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序章
02 受け入れがたい現実
しおりを挟むぱん、と弾ける音とともに、目の前の景色が鮮やかな緑の球場から黒が目立つ空間にいた。足元がやけにふかふかすると思えば座布団の上に正座し、片手には数珠(じゅず)が握られていた。香(こう)のニオイがつんと鼻につき、気づけばお坊さんのお経だけが一定のリズムで場に流れ続けていた。
「ボケっとしてんじゃねえ。そろそろ焼香(しょうこう)が回ってくっぞ」
左隣から桐子の潜めた声がする。先ほどとは打って変わって顔にシワが目立ち始め、若く見られても20代とはお世辞にも誰も言わない肌ツヤをしていた。ユニフォームを着ていたはずが、今はブラックフォーマルの喪服姿である。
私は反射的に謝った。
「ごめん」
「大丈夫?」
右隣から心配する声。隠岐(おき)佳澄(かすみ)だ。さっきの回想では外野を守っていたからチラッと視界に入った程度だった。童顔な佳澄も目元のシワや白髪も目立ち始め、生まれて一度も染めなかった髪の色を、最近ようやくブラウンに染めたばかりだと話していた。
「大丈夫。過去の想い出に浸ってただけ」
そうか、さっきのは回想だったのか。現実が受け入れられない私が逃避したいがために、脳が映像を作り出してくれたのだろう。
仏壇横の低いテーブルに遺影が飾ってある。遺影は最近増えてきたカラー写真で、年相応の屈託(くったく)のない笑顔を見て再認識した。脳内で映し出されたのは、グリーンスタジアム神戸で行われた第20回社会人野球日本選手権大会の準々決勝の一場面だろう。それは20年前の10月半ばで、後にも先にもあそこに行ったのは一度切りだ。そして今日は2013年11月27日であり、遺影に写る倉本監督こと倉本常典(つねのり)の初七日(しょなのか)の法要。1週間前に心筋梗塞(しんきんこうそく)を発症し、享年67歳亡くなったのだった。
佳澄から回ってきた焼香をぎこちなくこなし、桐子に香炉(こうろ)を渡す。
本当に……本当に倉本監督は死んでしまったんだよね……。
数珠をキツく握り、急速(きゅうそく)に込み上げてきて溢(あふ)れそうな涙を必死にこらえた。
どうしようもなかった。
どこまでもどこまでも、沈みゆく自分の気持ちを浮上させることなんて不可能だった。
負の感情が絶え間なく連鎖反応を起こし、私を底なし沼に引きずり込んでいく。
私の心は死んでいた。
法要後のもてなし中に、桐子や佳澄を始めとした仲間たちが声をかけてくれるが、耳に入らない。慰めや励ましの言葉なんかいらない。独りになりたい。すべてシャットダウンし、ただただ、家に帰って泥のように眠りたかった。
差し伸べられた手を払い続けた。もてなしが終わり、まっすぐ帰ろうとしていた私の手を強引に引っ張った人物がいた。
金谷(かなや)政(まさ)。元捕手にしてはやや細身な体ながらも、手足が長くスタイルがいい。日に焼けた顔はそれなりに整ってはいるが、シワの多さが年輪(ねんりん)となって刻まれていた。
私の同い年のライバルでもあり、元バッテリーを組んでいた間柄でもあり、元恋人の男だ。今は群馬の監督を務めている。
午後1時から営業している居酒屋に入って、何時間か経った。
最初は政の話に耳を傾けながらちびちびとビールを飲んでいた。が、だんだん酔いが回ってきてペースが加速していく。
ビールを飲み終え、日本酒に移った。負の感情とアルコールの相性は恐ろしくバッチリで、心の中の黒々としたものが泡のように増幅していった。
酔いが頭を支配する。政の話が耳には入らず、空間に溶けていく。思考がぶつ切りになっていく。日本酒を何合かも憶えていないほど空けたとき、押し込めていた気持ちが爆発した。
「私はやり直したいっ!」
まだまばらだった店内の客たちの視線が、一斉に私たちに集中する。目の前の政もハトが豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「急にどうした?」
対してちびちび飲んでいた政がなだめにかかる。が、かえって無駄だった。
「なんで私だけが身近な人が次々と死んでいくの? なんなのよ、本当に!」
私は母を2ヶ月前に亡くしたばかりだった。四十九日(しじゅうくにち)と納骨を終え、気持ちも少しは前に向いていた――そんな矢先のことである。
「こんなの私の思い描いていた人生と違う!」
『私の思い描いていた人生』――年老いた母と仲良く暮らし、ときどき隠居している倉本監督のもとへ行き、野球談議やたわいのない雑談に花を咲かせること。そんなささやかな願いも今後叶えられない人生なんて、終わったも同然だった。
「そうは言ってもな……。思い通りにならないからこそ、人生なんじゃないか」
「アンタはいいわよ。頼れる人が傍(そば)にいるもの」
政の口が無理矢理閉じたように見えた。何か言おうとしているみたいだけど、代わる言葉が見つからないらしい。代わりにジョッキのビールを口をつけた。
政は既婚者で子どももふたりいた。仕事でもプライベートでも守るべき人がいて、奥さんというパートナーもいる。幸せ者だ。
一方、私は未婚者で子どもなんているわけがない。チャンスは何回かあったが、仕事一筋で生きてきた。来年で43だし、今さらどうこうしようたっていろいろな面で望みは薄い。頼れる人も身近にはいない。県内外にいる親戚とも疎遠(そえん)気味だ。
不意に政のため息をつく音がした。
「なあ、もしやり直せるとして、だ。これまでの、佐渡(さど)由加里(ゆかり)としての人生がなかったことになるんだぞ? それに、お前はイチ選手じゃなくて今は監督だ。選手たちはどうなる? 有能な指揮官を失った集団ほどもろいものはないぞ」
そんなことはわかってる。いったい今までいくつものチームの盛衰を見てきたことか。監督として、コーチとして、そしてイチ選手として。頭では充分理解していた。しかし、酔っぱらいの頭と口は別人格だ。
「私の代わりなんか誰でも務まるわ」
「……本気で言ってるのか?」
私の頭の中で何かがパチン、と切り替わる音がした。
「本気よ」
この言葉だけは今まで怪しかった呂律(ろれつ)が正常になった。
「タクシーを呼んでやる。今日は帰れ」
政が胸ポケットからスマホを取り出して電話をかけだした。顔をのぞけば酔眼(すいがん)でもわかる硬い表情をしている。それとどこか寂しささえもあるようなそんな気がした。
どうしようもない人間だと憐れんでいるのか、私を。どうしようもない人間だと蔑(さげす)んでいるのか、私を。
ああ、そうよ。私は惨めな女よ。好き勝手生きてきて、自分にとって大事な人が亡くなったら人生をやり直したいだなんていう女さ。わがままに聞こえるだろうし、情けないたわごとに聞こえるだろうね。
みんなそれぞれ別れと死を乗り越えて生きてる。わかるよ、わかるけど――私は納得がいかないんだよ!
グラスに残った日本酒を、政の止める手を振り払い、一気に飲み干した。
意識が唐突に途切れる。
次の意識は車の後部座席に乗り込んでいる場面で、そこから先のは……なかった。
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