていた桜が、「何のお電話?」と首を傾げる。
「母さんが、都合の合った時に桜を連れて家に来ないかって」
「え?」
「気が進まない?」
「ううん。私も忠臣さんを急にお家から出してもうたもんやし、一遍ちゃんとご挨拶せな、て思うて」
「君の家からは、結構前にうちに挨拶の電話があったらしい。忙しいからすぐに顔を合わせて挨拶出来ないが、俺に宜しくという電話があったと、伝え聞いたよ」
 忠臣の言葉を聴いて、桜が大きな溜息をつく。
「ほんまにうちの家族は……」
 言葉が最後まで続かず、そのあと桜は黙り込んでしまった。
「……ずっと訊こうと思っていたけど、ご家族の仲が悪いの?」
「うーん……仲が悪いとか、嫌いとかやないの。お父様とお母様はそれぞれほんまにせわしない人で、お兄ちゃんはお父様の会社のサポート中。妹は受験生」
「……一人暮らしだと大変だね」
 それしか言えない自分が歯痒い。
 同時に、桜の家族や両親に対して、彼女がこんな目に遭ったのだからすぐに駆けつけてもいいではないか、と怒鳴りつけたい気持ちもある。
「ううん。こういうの、慣れてるし、想像してたし」
 静かに答える桜の目には、諦めの色があった。

 入院していた時。
 夜に個室のベッドで、鎮痛剤を飲んでボウッとした意識の中ぐるぐると考えていた。

 何故、自分は一人なのか。
 昼間は未来が来てくれて、忠臣も毎日顔を出してくれるのに、夜になったら帰ってしまう。
 仕方がないと分かっていても、こんな時に一人になりたくない。
 怖くて、不安で堪らないのに。
 どうしてこんな知らない場所で、一人で寝ていなければならないのか。
 夜になると毎晩混乱して、そんな中いつの間にか眠りに落ちて朝になったら、検温やら朝食の世話やら。
 看護師に迷惑をかける訳にいかないので、無駄話をするには気が引ける。
 もし、あの男が逃げて、逆恨みをして夜の闇に乗じて復讐しにきたら――
 そんな不安に駆られてまともに眠れず、昼間は未来や忠臣が見守ってくれている時に少しだけ寝た。
 おむつの中に用を足すのも恥ずかしく、初めのうちは我慢出来ずにしてしまった時は泣いた。
 生理の時なら経血が勝手に出てナプキンに吸収されるが、意識のある時の排泄は自覚症状があってしなければならない。
 夜間に眠れずに過ごし、トイレに行きたくなった時は一人で起き上がれないので、そのままおむつに用を足すしかない。
 情けなくて、
 恥ずかしくて。
 泣いている桜を見回りに来た看護師は慰めてくれて、「早く元気になろうね」と、励ましながらおむつを取り替えてくれる。
 何度も「ごめんなさい」と泣いて謝る桜に、看護師は「気にしないで」と優しく言ってくれるのだが、その優しさがまた辛い。
 温かなものが股から漏れて、吸水されるので不快感はないのだが、その「トイレ以外の場所で漏らしてしまった」という羞恥心。
 女性としての自尊心はズタズタになり、下の世話をされている時は、家族でもない人に恥部を見られて恥ずかしい事この上ない。
 大きい方の用事を済ませる時も、ギプスの手でウォシュレットや乾燥のボタンを押す事は出来るが、結局は無防備な尻を出して紙で拭いて貰わなくてはならない。
 その時、排泄物を見られてしまうし、やはり情けないわ恥ずかしいわで、桜は居た堪れなくなってしまう。
 溜息しか出ない状態でまたベッドに寝かされ、そのまま安らかに眠る事が出来る訳がない。
 
 どうして一人なの?
 どうして家族は誰も側にいれてくれないの?
 私が大切じゃないの?
 私を愛していないの?
 帰りたい。
 京都の家に帰りたい。
 友達に会いたい。
 普通でいられない今だからこそ、安心出来る環境にいたい。

 ――ピアノが、弾きたい。

 そんな思いが溢れて次々と涙が枕を濡らし、桜は寝不足状態になっていた。

 いま忠臣と同棲している状態では、初め忠臣は和室で布団を敷いて寝ると言っていたが、桜が一緒にいたいと言い、ベッドルームの隙間に忠臣が布団を詰め込んで同じ部屋に寝ている。
 本来なら同じベッドで寝たいが、怪我人の桜にはより良い環境で寝て欲しいし、怪我をした手が忠臣の体の下敷きになってしまっては困る。
 側に忠臣がいてくれるという安心感で、桜は帰宅してやっと少し安心出来るようになり、寝不足が祟っていた顔色も、最近ではかなり健康的になってきた。
『今』は、一人ではないと思える。
 寝ても覚めても側に忠臣がいてくれて、自分を心配してくれて、優しく笑いかけてくれる。
 その笑顔の奥に、過剰なほどに気遣ってくれている気配は感じるが、それでも相手は忠臣だ。
 自分を心配してくれている(と思う)し、
 自分を心から愛してくれている(と思う)。
 ただ――

「ねぇ、忠臣さん」
「ん?」
「……わやくちゃなこと、訊いてもええ?」
「どうぞ? どんな事でも」
 映画は、グレタ・ガルボが主演する『椿姫』を見ていた。
「……私、忠臣さんのお荷物やない? 私の事、嫌いやない?」
「なに、言ってるの?」
 忠臣が桜を背中から抱き締め、肩口に顎を乗せる。
 「私、忠臣さんが大好きやの。優しいし、未来ちゃん達とも仲良くしてくれはるし、ほんまに好き。
 けど、今こんな風に忠臣さんを……まだ家族でもないのに、拘束した生活をさせてもうて、ほんまにきずつなくて……」
 桜の声が震える。
「ねぇ、桜。何度でも繰り返すよ? 俺は君が好きだ。愛してる。
 確かに一緒に暮らす事は大変かもしれない。けど、これから俺達が結婚するんだったら、それは毎日の事になるんだから。料理も慣れてきたら楽しいよ?」
 忠臣の優しい声が耳元でするが、桜が言いたい事はそういう事ではない。
「そうやないの! 私……、おトイレも一人で出来ひんで、ご飯も一人で食べれへん。お風呂も。テレビのチャンネルも変えられへんし、クーラーの設定変える事も出来ひん。背中が痒かったら掻いてもろて、おし……お尻、拭いてもろて……っ、ぁ、あぁっ」
 大粒の涙が次から次へと頬を滑り、手術跡のある桜の顔を濡らす。
 ギプスの手でそれを拭おうとすると、優しく忠臣がその手を止めた。
「桜、俺はちっとも迷惑だと思ってないよ。桜が心配している様な、面倒臭いとか、汚いとか、そういう事は思ってないから。
 いま、桜は大怪我をしてるんだ。誰かが面倒を看るのは当たり前。それを、ご家族が側にいらっしゃらないから、結婚を約束した俺が側にいる。それだけだよ?」
「けどっ……」
 桜の体が震えて、忠臣が腕を伸ばしてテーブルの上のティッシュボックスを引き寄せる。
「ほら、顔の傷に障ったら困るから、涙拭くよ?」
「うん……」
 傷跡に触れない様にティッシュを優しく当てて、忠臣が桜の涙を拭いてゆく。
「桜、女の子として気にする気持ちは分かるつもりだけど、俺の事は家族だと思って?」
「思いたい……っ、けどっ」
「……じゃあ、京都の実家に帰る? このマンション、本当はいたくないんじゃないの?」
「いや!!」
 忠臣は当たり前の提案をしただけだったが、その言葉に桜は思いの他激しい反応をした。
「京都のっ、……いえっ、までっ、……ただおっ、みさっ、ん、来てくれないっ、や、ないのっ」
「桜……」
「我侭っ……、ごめんなさいっ、けどっ、離れたっ、く、……ないっ」
 ぶるぶると震える桜の体を支え、「ごめん」と忠臣が彼女の頭を何度も撫でる。
 感情が高ぶった桜が泣きじゃくり、それが落ち着くまで忠臣はずっと「ごめんね、離れないから」と囁きながら、桜の頭を撫で続けていた。

 泣き止んだ桜にホットミルクを少し冷ました物を飲ませ、その温かさと忠臣が入れてくれた蜂蜜の甘さにざわついていた桜の心が凪いでゆく。
「……ほんまは、このお部屋怖い。今にもあのドアからあの人が怖い顔をして入ってきそうで……、逃げたら髪引っ張られて、思い切り……何度も殴られて、服、が、……破かれて、犯されて……、痛くてかなんのに『気持ちいいだろ? 雌豚』って言われて、……やっと終わったら……ハンマーで……わたしの……ゆび……」
「桜、いいよ」
「……痛くて、痛くて、なにを叫んだのか分からへんの。ただ、あの人狂ったみたいに笑ってて、私の全部を奪ってやるって言ってた。痛くて気ぃ失いそうになってたら、おなか……刺されたんは、あんまり痛いとか思わへんで……手が痛くて痛くて……、そしたら、忠臣さんが来てくれたの」
「……」
 桜の口調は夢の内容を話している様な脆さがあり、その言葉の中に実体験を話しているという感じはなかった。
 ただふわふわと、目にした幻想を口にしている様な、頼りない言葉。
「忠臣さんがね、綺麗な顔で泣いてはって、私の名前を呼んでくれはって、ああ、忠臣さんや……、ってすごぉく安心して。泣いてはるから、涙を拭いてあげたかったんやけど、手が動かへんくて。でも、意識が遠くなって、死ぬんかなぁ? って思って、その前にキスして欲しいなぁ、って思って……」
「さくら」
 忠臣の目が悲しみに満ちて、透明な水気で潤む。
「気がついたら、病院の天井やったの。ボーッとしてて、未来ちゃんも忠臣さんもいてくれるのに、何が起こったんかよく分からんくて。……警察の方や、検察の方にお話したのも、状況として覚えてる事よりも……感覚とかしかあんまり覚えてへんの。何がどうなったとか、順を追って説明するよりも、怖かったとかの方が強くて」
 一粒、忠臣の目から涙が零れた。
「ボーッとしてるうちに退院になって、ここに帰って来てから急に現実っぽくなってね? ……忠臣さんにお世話して貰うんが、えらい恥ずかしくて、きずつなくて、悲しくて……。そしたらね、段々怖くなって。色んなもんが怖くなってくるの。一生ピアノ弾けへんのかなぁ、とか、傷残るのかなぁ、とか、顔の傷いややなぁ、とか、……忠臣さんに嫌われて、捨てられたら……どうなるんかなぁ、とか」
「捨てないよ!」
 桜の言葉に今度は忠臣が過敏に反応し、大きな声を出してからまた「……ごめん」と呟く。

 若い二人が、殺人未遂現場で抱き合う。
 片方は初恋の相手で、
 片方は初めてまともに付き合えると思った相手で。

 あまりに若すぎて、あまりに二人が負った傷が大きくて、それを二人で負おうとしているのに、傷が大きすぎて溢れてくる血で息が詰まってしまいそうだ。
 起こった事実を客観的に受け止めるには、二人は当事者すぎた。

 桜は自分の命が助かって、アフターピルも服用し、顔面の手術も早い段階で済んで、指も六ヶ月の固定後に根気よくリハビリをすれば、またピアノを弾けると言う非常に運がある状況に気付いていない。
 ただ、自分が大きな事件に巻き込まれた事に翻弄され、不自由な身体や忠臣に世話を焼かせる事で、今は頭が一杯になっている。
 一番桜を支配しているのは、現実味がない事だろう。
 確かに体の痛みや不自由など、リアルはそこにあるのだが、未だに自分の身に起こった事が現実なのか、もしかしたらこれは夢なのではないのかと、そういう意識が彼女を何処かボウッとさせている。

 そんな桜を見て、忠臣は「麻痺しているのだろうな」と思っていた。

「忠臣さんが初めてお見舞いに来てくれはる前にね、あの人のご両親が謝罪に来はったの」
「……なんて?」
 思い返せば、当たり前の事だ。
 自分の息子が交際相手の女性を殺しかけたのだから、親とすれば謝罪するのは道理で、それをしにいくのも申し訳ないという気持ちと、恥ずかしいという気持ちで一杯だ。
「申し訳ありませんでした、って」
「……それだけ?」
「うーん……他にも何や言わはってたけど、……私あんまり覚えてへんの。未来ちゃんと誠司くんが聴いてくれはってて……、何や言い合い……やないけど、誠司くんが怒ってはって、未来ちゃんが泣いてて、……それを私はぼんやり聞いてた気がする」
 それは後日、斉藤夫婦から聞こうと忠臣は内心思った。
「私、あの人のご両親に何か言うべきやった?」
「……あまり言葉が入らなかったんだろう? 仕方がないんじゃないかな。その為に未来さんと誠司さんがいてくれたんだし」
「うーん」
 映画はいつの間にか終わっていて、昔のエンドロールは今の映画よりも短い。
「『椿姫』って映画でまともにストーリーを把握したけど、悲しい話だね」
「私は……忠臣さんのご両親に何や言われても……、身を引いたりしたくないなぁ」
「おや、結構強欲なんだね」
「……忠臣さんは私に対してそう思わへんの?」
「誰にも渡したくないし、諦めたくないよ」

 求めて、愛の言葉を求め合って。
 気持ちを確かめて。

 今はまだ、二人は「側にいてくれれば幸せ」とか、そういう事で安心出来る年齢ではない。
 本来なら忠臣は性欲がピークとも言える年齢だし、桜はそれに応えてもおかしくない。
 ただ、それが出来ない桜の体の状態だから、二人はこうやって出来るだけ触れ合って言葉で互いの気持ちを確かめ合っている。

 熟年夫婦の様な落ち着きと信頼を得るには二人は若すぎて、抱えている傷が深すぎて、『今』という辛い状態をどうにかしたい忠臣は、何が何でも桜が求める事に応えてあげたいと思う。
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