36 / 56
第三十三章②
しおりを挟む
「……ふふ、嬉しい。嘘でも嬉しい」
「嘘じゃないったら」
まるでいちゃつき合っている恋人の睦言のようだが、その現状は不安で堪らない『今』を何とか乗り越える為に、口から出た必死の救命ロープ。
「忠臣さん、ずっと側にいてね」
「うん」
桜の頭を優しく撫でてから忠臣は立ち上がり、終わった映画のDVDを取り出してケースに入れる。
「次、何見る?」
「何あったっけ?」
桜が見たいと言ったのは、スリルがあるアクション映画よりも、恋愛映画や、心が温まるような映画だ。
「『アンナと王様』『博士が愛した数式』『ラブアゲイン』だよ」
「ほな上から順番に」
「了解」
忠臣がDVDをデッキに入れてまたソファに戻り、映画が始まる前に桜に「トイレ大丈夫?」と訊く。
「うーん……、行っとく」
「分かった」
同棲が始まって桜は初めこそ忠臣にトイレの介助をされるのを恥ずかしがっていたが、それを我慢してしまうと、おむつの処理をさせてしまう事に気付いてからは、自分からトイレの申告をする様になっていた。
気を遣って水分を取らない様にしようとした素振りもあったが、それは忠臣がすぐに気付いて、注意をしてから自分から積極的にお茶を飲ませるようにしている。
スムーズにお互いに頼って、頼られて、という関係ではないかもしれないが、ぎこちなく二人の介護生活は始まっていた。
トイレまで行って桜のスウェットの短パンを下げ、おむつも下げる。
両手が使えない桜はバランスが取れないので、脇を支えながら便座に座らせ、用を足す間は忠臣はトイレの外で待つ。
用を足した桜はギプスの指先で、ちょんとウォシュレットのボタンを押して洗浄をして、それから忠臣に声をかけて尻を拭いて貰うという流れだ。
「……ごめんね」
忠臣にもたれ掛かって桜が呟き、腰を浮かせた桜の尻を拭いてやりながら「構わないよ」と忠臣が優しく答える。
その遣り取りは毎回されていて、まるでそれは懺悔と許しのようだった。
「映画、こうやってゆっくり見るの好きなんだ。しかも、今まで自宅の部屋で一人で見ていたけれど、今はこうやって桜と一緒に見られるのが何よりも嬉しい」
「うん……」
トイレのレバーを引いて、使い捨てのビニール手袋を内側から丸めてゴミ箱に捨てて洗面所で手を洗う忠臣を、後ろから桜がじっと見ている。
「ん?」
鏡越しにその視線に気付いた忠臣が微笑むと、桜も微笑み返す。
本当は、こんな事をする人じゃないのに。
いい所のお坊ちゃんで、いい大学に行っていて、頭がよくて顔も良くて、今まで味覚障碍からくるもので、他人への興味も持てず仮面を被って過ごしていたが、社会的地位で言えば頂点にいる人だ。
それが、自分の介護をしているだなんて。
忠臣がもし介護士を目指しているのなら、桜の言葉はもっと違ったかもしれないが、それでも今は、忠臣にそうさせてしまっているのが申し訳なくて仕方がない。
悲しそうに微笑みながら、桜は「映画見よ」とリビングに戻ってゆく。
「桜、さっきの話だけど、うちに行ってもいい?」
「ああ、うん。さっきも言ったけど、私もちゃんと忠臣さんのご両親にご挨拶したいって思うてたし。何や忠臣さんをご家族から奪ってもうた感じになってもうて、きずつないって思って」
「そんなこと気にしなくていいよ。元々うちの家族は、あまり関係が親密ではなかったから」
そういう忠臣の横顔は何でもない事を言う表情だが、桜はそれを寂しそうだと思う。
「ねぇ、忠臣さん。ほんまは誤解が解けてホッとしてはるんでしょう? お父様の特殊な好みはそのままやけど、誤解は解けたんでしょう?」
「……」
「今からでも、仲良うするんに遅いなんて事はないんよ?」
腫れが引きつつある桜の黒い目は、じっと忠臣を見詰めて真剣に説き伏せようとしている。
よく言う。
自分だってあまり家族愛に恵まれた人じゃないだろうに。
そこまでして他人を思える桜が、やはり忠臣は少し分からない。
大切な人の事は大切に思いたいという気持ちは分かるつもりだ。
けれど、いま大変なのは桜自身で、桜は彼女自身の不安や悲しみなどを優先すべきだ。
その為に忠臣は側にいるのだし、それをぶつけられる覚悟でいるのに、逆に気遣われてしまってはこちらとしてもどうしたらいいのか分からない。
どうしてそこまで。
泥にまみれて尚、美しく咲き続けようとするのか。
「……」
「忠臣さん」
「……」
「忠臣さん」
「ん?」
「まだ映画始まったばかりやえ? 泣く所やないねんけど」
「……うん、そうだね。どうしたんだろう。泣き癖がついてしまったのかな」
「ふふ、忠臣さんの涙だぁいすき」
桜が体を寄せて顔を近付け、キスがしたいのかと思って忠臣が顔を寄せると、ちゅっと涙が吸い取られる。
「俺は泣いてるの君に見られるの、恥ずかしいんだから」
「うふふ、ごめんなさい」
「さっきの事だけれど、別に本当に両親と不仲な訳じゃなくて……ただ、タイミングが合ってないだけなんだと思う」
「うん……」
「父さんの事は苦手だったけど……、これから向き合っていこうと思っている」
「うん」
「家族に向き合うって、なかなか恥ずかしくて」
「……うん。それは分かってるつもり」
「桜もご家族と何か……あったの?」
映画ではシャム王国の優美な景色が流れている。
チョウ・ユンファが演じるモンクット王が、大勢の子を抱えていて皆笑顔で、実に幸せそうだ。
「……私のお家ね、割と大きなお家やの。お父様は大きな会社を経営しはってて、お母様は毎日の様にそのお手伝いとか、奥様方のご接待をしはって。お兄ちゃんは五つ上で、社会人。当たり前の様にお父様の会社で、後を継げるように厳しい訓練中で。妹は、私と同じ音楽大学に入りたいって、ヴァイオリンに明け暮れてる感じ」
「うん」
「お兄ちゃんと妹とは結構仲がええの。お兄ちゃんシスコンやし、私たち妹もブラコン。けど、お兄ちゃんが社会人になってせわしなくなってからは、妹と二人で『寂しいね』って言うてて」
「兄妹仲がいいのは羨ましいな。俺は海外留学している兄がいるよ。男兄弟だし、離れていて久しいから、今はどうしてるかな?」
「ふぅん、お会いしてみたい」
「帰国したら席を設けようか」
「おおきに」
「ああ、話の腰を折ってしまってごめん。君のご家族が?」
「うん……」
話を促されて桜がテレビ画面を見て、少ししてからまた口を開く。
「そんな感じでね、お家がそんな感じやさかいに、乳母とか使用人さんとかがいてくれはるさかい、私達あんまりお父様とお母様に構われてへんの。お誕生日とか何かのお祝いとかはちゃんとしてくれはるんやけど、一般家庭みたいにいつも一緒に過ごして、しんどい時も楽しい時も一緒、とかはなくて」
「うん……、分かる気がする」
「そんな感じでね、特にぶつかるとか喧嘩するとかもあらへんの。そんなまま、ピアノを続けさせて貰って、東京の音楽大学にも行かせて貰って。感謝はしてるんやけど、こんな風になって、流石にせわしい家族でも駆けつけてくれるんやろな、って思ってたら……この通り」
自嘲気味に笑う桜が痛々しい。
「俺がいるよ」
「……うん」
「未来さんも、誠司さんも、一華ちゃんも、沙夜ちゃんも」
「うん。あの家族にはお世話になりっぱなしや」
「沙夜ちゃんね、マンションで俺達がキスしてた時、お昼寝してたかと思ってたのにこっそり見てたみたい」
ふとあの日のおませな沙夜との約束を思い出し、忠臣が思い出し笑いをする。
「えぇ? さっちゃんに見られたの? あぁ~……」
桜がギプスの手で顔を覆い、上半身を揺すって恥ずかしさを訴えた。
「そうやってると動画で見た北海道の熊みたいだね」
「知らへんもん」
「はは」
忠臣がスマホを手に取って、母への連絡先を開き始める。
「いつなら大丈夫? 母さんも都合があるかと思うから、連絡は早めの方がいいと思って」
「ああ、私は通院のない日なら、いつでも平気。毎日お休みで、なぁんもやる事あらへんもん」
柔らかい笑顔を浮かべる桜の奥にある表情を読もうとして、忠臣は少し目を伏せてからそれを留める。
彼女がピアノの練習を出来ないで残念がっている事は自明なのに、自分はこれ以上彼女に何を求めているのだろう?
「じゃあ、そういう風に連絡しておくね。次の通院は来週の火曜だっけ」
「うん」
忠臣がスマホに指先をタップさせているのを何となく見てから、桜はテレビ画面を見てぽつりと呟く。
「ご両親と上手にお話出来たらええなぁ」
「大丈夫だよ。君はとても素敵な人だから」
「おおきに」
顔にこんな怪我をして、両手は塞がっているのに?
そういう言葉を桜は飲み込む。
「途中でお土産何か買うて行きたい。夏やし、ゼリーとかそういう涼しいデザートとかどぉかな?」
「ああ、いいんじゃないか? 俺も甘い物っていうのを、自分で選んで食べてみたい」
「うん」
忠臣がメールを送ってスマホをテーブルに置いてから暫く二人で映画を見、ぽつりと桜が呟く。
「私の電話、どうなってる?」
「ん? ご家族から連絡あるか見てみる?」
「うん……」
曖昧に桜が返事をして、忠臣が桜のガラケーを手に取って電源を入れた。
「ほんまはね、お家の人から連絡が来るなら、固定電話に来るの」
「ああ、そうだね。でも、大体の用事は未来さんが請け負っているって」
「うん……。けど、SNSが気になって」
「……ああ、そういう付き合いもあるね」
ガラケーは起動して、桜が自分の名前を好きだと言っている様に、桜の花の写真の待ち受け画面が出てくる。
「俺のノートパソコンで見てみる? 何をやってるの?」
「ううん……やっぱりええ。心配してくれはる声があったら嬉しいけど、どうせピアノやってる仲間内なんて、ほとんどライバルやもん。ざまみろとか、もしかしたらあの人の関係者から悪意のあるメッセージがあるかもしれへん。……そういうの、今見たら……多分潰れてまう」
「そういうのは……、辛いね。俺はSNSはやっていないから、何とも言えないけれど」
桜が少し目を瞠って忠臣を見る。
「忠臣さん、SNSやってはらないの?」
「うん、便利かもしれないけど、余計なものだから」
「ふぅん……。でも、そういう考え方は賢いやもね」
「そういうの、捕らわれていたら時間も捕らわれるし、気持ちも捕らわれるだろう? 絶対に必要なものとか、なかったら死ぬとかじゃないから」
「うん……、そうやね」
ソファの背もたれに背中を預けて桜が「んー」と伸びをしてから、大きな口を開ける。
「いっそ、私もSNSスッパリ辞めて、忠臣さんとリア充になろっかなぁ」
「それは桜の自由だよ。俺は強制しているつもりはないよ?」
「ううん、こういう時だからこそ、何となく色んな事をリセットする時なんかなぁ? って」
「そういうの、急に辞めたら軋轢とか生むんじゃないかい? ゆっくり考えたら? 急ぐ必要もないし」
忠臣が桜の頭を優しく撫でる。
桜はその手が大好きで堪らない。
「うん……。けど、携帯弄れへん今やからこそ、これがきっかけになれるんやないかな? って思う」
「そう?」
「うん……」
それから優しい沈黙が訪れ、美しい王国の中での王制ならではの問題や、ジョディ・フォスターが演じるアンナが巻き起こす旋風、その息子のルイと王子と王女達の交流などが、テレビ画面の中で流れてゆく。
「忠臣さんから見たら、SNSってどう思う?」
「ん?」
「しょうもない事やて思う?」
「……俺がどう思うのか、気になるの?」
「……ほんまの所は」
桜が照れ臭そうに呟くと、忠臣が吐息を漏らして微かに笑う。
「本当に個人の自由だと思ってるよ? ただ、現実に会う人間との付き合いでも大変だし、他にもやる事があるのに、そういう目の前にいない人間と時間を問わずに付き合ったり、表情や本心が分からないのを心配しながら付き合うのは、少し大変だな、とは思うよ」
「ふぅん……」
忠臣のいう事は、的を得ていると思う。
桜自身、ピアノを続ける為に交流の輪を広げたり、情報交換をする為に始めたSNSだったが、気がついたらお喋りが楽しくなっていた。
楽しいし、皆軽いノリで話すからこそ気軽に交流出来るのだが、自分がその場にいないと、繋がっている人がどういう発言をしているのかが気になって仕方がなくなってしまう。
そういう場所はどういう悪意が潜んでいるか分からないし、そういうものを目にしてしまうと、繊細な人間はすぐに参ってしまう。
誰もが図太く出来ていて、やられればやりかえせる訳でもないし、問題が起きたとしてもSNSの運営側というのは往々にして効果的な対処というものはしてくれない。
ネットで起きた諍いのほとんどは法律では曖昧で、そういう相談が多くなると弁護士もそれに対応していかなければならないが、現実での仕事もしなければならない。
いずれ、ネット専門の対応機関がそのうち時代と共に、必要とされてくるのかもしれない。
「やめよっかなぁ」
「俺の意見を参考にする事はないよ。本当に桜の自由なんだから」
「うーん、けどお喋りの方はやめよっかなぁ。ピアニストの事とか、必要な情報を扱うのは残して」
「もし、ゴタゴタが起きたら教えて? 桜が受けた言葉は桜のものだけど、気持ちはきっと俺がシェアするから」
「おおきに有り難う。忠臣さん」
なんてこの人は優しい人なんだろう。
本当に、自分の事を思ってくれている。
どうしてあの人と出会う前に、この人と出会っていなかったんだろう。
どうして――
「忠臣さんのお母様って、どういう方?」
「ん? そうだな……。今までは父さんや家の事しか考えていない人かと思っていたけれど、この間叱咤激励されて……、ちゃんと息子の事を考えている一人の母親なんだな、って思ったよ」
「……私のお母様も、そうやったらええのにな」
テレビ画面に視線を合わせながら、桜がポツリと言葉を落とす。
「きっと心配してらっしゃるよ。実の娘がこんな事になって心配しない親はいない」
「……うん」
忠臣の言葉は嬉しいが、それに返事をする桜の声はどこまでも暗かった。
テレビの中の王族は、皆固い絆で結ばれているというのに。
「嘘じゃないったら」
まるでいちゃつき合っている恋人の睦言のようだが、その現状は不安で堪らない『今』を何とか乗り越える為に、口から出た必死の救命ロープ。
「忠臣さん、ずっと側にいてね」
「うん」
桜の頭を優しく撫でてから忠臣は立ち上がり、終わった映画のDVDを取り出してケースに入れる。
「次、何見る?」
「何あったっけ?」
桜が見たいと言ったのは、スリルがあるアクション映画よりも、恋愛映画や、心が温まるような映画だ。
「『アンナと王様』『博士が愛した数式』『ラブアゲイン』だよ」
「ほな上から順番に」
「了解」
忠臣がDVDをデッキに入れてまたソファに戻り、映画が始まる前に桜に「トイレ大丈夫?」と訊く。
「うーん……、行っとく」
「分かった」
同棲が始まって桜は初めこそ忠臣にトイレの介助をされるのを恥ずかしがっていたが、それを我慢してしまうと、おむつの処理をさせてしまう事に気付いてからは、自分からトイレの申告をする様になっていた。
気を遣って水分を取らない様にしようとした素振りもあったが、それは忠臣がすぐに気付いて、注意をしてから自分から積極的にお茶を飲ませるようにしている。
スムーズにお互いに頼って、頼られて、という関係ではないかもしれないが、ぎこちなく二人の介護生活は始まっていた。
トイレまで行って桜のスウェットの短パンを下げ、おむつも下げる。
両手が使えない桜はバランスが取れないので、脇を支えながら便座に座らせ、用を足す間は忠臣はトイレの外で待つ。
用を足した桜はギプスの指先で、ちょんとウォシュレットのボタンを押して洗浄をして、それから忠臣に声をかけて尻を拭いて貰うという流れだ。
「……ごめんね」
忠臣にもたれ掛かって桜が呟き、腰を浮かせた桜の尻を拭いてやりながら「構わないよ」と忠臣が優しく答える。
その遣り取りは毎回されていて、まるでそれは懺悔と許しのようだった。
「映画、こうやってゆっくり見るの好きなんだ。しかも、今まで自宅の部屋で一人で見ていたけれど、今はこうやって桜と一緒に見られるのが何よりも嬉しい」
「うん……」
トイレのレバーを引いて、使い捨てのビニール手袋を内側から丸めてゴミ箱に捨てて洗面所で手を洗う忠臣を、後ろから桜がじっと見ている。
「ん?」
鏡越しにその視線に気付いた忠臣が微笑むと、桜も微笑み返す。
本当は、こんな事をする人じゃないのに。
いい所のお坊ちゃんで、いい大学に行っていて、頭がよくて顔も良くて、今まで味覚障碍からくるもので、他人への興味も持てず仮面を被って過ごしていたが、社会的地位で言えば頂点にいる人だ。
それが、自分の介護をしているだなんて。
忠臣がもし介護士を目指しているのなら、桜の言葉はもっと違ったかもしれないが、それでも今は、忠臣にそうさせてしまっているのが申し訳なくて仕方がない。
悲しそうに微笑みながら、桜は「映画見よ」とリビングに戻ってゆく。
「桜、さっきの話だけど、うちに行ってもいい?」
「ああ、うん。さっきも言ったけど、私もちゃんと忠臣さんのご両親にご挨拶したいって思うてたし。何や忠臣さんをご家族から奪ってもうた感じになってもうて、きずつないって思って」
「そんなこと気にしなくていいよ。元々うちの家族は、あまり関係が親密ではなかったから」
そういう忠臣の横顔は何でもない事を言う表情だが、桜はそれを寂しそうだと思う。
「ねぇ、忠臣さん。ほんまは誤解が解けてホッとしてはるんでしょう? お父様の特殊な好みはそのままやけど、誤解は解けたんでしょう?」
「……」
「今からでも、仲良うするんに遅いなんて事はないんよ?」
腫れが引きつつある桜の黒い目は、じっと忠臣を見詰めて真剣に説き伏せようとしている。
よく言う。
自分だってあまり家族愛に恵まれた人じゃないだろうに。
そこまでして他人を思える桜が、やはり忠臣は少し分からない。
大切な人の事は大切に思いたいという気持ちは分かるつもりだ。
けれど、いま大変なのは桜自身で、桜は彼女自身の不安や悲しみなどを優先すべきだ。
その為に忠臣は側にいるのだし、それをぶつけられる覚悟でいるのに、逆に気遣われてしまってはこちらとしてもどうしたらいいのか分からない。
どうしてそこまで。
泥にまみれて尚、美しく咲き続けようとするのか。
「……」
「忠臣さん」
「……」
「忠臣さん」
「ん?」
「まだ映画始まったばかりやえ? 泣く所やないねんけど」
「……うん、そうだね。どうしたんだろう。泣き癖がついてしまったのかな」
「ふふ、忠臣さんの涙だぁいすき」
桜が体を寄せて顔を近付け、キスがしたいのかと思って忠臣が顔を寄せると、ちゅっと涙が吸い取られる。
「俺は泣いてるの君に見られるの、恥ずかしいんだから」
「うふふ、ごめんなさい」
「さっきの事だけれど、別に本当に両親と不仲な訳じゃなくて……ただ、タイミングが合ってないだけなんだと思う」
「うん……」
「父さんの事は苦手だったけど……、これから向き合っていこうと思っている」
「うん」
「家族に向き合うって、なかなか恥ずかしくて」
「……うん。それは分かってるつもり」
「桜もご家族と何か……あったの?」
映画ではシャム王国の優美な景色が流れている。
チョウ・ユンファが演じるモンクット王が、大勢の子を抱えていて皆笑顔で、実に幸せそうだ。
「……私のお家ね、割と大きなお家やの。お父様は大きな会社を経営しはってて、お母様は毎日の様にそのお手伝いとか、奥様方のご接待をしはって。お兄ちゃんは五つ上で、社会人。当たり前の様にお父様の会社で、後を継げるように厳しい訓練中で。妹は、私と同じ音楽大学に入りたいって、ヴァイオリンに明け暮れてる感じ」
「うん」
「お兄ちゃんと妹とは結構仲がええの。お兄ちゃんシスコンやし、私たち妹もブラコン。けど、お兄ちゃんが社会人になってせわしなくなってからは、妹と二人で『寂しいね』って言うてて」
「兄妹仲がいいのは羨ましいな。俺は海外留学している兄がいるよ。男兄弟だし、離れていて久しいから、今はどうしてるかな?」
「ふぅん、お会いしてみたい」
「帰国したら席を設けようか」
「おおきに」
「ああ、話の腰を折ってしまってごめん。君のご家族が?」
「うん……」
話を促されて桜がテレビ画面を見て、少ししてからまた口を開く。
「そんな感じでね、お家がそんな感じやさかいに、乳母とか使用人さんとかがいてくれはるさかい、私達あんまりお父様とお母様に構われてへんの。お誕生日とか何かのお祝いとかはちゃんとしてくれはるんやけど、一般家庭みたいにいつも一緒に過ごして、しんどい時も楽しい時も一緒、とかはなくて」
「うん……、分かる気がする」
「そんな感じでね、特にぶつかるとか喧嘩するとかもあらへんの。そんなまま、ピアノを続けさせて貰って、東京の音楽大学にも行かせて貰って。感謝はしてるんやけど、こんな風になって、流石にせわしい家族でも駆けつけてくれるんやろな、って思ってたら……この通り」
自嘲気味に笑う桜が痛々しい。
「俺がいるよ」
「……うん」
「未来さんも、誠司さんも、一華ちゃんも、沙夜ちゃんも」
「うん。あの家族にはお世話になりっぱなしや」
「沙夜ちゃんね、マンションで俺達がキスしてた時、お昼寝してたかと思ってたのにこっそり見てたみたい」
ふとあの日のおませな沙夜との約束を思い出し、忠臣が思い出し笑いをする。
「えぇ? さっちゃんに見られたの? あぁ~……」
桜がギプスの手で顔を覆い、上半身を揺すって恥ずかしさを訴えた。
「そうやってると動画で見た北海道の熊みたいだね」
「知らへんもん」
「はは」
忠臣がスマホを手に取って、母への連絡先を開き始める。
「いつなら大丈夫? 母さんも都合があるかと思うから、連絡は早めの方がいいと思って」
「ああ、私は通院のない日なら、いつでも平気。毎日お休みで、なぁんもやる事あらへんもん」
柔らかい笑顔を浮かべる桜の奥にある表情を読もうとして、忠臣は少し目を伏せてからそれを留める。
彼女がピアノの練習を出来ないで残念がっている事は自明なのに、自分はこれ以上彼女に何を求めているのだろう?
「じゃあ、そういう風に連絡しておくね。次の通院は来週の火曜だっけ」
「うん」
忠臣がスマホに指先をタップさせているのを何となく見てから、桜はテレビ画面を見てぽつりと呟く。
「ご両親と上手にお話出来たらええなぁ」
「大丈夫だよ。君はとても素敵な人だから」
「おおきに」
顔にこんな怪我をして、両手は塞がっているのに?
そういう言葉を桜は飲み込む。
「途中でお土産何か買うて行きたい。夏やし、ゼリーとかそういう涼しいデザートとかどぉかな?」
「ああ、いいんじゃないか? 俺も甘い物っていうのを、自分で選んで食べてみたい」
「うん」
忠臣がメールを送ってスマホをテーブルに置いてから暫く二人で映画を見、ぽつりと桜が呟く。
「私の電話、どうなってる?」
「ん? ご家族から連絡あるか見てみる?」
「うん……」
曖昧に桜が返事をして、忠臣が桜のガラケーを手に取って電源を入れた。
「ほんまはね、お家の人から連絡が来るなら、固定電話に来るの」
「ああ、そうだね。でも、大体の用事は未来さんが請け負っているって」
「うん……。けど、SNSが気になって」
「……ああ、そういう付き合いもあるね」
ガラケーは起動して、桜が自分の名前を好きだと言っている様に、桜の花の写真の待ち受け画面が出てくる。
「俺のノートパソコンで見てみる? 何をやってるの?」
「ううん……やっぱりええ。心配してくれはる声があったら嬉しいけど、どうせピアノやってる仲間内なんて、ほとんどライバルやもん。ざまみろとか、もしかしたらあの人の関係者から悪意のあるメッセージがあるかもしれへん。……そういうの、今見たら……多分潰れてまう」
「そういうのは……、辛いね。俺はSNSはやっていないから、何とも言えないけれど」
桜が少し目を瞠って忠臣を見る。
「忠臣さん、SNSやってはらないの?」
「うん、便利かもしれないけど、余計なものだから」
「ふぅん……。でも、そういう考え方は賢いやもね」
「そういうの、捕らわれていたら時間も捕らわれるし、気持ちも捕らわれるだろう? 絶対に必要なものとか、なかったら死ぬとかじゃないから」
「うん……、そうやね」
ソファの背もたれに背中を預けて桜が「んー」と伸びをしてから、大きな口を開ける。
「いっそ、私もSNSスッパリ辞めて、忠臣さんとリア充になろっかなぁ」
「それは桜の自由だよ。俺は強制しているつもりはないよ?」
「ううん、こういう時だからこそ、何となく色んな事をリセットする時なんかなぁ? って」
「そういうの、急に辞めたら軋轢とか生むんじゃないかい? ゆっくり考えたら? 急ぐ必要もないし」
忠臣が桜の頭を優しく撫でる。
桜はその手が大好きで堪らない。
「うん……。けど、携帯弄れへん今やからこそ、これがきっかけになれるんやないかな? って思う」
「そう?」
「うん……」
それから優しい沈黙が訪れ、美しい王国の中での王制ならではの問題や、ジョディ・フォスターが演じるアンナが巻き起こす旋風、その息子のルイと王子と王女達の交流などが、テレビ画面の中で流れてゆく。
「忠臣さんから見たら、SNSってどう思う?」
「ん?」
「しょうもない事やて思う?」
「……俺がどう思うのか、気になるの?」
「……ほんまの所は」
桜が照れ臭そうに呟くと、忠臣が吐息を漏らして微かに笑う。
「本当に個人の自由だと思ってるよ? ただ、現実に会う人間との付き合いでも大変だし、他にもやる事があるのに、そういう目の前にいない人間と時間を問わずに付き合ったり、表情や本心が分からないのを心配しながら付き合うのは、少し大変だな、とは思うよ」
「ふぅん……」
忠臣のいう事は、的を得ていると思う。
桜自身、ピアノを続ける為に交流の輪を広げたり、情報交換をする為に始めたSNSだったが、気がついたらお喋りが楽しくなっていた。
楽しいし、皆軽いノリで話すからこそ気軽に交流出来るのだが、自分がその場にいないと、繋がっている人がどういう発言をしているのかが気になって仕方がなくなってしまう。
そういう場所はどういう悪意が潜んでいるか分からないし、そういうものを目にしてしまうと、繊細な人間はすぐに参ってしまう。
誰もが図太く出来ていて、やられればやりかえせる訳でもないし、問題が起きたとしてもSNSの運営側というのは往々にして効果的な対処というものはしてくれない。
ネットで起きた諍いのほとんどは法律では曖昧で、そういう相談が多くなると弁護士もそれに対応していかなければならないが、現実での仕事もしなければならない。
いずれ、ネット専門の対応機関がそのうち時代と共に、必要とされてくるのかもしれない。
「やめよっかなぁ」
「俺の意見を参考にする事はないよ。本当に桜の自由なんだから」
「うーん、けどお喋りの方はやめよっかなぁ。ピアニストの事とか、必要な情報を扱うのは残して」
「もし、ゴタゴタが起きたら教えて? 桜が受けた言葉は桜のものだけど、気持ちはきっと俺がシェアするから」
「おおきに有り難う。忠臣さん」
なんてこの人は優しい人なんだろう。
本当に、自分の事を思ってくれている。
どうしてあの人と出会う前に、この人と出会っていなかったんだろう。
どうして――
「忠臣さんのお母様って、どういう方?」
「ん? そうだな……。今までは父さんや家の事しか考えていない人かと思っていたけれど、この間叱咤激励されて……、ちゃんと息子の事を考えている一人の母親なんだな、って思ったよ」
「……私のお母様も、そうやったらええのにな」
テレビ画面に視線を合わせながら、桜がポツリと言葉を落とす。
「きっと心配してらっしゃるよ。実の娘がこんな事になって心配しない親はいない」
「……うん」
忠臣の言葉は嬉しいが、それに返事をする桜の声はどこまでも暗かった。
テレビの中の王族は、皆固い絆で結ばれているというのに。
1
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる