怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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四人目 人魚は海底でピアノと眠る

人魚はね、海底でピアノと眠るんです――と紳士は囁いて

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 人間が己の体一つでは決して潜れないような、どこかの海の深い深い底での話です。
 そこではピアノの音が響いていました。音を辿れば、海底の平らな場所に立派なグランドピアノが沈んでいるのがわかります。このピアノを弾いているのは、ガイコツでした。皮も肉も失い骨が剥き出しになっているのに、なぜか仕立ての良い燕尾服だけは白の蝶ネクタイまで残っていました。
 ガイコツが弾くピアノの音は、歪でした。海底に沈んでいるのだから当然といえます。
 音を聞かずとも、ピアノはその外観だけでずいぶん長く海水に浸かっているとわかりました。とうの昔に狂っているであろうピアノを、ガイコツは上手に、人の耳でも辛うじて聴くに堪えうる演奏をしていました。
 海底で音楽を嗜むのは、このガイコツだけではありませんでした。ピアノのそばでは、豊かな金の髪を持つ人魚が丸くなって眠っていたのです。海水にたゆたう金の髪は、今やガイコツが見ることの叶わない、陽の光に似ていました。
 ガイコツが弾くピアノの音が、異様な跳ね方をしました。耳に不快さを残す音に、人魚の目がぱちりと開きます。限りなく黒に近い、海底うなぞこ色の瞳がガイコツを見ました。

「いつもと違う音だわ」

 おかで聞けば小鳥の囀りと評されそうな、愛らしい声です。一方ガイコツの声は、おかの上ならば甘やかなテノールと評される声でした。

「音律が狂ってしまったんだ」

 長く海水に浸かっているからねと説明し、ガイコツは細く長い指で鍵盤を軽く叩きます。ガイコツの台詞に、人魚の喉横に並んだ鰓がひゅっと海水を吸い込みました。
 緑玉石エメラルドとよく似た色の下半身をくねらせ、同色の鰭をはためかせ、人魚は椅子に腰掛けるガイコツの隣へ泳ぎました。海底うなぞこ色の瞳が、悲しみを隠しもせずガイコツを見つめます。

「何とかならないの? このまま変な音ばかり歌わせるなんて可哀想よ」

 声に浮かぶ悲壮感や無機物への思いやりに満ちた台詞は、自身も歌う者だからでしょうか。悲しげに歪められた顔を見て、ガイコツは「そうだね」と顎へ手をやります。

「調律師がいればね」
「なぁに、それ?」
「音を正しく直してくれる人間さ」

 ガイコツの説明に、人魚は海底うなぞこ色の目を瞬かせ、理解したようにうなずきました。

連れてくればいいってことね?」

 人魚の嬉しそうな声音で、ガイコツの今はなき脳裏に、きらびやかな世界が走馬灯のように蘇りました。
 眩しいほどの明かりを放つシャンデリア。
 人々の間で交わされる、さざ波のような会話。
 ゆったりと深みのある演奏。
 割れんばかりの喝采。
 揃いの燕尾服に身を包んだ仲間たち。
 舌の上でとろけるような美酒の味。
 寒気を覚えるほどの美しい歌声。
 聞こえる雷鳴。
 吹き荒ぶ風の音。
 悲鳴と怒号。
 襲いかかる波の冷たさ。
 ガイコツの歯が、カチカチと音を立て触れ合います。ガイコツは自分が意識するより早く、人魚に向かって「だめだ」と厳しい声をかけていました。ガイコツの声に優しさがないのを感じ、人魚は「どうして?」と不思議そうな顔をしました。ガイコツは、改めて目の前の人魚を見つめました。
 水中に広がりたゆたう金の髪。上等なミルクのような肌。海底うなぞこ色の瞳に、呼吸のために動く鰓。エメラルドグリーンの鱗を持つ下半身。
 空っぽの眼窩で確かめるように人魚を見つめると、ガイコツは徐に首を振りました。

おかの者は、海底ここでは息が続かない」
「あなたとにすれば問題ないわ。あなたもそうだったでしょう?」

 皮も肉も失い、今や己の名前すらも失ったガイコツは、人魚から見ればでしょう。しかしガイコツは、未だそちらへの境界線を踏み越えていないつもりでした。骨だけでピアノを弾き続ける自分の心だけは、人のままでいるつもりだったのです。
 ガイコツはもう一度「いけないよ」と首を振りました。

「私は仲間が増えるのを望まない。やめておくれ、人魚姫」

 人魚の頬に、ぽっと赤みが差しました。長い付き合いであるガイコツは、人魚がこう呼ばれることを好むと知っていました。ガイコツが人魚に「人魚姫」と呼びかけると、たちまちの内に機嫌が良くなるのです。
 ダメ押しとばかりに、ガイコツは音律の狂ったピアノを弾き始めました。人魚が何度もねだった曲を、丁寧な指運びで演奏します。人魚はお気に入りの場所まで泳ぐと、砂の上で丸くなって目を閉じました。ガイコツの演奏に夢中で、ついさっきのやり取りも忘れてしまったようです。
 目を閉じたまま、人魚が小さな声で歌います。歌い出せばもう、人魚はほかのことなど考えられません。このまま演奏を続ければ、今日のことなど忘れるでしょろう。人魚が満足するまで、ガイコツは手を止めることなく演奏を続けました。



 調律師のことなど忘れただろうと安堵したガイコツ自身すら、そんな会話を忘れた頃です。人魚がふらりと姿を消しました。
 餌の魚でも探しに行ったか、それとも仲間の声でも聞いたのだろうと、ガイコツは別段気にしませんでしrた。しかし帰ってきた人魚を見て、ガイコツはあのとき人魚に声をかけていればと後悔しました。
 上機嫌で帰ってきた人魚の手には、膨れ上がった水死体の手が握られていたのです。

「探すのに苦労したわ。もう少し待てば、この調律師チョウリツシもあなたとになる。そうすれば、ピアノこの子の音は治るわよね?」

 笑顔の人魚と表情の判別も難しい水死体を見比べ、ガイコツは深く落胆しました。

 ――やはりサカとはわかり合えないか。

 己の一言が原因で海底へ引きずり込まれた同種なかまに申し訳なさを覚えつつ、ガイコツは水死体に群がる魚を見つめました。人魚の声で集まった魚たちが、同胞の体に群がり肉を食み取ります。

 ――仲間になるだろうか。

 空っぽの眼窩からは、そんな期待がにじみ出ていました。
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