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3章
29 エースの役割
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「あと3日間だけど、耐えられる?」
目を赤く腫らした茜が、晴れ晴れとした顔で笑った。
「大丈夫です。地獄の先に天国のような幸せな時間が待ってますから」
「頼もしいことこの上ないわね」
「しっかりやれよ!」
桐子が茜の背中を強く叩く。
「ああ、耐えてみせるさ」
茜も桐子の背中を負けじと叩いた。
「待ってるから」
由加里が握手を求め、茜は強く握り返した。
「新後アイリスに行ったらよろしくな」
最後に葵が涙を溜めて抱きついてきた。茜も抱き返し、どちらともなく唇を重ねた。唇と唇のシンプルなキス。10秒ほど経ち、茜のほうから唇を離した。
「葵……おまえは私のものだし、私はおまえのものだ」
茜は葵の頭を撫でて踵(きびす)を返す。
「茜ちゃん!」
「また新後で逢おう」
茜は振り返らずにドアの向こうに消えた。葵は泣き崩れてへたり込む。坂戸は慈愛(じあい)に満ちた口調で言った。
「今は思う存分たくさん泣きなさい。悲しみの――古い涙は全部出しちゃいなさい。歓喜の――新しい涙は3日後のために溜めておくのよ」
「いまさら吐いた唾を飲めというのか!?」
始業前の拝藤組の社長室から怒りと驚きが混ざった声が響いた。
「地下の座敷牢(ざしきろう)に押し込めて尋問すべきかと」
一女は感情を押し殺した口調で具申(ぐしん)する。
「萩野、貴様は俺のメンツを潰したいのか!?」
慣れたものか憤激を喰らっても表情が変わらない。淡々とした口調で否定した。
「そのようなことは滅相もありません。……恐れながら申し上げてもよろしいでしょうか」
「言うてみい」
「虫の知らせというべきでしょうか。生名は新後アイリスと繋がっていて、何かを企んでいる気がしてならないのです。真鍋を失った生名は翼をもがれた鷹そのものに見えます。それゆえに、ピッチングそのものに身が入らず、バッティングセンターに通い、打者目線で投手心理を学ぶという名目上、打撃練習に勤しんでいるのかと」
「ほう。で、その証拠は?」
「ここに呼び出し、どんなことをしてでも吐かせましょう」
「答えになっておらん。己が集めた証拠はないのか」
「それは……」
確定的な証拠も得られず、昨日も撒かれてから茜がどこで何をしてたかすらわからない。しかも門限前には帰ってきている。何も問題ない。現時点で責めようがないのだ。
「ここに召喚するのは結構だが、もし何もなければどうするつもりだ」
一女の顔が引きつり、半開きの口から言葉が出ないまま硬直した。
「音声、写真、動画。いずれかの証拠がなければ、何も処罰は下せん」
「はい……」
一女の震える唇からかろうじて言葉が紡がれた。
「のう、萩野よ。俺は犯罪を起こしてない限りは何をしてもかまわん。そう思うておるし、それが俺の考えだ。うちの戦士をたぶらかす輩も引っ捕らえもできず、かつ証拠のひとつもつかめなかった時点で貴様の負けなのだ。貴様の憶測だけで物事は決められぬ。だが、貴様の言うように生名――いや、新後アイリスにしてやられたすれば……」
目をカッと見開き、相手の肝を吹き飛ばすかのごとく、
「貴様を座敷牢に押し込めたいぐらいだわ!」
正面切って怒声を喰らわせた。さすがに負い目があるから一女は唇を噛み締め、うつむいている。
「テレビの撮影も新聞と雑誌の取材も済んで、もう賽は投げられとる。俺は言った言葉をこれまで覆したことがない。万が一ケガでもしてでも無理を承知でも出るのが戦士ってもんだ。先人を見習え、指が折れようとも腕が折れようとも、命を懸けてチームのために投げるのが投手ってものじゃないのか。投げれなくなったらそれでいいのだ。投手というポジションは常に最前線で、刹那的な命を散らすために存在してるものなのだ。長命(ちょうめい)な投手など俺の美学に反する」
拝藤は昭和のエースが好きだった。昭和といっても、戦前の刹那的に活躍した者たちを指している。自分の命を賭してチームのために投げるさまは、生で観てないにしても後から知った拝藤の心の琴線に触れた。そこまでは個人のうちでの楽しみ方でよかった。しかし、悪いことに拝藤は投手たちに強いた。
戦前の彼らは、どうせ己が戦争に取られるから、命を削ってでも野球に打ち込んだ。精いっぱい投げることが今を生きている証明となり、その時代に生まれた運命に対しての抵抗だったのかもしれない。が、今は平和な日本である。昭和が終わり、平成に元号が変わってから5年も経つ。しかし拝藤は肩が痛かろうと肘が痛かろうと腕が折れていようとも、とにかく自分が投げなくてもいいというまで投げさせ続けた。根性論と精神論をアレンジし、自己流の考えも混ぜ、強力にプラスした男が拝藤なのだ。ちなみに、投げなくてもいいといわれた投手は、高確率で野球部を退部して拝藤組からも退社している。病人と故障人は戦士ではないのだ。
「生名にも復讐の場が必要だろう。名誉ある拝藤組のエースだ。あのような、たかがクラブチームごときに負けて、悔しくない投手なんておらぬからな」
一女には拝藤に聞かなくてもわかった。大方、すでに一女のあずかり知らぬところで各メディアに吹聴(ふいちょう)していたのだろう。今さら変更などできない。言葉の端々からそう受け取れた。
「貴様も練習があるだろう。さっさと失せろ」
拝藤はイスごと体を窓側に向けた。一女もまた一礼して拝藤に背を向け、体を震わせながら辞去した。
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