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3章
28 茜の涙
しおりを挟む新宿のとあるホテルの一室の前に由加里と茜がいた。
「アンタの大事な相方はこの部屋にいる」
「早く開けてほしいんだが」
茜にギロリとニラまれるも、由加里は平然とした様子でカギを開けてやった。
「葵!」
茜が部屋に踏み込んで真っ先に目にしたのは、整えられたベッドの上で正座している葵だった。
「茜ちゃん!」
ふたりがベッドの上で強く抱擁を交わす。それからお互い見つめ合い、何度も何度も緩急をつけたキスをした。まるで逢えなかった空白を埋めるように。茜が葵を押し倒し、服に手をかけたところでバスルームに隠れていた坂戸が出てきた。
「ストップストップ! ちょって待って!」
愛の営みに水を差された茜は、今なら人でも殺しかねない形相で振り返った。
「本当に申し訳ないんだけど、続きは私の話を聞いてからにしてほしいのよ」
「ハア?」
「茜ちゃん……坂戸監督の話を聞いてあげて」
艶っぽい表情に話も聞かずに葵を襲いかかりかったが、哀願にも似た声に理性のほうがかろうじて勝(まさ)った。
「わかったわかった。私にも理性はある。葵の頼みだ、話を聞くよ」
コンコンコン
不意なノックの音で室内に緊張が走る。
「合言葉は?」
「アラフィフのタマちゃんは、自分で自分を褒めたい衝動に駆られてる」
「桐子の奴だわ。入りなさい」
ドアの傍で突っ立っていた由加里が解錠し、桐子を招き入れた。桐子は帽子を取りながら愚痴った。
「はんーね(本当)、変な合言葉にしやがって。つーか、由加里はどうしたんば、こんな所に突っ立って」
「あんな激しくキスってするんだね……」
顔を赤くして呆然としている由加里。よほどさっきの光景が刺激的に見えたのだろう。そんなことは露ともしらない桐子は、露骨に嫌悪感丸出しに言った。
「ハァ? 何言うてけつかるんだナ(おまえ)は」
「ふたりもさっさとこっちに来なさい。部外者に聞かれてもいいことなんてひとつもないんだから」
坂戸は由加里と桐子を近くに呼んだ。その間葵と茜は、服や髪の乱れを直しながらベッドの縁(ふち)に腰かけた。
「まずは日本選手権のあの試合。負けたのはアンタの責任じゃない。一端はあるのは確かだけど、戦犯をあげつらえば何人もいる。それを拝藤富士夫は、生名茜という投手に全責任をスケープゴートした。えげつない、反吐が出るやり方よ」
「仕方ないさ。それが拝藤組のやり方ならば、な」
「普通じゃないわね」
「普通じゃねえさ。トップが色んな意味で狂っちまってるからな」
「そうね。まあ、このままアンタの腕が壊れるまで狂った拝藤組でやる意志があるならそれで結構。このまま帰りなさい。だけど、いくら待っても葵は拝藤組へは帰らないわよ」
「なんだと!?」
「いや、正確には帰れない。そうよね、葵」
うつむき加減の葵がうなずいた。
「このまま……」
言いよどむも、意を決して葵の手を引いた茜。
「このままもし、私が葵を連れて帰ることもありえる。そうなったらどうする?」
「残念ながらそれは絶対にできない。拝藤が葵に茜との接触を禁じられているそうだから」
茜の瞳が激しく揺れた。
「そんな話聞いてないぞッ」
「聞いてない。ああそう。さて、何も聞いてない茜ちゃんが新後で療養(りょうよう)中のはずの葵ちゃんと一緒に帰ったらどうなるでしょうか? 立ちどころに社長室に召喚(しょうかん)されて根掘り葉掘り聞かれて、ただの解雇だけじゃ済まなくなるかもよ。ねえ、茜。拝藤に盾突いた人間はどうなったか知ってるかしら? 奴の機嫌にもよるが、文字通り消されてしまうの。東京湾の底にはいくつもの怨念が亡骸(なきがら)とともに沈んでるかな」
「……」
「拝藤組でやっていきたいんでしょ? 葵から聞いたけど、社長直々の謹慎が解けるまでは生名茜との接触は禁止らしいじゃない。しかも破ったら強制退部及び解雇だそうよ。茜の処分も同じだろうね。……どう? それでもいっしょに拝藤組に帰ろうって言うの?」
「……クソッ!」
茜は利き手でベッドに拳を勢いよく下ろした。
「ねえ、茜。今のアンタが拝藤組にいたところでなんになるの? メリットがあるなら言ってみなさい」
「メリットだと? そんなの……」
とっさに聞かれて茜は口ごもる。
「せいぜい練習設備や実戦経験が詰めることしかないわよね。普通の選手ならそれでもいいでしょ。だけど、今のアンタは酷使された上に最愛の人と一緒に過ごせないじゃない」
あっと言ったきり茜は絶句した。葵がいなくなってからの日々は、色が消えた世界そのものだった。日に日に寂しくて虚しくて逢(あ)いたい気持ちが積もって胸が張り裂けそうになった。それだけ茜にとって葵は普段の日常にいなくてはならない存在ということに、いなくなってからようやく気づいたのだった。当たり前が突然消えてしまうのはとても恐ろしいものである。
「私はね、若い芽が潰れるのを知ってて見過ごすのは嫌なの。二度も同じことを見たくもないし、体験したくない。人の幸せが壊れる過程や瞬間を見たくないのよ。拝藤富士夫こそ巳年(みどし)の……いや、蛇の権化(ごんげ)とも言っても過言じゃない。そして、茜。アンタは拝藤組にいるべき人間じゃない」
坂戸は不意に相好を崩した。
「そのピアスの意味、知ってるよ。アンタはそんじょそこらの男どもに比べるまでもないほど、筋の通った女だよ。現に葵を自分の背中で守ってるもの。なかなかとっさにできないことよ」
茜の目から一筋(ひとすじ)の涙がこぼれる。赤い目をして坂戸を見つめ続けている茜は、それを拭おうともしないほど坂戸の話に耳目(じもく)を集中させていた。
「上の人間の顔色を必要以上にうかがって、ロボットのようにプレーするのがアンタの野球じゃないわよね。守るべき人とともに日常を過ごし、野球もともにプレーする。それが今のアンタが望むありふれた日常なんじゃないの」
とうとう涙腺が決壊し、顔中涙まみれになった茜は鼻をすすってひとつ首を縦に振った。
「『日本一のチームで日本一のエースになりたい』って言ってたみたいね。どうかしら、ウチでいっしょに日本一を目指してみるってのは。黒獅子旗(くろじしき)も青獅子旗(あおじしき)もダイヤモンド旗(き)もクラブ選手権の優勝旗も全部総取りしてやりましょうよ!」
茜が涙声でたどたどしく尋ねた。
「そ、そんなことできる……んですか?」
「絶対できる! 茜、アンタが新後アイリスに入ってくれれば鬼に金棒よ。クラブチームが天下を取ったら、さぞ気持ちがいいものでしょうね。しかも最愛の人といっしょならなおさらよね。企業チーム――いや、拝藤組をあっと言わせてやりましょ!」
坂戸の熱弁が茜の心に突き刺さる。ここまで言ってくれる指導者や人物が過去にいなかった。自分は必要とされてない人間だとずっと思ってきた。しかし、坂戸という監督なら信用できそうであるし、何より自分を必要としてくれている。買ってくれている。その意気に応えたかった。
「……はい!」
自分自身が強くあり続けるために張り詰めていたものが、一気に緩んだのだろう。返事をしてからしばらく茜は葵に胸を借りて慟哭(どうこく)した。
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