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もう戻らない、戻れない

狐たちの懸念

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 此方は少し時を遡り、奏子が書斎に姿を消した直後の事。
 奏子がその場を後にして、気配が完全に消えたのを確認した後、狐たちの間に満ちる空気は緊張に満ちたものとなった。

「それで。……私がただお喋りをするために来たわけじゃないのはわかるわよね?」
「流石に、そこまで空気の読めない姉とは思っていない

 信頼しているのか貶しているのかわからぬ軽口ではあるが、呟く朔の表情に笑みはない。
 それは、言われた側とて同じ事。
 奏子には聞かせられぬ話であるが、それぞれに掴んだ、そして思い浮かべる真実について話そうと言うのだ。
 深い嘆息の後、望が口を開く。

「改めて確認するけれど。私と朔以外で知っていたのは、三人よね」
「はい……。私と兄と、その……」

 答えようとしたものの、シノが言い淀む。
 それは今となっては動かしがたいひとつの事実、けれどあまりに奏子にとっては辛い真実。
 察すれば言葉も自然と紡ぎ難くなるものである。
 朔は苦々しい顔をしながら唇を噛みしめ、シノはそれ以上続ける事が出来ない。決定的な名前を上げる事が出来ない。
 再度、望が零した溜息は先程よりも更に重苦しいものだった。

「……友情は儚いものとは、言うけれどね……」

 その言葉は、三人の心の裡の総意だった。槿花事件の根源を現す、全てだった。
 暫しの間、誰も何も紡ぐ事が出来ぬ程思い沈黙がその場を見たす。
 それを破り、もう一度口を開いたのはやはり望だった。

「ただ、その人間が自分の知っているところを洗いざらいぶちまけたとしても。それを裏付ける証拠がないと」

 華族の若き令夫人が女流作家であると、証拠も無しに騒ぎ立てれば不敬の罪を問われる事にもなる。
 幾ら面白おかしく醜聞を書き立てるのが常の者達であっても、証拠となりうるものが全くなければ記事にもしない。
 一人がそれを事実と喚きたてたところで、唯の妄言と片づけられて終わる。
 揺るがぬ事実であると人々に広まったのは、裏付けがあったからこそだ。
 その言葉を受けて、シノは一瞬何かに耐えるように握る手のひらに力を込めた。そして意を決した風に語り始める。

「奏子様に関する情報は、やり取りの際にも守りを重ねておりました。兄も奏子様に関する情報については幾重もの防護を重ねた場所に秘していたと。ただ……」

 シノの兄もまた力ある狐であるならば、その細心の注意を払った術がどれ程緻密なものであるかは言わずとて知れたもの。
 けれども昨日シノが訪れた際、兄は蒼褪めた顔である事実をシノに零したのだ。

「慎重に確認したところ、何者かの干渉の痕跡が微かに見つかったそうです」

 兄によれば、それは見ただけでは分からぬ程の差異であったという。
 少し慎重に見てみただけでも、分からぬ程に功名であったという。
 幾度も幾度も疑いの目を向けて、何度も確認してみたところ、それが分かったと語っていた兄の苦い口調をシノは思い出す。

「兄には、他に漏れた形跡がないかを調べてもらってはいますが……」
「彼がそんな手落ちをしないのは、私は良く分かっていてよ」

 望は苦笑してまたひとつ息を吐く。
 シノもその兄も古くから仕える腹心である。その能力と性質を信頼するからこそ、命を下した。
 その行うところに偽りや手抜きがない事も信用している、それならば。

「彼を出し抜ける程の誰かが、悪さをしたという事ね」

 望の言葉に、朔とシノの表情が目に見えて険しくなる。
 力あるあやかし狐の守りを?い潜り、気付かせぬほど巧みな悪意ある相手。
 それが、奏子へと矛先を向けていると言う事だから。

 応接間に再び苦い沈黙が満ちかけたが、扉を叩く軽やかな音にて重々しさが玻璃が砕けるように消失する。 

「あの、旦那様。お話し中に失礼いたします」

 一呼吸おいて顔を覗かせたのは、若い女中の一人だった。シノの下について奏子の身の回りの世話をしている娘である。
 娘は麗しい来客に注意を引かれながらもそれを抑えつつ、朔へと報告した。

「奥様が、用事があるから……と一人でお出かけに……」
「何だと!?」

 咄嗟に叫んだ朔の言葉の権幕に若い娘は怯えて悲鳴をあげかける。
 それを宥めながら、シノはその続きを娘に問いかける。

 何でも、娘が書斎へ茶を運ぼうとしたところ、外に行く支度をした奏子が速足で出かけると言い残して去ったという。
 身支度は慌ててした様子で少しばかり乱れて、余程気が急いていたのだろうと見た者が思う程。
 娘は誰か供を言ったけれど、一人で行くと言い置いて奏子は出て行った。
 あまりの勢いに茫然としてしまい、我に返って慌ててそれを追ったものの、既に奏子は馬車にて何処かへと向った後の事。
 とるもとりあえず、夫である朔に報告に来たということだった。

 朔も、娘を宥めるシノも咄嗟に紡ぐ言葉が無かった。
 今まで奏子がそのような行動に出た事などなかったし、奏子は思いつきで周囲を振り回すような事もしなかった。
 何か気づいた事はないかと問うシノに対して、しばし考えた後に娘は確か、と言って続けた。

「何かお手紙のようなものを握ってらしたような……」
「……出てくる!」

 それを聞いた朔が、地を蹴り駆けだしたのを望とシノは無言で見送る。
 何も言わなかったのではない、言えなかったのだ。あまりの朔の勢いに。
 シノは娘に気遣いの言葉をかけ彼女が落ち着いたのを見るとその場を下がらせた。
 二人になると、麗人と女中からは深い溜息がほぼ同時に零れる。

「……おそらく今、私たちが思い浮かべているのは同じ人物でしょうね」
「……『梔子』かと」

 伊達に付き合いが長いわけではない。お互いが何を今想定しているかなど分かっている。
 それが当たってほしくないとも思っているが、恐らくそれが事実である可能性が高い事も、二人とも感じ取っている。
 望は美しい顔を苛立たしげに歪めながら、本日何度目か分からぬ溜息を吐き出した。

「ただ、確証がないわ」
「……尻尾を中々掴ませない御仁ですからね」」

 確証がない、今はまだ「もしも」の話。
 出来ればそこで終わってほしいけれど、もしそれが現実であれば打つ手が遅れる程に惨事を招く。
 だからこそ、尻尾を掴みに行かねばならない。
 本来の主従は揃って、苦々しいとしかいいようがない表情を浮かべ、沈黙する。

「ただ本当に『彼』が奏子に気付いたのだとしたら、少しばかり面倒になるわよ……?」

 再び口を開いた望の瞳には、深い悔恨の色があった。
 自らの打つ手が後手に回ったが故に「あの悲劇」は起きた。
 そしてそれ故に、あれだけ幸せだった弟とその最愛の生きる道は分かたれてしまった。
 それはシノにとっても、そして望の夫にとっても、苦い思いを伴う記憶である。
 今仮初の間柄であっても、不可思議な生活であっても、漸く再び届いた手。
 それだけはけして引き裂いてなるものかと、天狐の統領姫は心に呟き、唇を噛みしめた……。

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