怖いもののなり損ない

四人目 人魚は海底でピアノと眠る

おしまい、と紳士は締めくくり

　紳士が語り終えても、あなたの頭はまだぼんやりしていた。海の中をたゆたうように、心地よい揺らぎがあなたの頭を支配していた。
　そんなあなたを優しく見つめ、紳士はただ待っていた。コーヒーを頼むでもなく、あなたに呼びかけるでもなく、テーブルの上で手を組み、あなたが戻ってくるのを待つ。
　波が静かに引くように、あなたの頭がはっきりし始めた。我に返る頃には、店内の客はあなたと紳士だけになっていた。静かな音楽が、今日はやけに大きく響く。これほど静かになっても、紳士はあなたが自らの力で意識を取り戻すのをまっていた。
　あなたは恐縮し、紳士に詫びた。実のところ、あなたが詫びる必要は何一つない。紳士は自ら望んであなたに話を聞かせたのだ。紳士はあなたを置いて立ち去ってもよかった。なのに立ち去らず、あなたが我に返るのを待った。
　しかしあなたは謝らずにいられなかった。紳士の穏やかな表情が、紳士の柔らかな物腰が、紳士から漂う品が、あなたにそうさせた。
　紳士は鷹揚な態度で気にするなと笑い、組んでいた手を解いた。

「ここまで聞き入っていただけて嬉しいくらいですよ。私はまだ、声の使い方も話し方も上手くありませんから」

　ご謙遜を、と返すあなたの元へ、『純喫茶・生熟り』のマスターがやってきた。紳士に負けず劣らずの整った髭の向こうで、静かな声が退店を促す。

「そろそろ、明日の準備もありますので」

　時計を見ると、店じまいの時間を大きく過ぎていた。あなたは慌てて荷物をまとめ、すみませんと謝り紳士を振り返る。行きましょう、と連れ立って退店するつもりだった。しかし向かいに座っていたはずの紳士は、忽然と姿を消していた。
あれっ、とあなたは声を漏らし首を傾げた。「どうしました」とマスターの静かな声が尋ねる。あなたは向かいを指差し、つい数秒前まで話していた紳士が消えたことを伝えた。しかし今度は、マスターが首を傾げる番だった。

「相席をお通しした覚えはありませんが」

　マスターの台詞に、そんなはずはないと首を振る。しかしマスターも譲らない。

「お客様は、ずっとお一人でした。それに、あなたが入店してからは、誰も入店していません」

　いやいや、と首を振り、あなたは紳士が座っていた椅子を覗き込んだ。慌てて帰ったのなら、何か忘れ物でもあるかもしれないと思ったのだ。
　紳士が座っていた椅子は、ぐっしょりと濡れていた。一緒に椅子を覗き込んだマスターが目を瞬かせる。革張りのクッションに何かの破片が落ちているのを見つけ、あなたは手を伸ばした。手に取ると、それは大きな鱗だった。
　きれいなエメラルドグリーンの鱗は、紳士の話した人魚を思い出させた。