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最終章
03 戻って来れた政
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無音、無臭、無痛の漆黒(しっこく)の世界で意識だけが浮いているような状態だった。
――あの酒飲み女、俺を殺しやがったのか?
いつまで経っても慣れぬことのない目を凝らし続ける。体感時間で5分ぐらいしか経過していないはずだった。いつの間にかカバンも捕られたのかなくしたのか手元になかった。だからスマホで時間を確認しようにもできなかったのである。
不安が増幅(ぞうふく)し、心を蝕(むしば)んでいく。
不意に遠くのほうで何かの鳴き声がした。獣(けもの)のたぐいだろうか。全神経を耳に集中させる。だんだん鳴き声が大きくなっていく。
――獣じゃない。子どもの声だ。
そう結論づけると今度は懐かしい匂いが嗅覚を刺激し、温かみのある手のようなものが自分の手を握ってくる。もみじのような小さな手である。忘れようもない、懐かしく愛おしい存在。目に入れても痛くない自分のかわいい――
「おとーさん、起ーきーてー!」
カッと目を見開くと、5歳の長女の美弥(みや)の顔があった。
「み、美弥……!」
起き上がって抱きしめる。独立リーグの群馬の監督をしていて会えないことはザラにある。しかし、こんなにも我が子を愛おしいと思ったことは今までない。なぜなら、佐渡(さど)の好意がなければ一生会えなかっただろうから。
「美弥、父さんは、父さんは……帰って来たぞッ!」
涙を流し、嗚咽(おえつ)する政の口に何かが放り込まれた。
「ハッカ嫌いだからあげるねっ」
あーんと促されて口を開けると、本当にハッカ飴を口に投げ込んできた。スッと突き抜ける爽快感、でも、この場所この時間に生きていることの証明になった。
「ああ……俺はここで生きているんだな」
自身もあまり好きでないハッカ飴を口の中で転がしていると、10歳になる長男の正太(しょうた)が部屋をのぞき込んでいた。
「正太もこっちこい。恥ずかしがらなくていいんだぞ!」
「母さん、父さんが美弥を抱きしめて泣いてるよー、なんか怖いよ」
「政さん。リビングに来て。今すぐに」
妻の真美子(まみこ)の声である。何かに怯えているような引きつり上ずった声。政は美弥を抱っこしながらリビングへ行くと、テーブルの上には白い封筒が置いてあった。
「手紙……?」
「差出人を見て」
「佐渡……由加里(ゆかり)? 由加里から来たのか!?」
青ざめた顔で真美子はありえないとばかりに首を振っている。
「ええ、今はあんな状態なのに……どうしてなんだろうね」
「あんな状態ってなんだ? 何かあったのか?」
『拝啓
1993年の新後はあれから市内でさえも数十年振りに大雪が降って、連日雪かきの日々が続いています。
やっぱり、1993年のほうが2013年より雪がたくさん降るわね。
それはそうと、無事に元の世界の2013年に帰れた?
奥さんとチビちゃんたちは元気かな?
そっちの新後アイリスのみんなは元気かな?
今はそれが一番の気がかりです。
新後アイリスは政が引き継いでくれるからひと安心なんだけど、群馬の子たちには悪いことしたな。
政のツテでもいいから、いい人がいればいいんだけど……。
話は変わるんだけど、元の世界の私がどんな状態であれ、受け止めてあげてください。
私がトキネに見せられた映像では、100%頭を割られて死んでいたわ。
ただ、あいつらの存在を知ったことで、私の見た映像は嘘――創られた映像かもしれない。
もしかしたら、私は生きている。
どんな形であれ、だけど。
無傷かもしれない。欠損してたり、障害を負っていたり、寝たきりになっている可能性だってある。
お金は10年は大丈夫だと思う。父さんの遺産と私の稼ぎがるから。だけど、お金が尽きかけたら……
安楽死が認められている国に連れて行って死なせてほしい。
でも、そんな七面倒くさいことはできないから、それまでに日本で案楽死の法律や制度ができることを望むわ。
私は誰にも迷惑をかけたくない。もし、私が植物人間だったとして、お金が尽きていたとするわね。
きっと政たちは仲間内で資金提供までして私を生かそうとする。だけど、それだけはやめてほしい。
人には死に際というものがあって、お金が尽きたときが死に際だと思うの。
このことをくれぐれもお願いするわね』
――あの酒飲み女、俺を殺しやがったのか?
いつまで経っても慣れぬことのない目を凝らし続ける。体感時間で5分ぐらいしか経過していないはずだった。いつの間にかカバンも捕られたのかなくしたのか手元になかった。だからスマホで時間を確認しようにもできなかったのである。
不安が増幅(ぞうふく)し、心を蝕(むしば)んでいく。
不意に遠くのほうで何かの鳴き声がした。獣(けもの)のたぐいだろうか。全神経を耳に集中させる。だんだん鳴き声が大きくなっていく。
――獣じゃない。子どもの声だ。
そう結論づけると今度は懐かしい匂いが嗅覚を刺激し、温かみのある手のようなものが自分の手を握ってくる。もみじのような小さな手である。忘れようもない、懐かしく愛おしい存在。目に入れても痛くない自分のかわいい――
「おとーさん、起ーきーてー!」
カッと目を見開くと、5歳の長女の美弥(みや)の顔があった。
「み、美弥……!」
起き上がって抱きしめる。独立リーグの群馬の監督をしていて会えないことはザラにある。しかし、こんなにも我が子を愛おしいと思ったことは今までない。なぜなら、佐渡(さど)の好意がなければ一生会えなかっただろうから。
「美弥、父さんは、父さんは……帰って来たぞッ!」
涙を流し、嗚咽(おえつ)する政の口に何かが放り込まれた。
「ハッカ嫌いだからあげるねっ」
あーんと促されて口を開けると、本当にハッカ飴を口に投げ込んできた。スッと突き抜ける爽快感、でも、この場所この時間に生きていることの証明になった。
「ああ……俺はここで生きているんだな」
自身もあまり好きでないハッカ飴を口の中で転がしていると、10歳になる長男の正太(しょうた)が部屋をのぞき込んでいた。
「正太もこっちこい。恥ずかしがらなくていいんだぞ!」
「母さん、父さんが美弥を抱きしめて泣いてるよー、なんか怖いよ」
「政さん。リビングに来て。今すぐに」
妻の真美子(まみこ)の声である。何かに怯えているような引きつり上ずった声。政は美弥を抱っこしながらリビングへ行くと、テーブルの上には白い封筒が置いてあった。
「手紙……?」
「差出人を見て」
「佐渡……由加里(ゆかり)? 由加里から来たのか!?」
青ざめた顔で真美子はありえないとばかりに首を振っている。
「ええ、今はあんな状態なのに……どうしてなんだろうね」
「あんな状態ってなんだ? 何かあったのか?」
『拝啓
1993年の新後はあれから市内でさえも数十年振りに大雪が降って、連日雪かきの日々が続いています。
やっぱり、1993年のほうが2013年より雪がたくさん降るわね。
それはそうと、無事に元の世界の2013年に帰れた?
奥さんとチビちゃんたちは元気かな?
そっちの新後アイリスのみんなは元気かな?
今はそれが一番の気がかりです。
新後アイリスは政が引き継いでくれるからひと安心なんだけど、群馬の子たちには悪いことしたな。
政のツテでもいいから、いい人がいればいいんだけど……。
話は変わるんだけど、元の世界の私がどんな状態であれ、受け止めてあげてください。
私がトキネに見せられた映像では、100%頭を割られて死んでいたわ。
ただ、あいつらの存在を知ったことで、私の見た映像は嘘――創られた映像かもしれない。
もしかしたら、私は生きている。
どんな形であれ、だけど。
無傷かもしれない。欠損してたり、障害を負っていたり、寝たきりになっている可能性だってある。
お金は10年は大丈夫だと思う。父さんの遺産と私の稼ぎがるから。だけど、お金が尽きかけたら……
安楽死が認められている国に連れて行って死なせてほしい。
でも、そんな七面倒くさいことはできないから、それまでに日本で案楽死の法律や制度ができることを望むわ。
私は誰にも迷惑をかけたくない。もし、私が植物人間だったとして、お金が尽きていたとするわね。
きっと政たちは仲間内で資金提供までして私を生かそうとする。だけど、それだけはやめてほしい。
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