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すれ違うこころ

母の慈愛

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 それから暫く、奏子は思いの外忙しい日々を過ごした。
 出品の一覧を作ったり、協力してくれる異国の方々の応対をしたり、自身も刺繍などで出品する品を作ったり。
 バザーでの収益は貧しい人達への支援に使われるという事だ。
 西洋では貴婦人が中心にそのような催しを行っているのを知った篤志家が中心となり、それを有意義な貴婦人の慈善行為と賛同する婦人方が次々と出品や協力を申し出る。
 偽善と嘲笑される事もあるその行いの根源あるのは、けして綺麗な慈悲の心だけではなかろう。
 けれども集まってしまえば資金は資金、正しい使い方さえされればそれで良いのではと思う奏子である。

 慌ただしい日々を経て、無事バザー当日を迎えた。
 盛況な会場を見て、安堵の息を吐く奏子。行き交う人々が晴れやかな笑顔で商品を手にとり、順調に寄付をしていくのを見て少しばかりの笑みが浮かぶ。
 ふと気配を感じて振りかえれば、嬉しそうな笑みを湛えたミス・メイが居た。
 バザーが成功裏に終わりそうな事を二人は良かったと言い合い、暫し会場の様子を並んで眺めていた。
 その時、ふとミス・メイが唐突な言葉を口にした。

「本当は、お節介だったのではないかと思って、少し怖かったの」
「え……?」

 僅かに憂いを帯びた眼差しを向けながら告げられた言葉に、奏子は目を瞬いた。
 ミス・メイはやや躊躇ったようだが、静かに続きを紡ぐ。

「ヨシカの事で、カナコが気落ちしているのではないかと思って……」

 ああ、矢張りと奏子は裡にて呟いた。
 手伝いが欲しかったというのも本当だろうが、この麗人は気落ちしている奏子の気持ちを少しでも紛らわそうとしてくれたのだろう。
 それはお節介とも言えるものかもしれない。全ての人に、このやり方が合っているとは思わない。
 むしろそっとしておいてほしいと、逆効果になる場合もあるかもしれない。
 色々思うところは奏子とてある、でも。

「……ここ数日、忙しくしていて、少し紛れた気がします」

 瞳を伏せながら、奏子はそれだけをゆっくりと呟いた。
 気遣ってくれようとしたその想いを素直に嬉しいと感じたから。
 慌ただしく過ごした日々、確かに辛さは僅かであっても紛れていたのは事実だから。

 ――朔とすれ違う日々に、正当な理由が得られたから。

 瞳を伏せたまま物思いに耽りかけた奏子であったが、次の瞬間思わず目を見開いてしまう。
 滑らかな白い額に、ふわりと優しい感触が触れたからである。
 直ぐには何があったのか分からなかったけれど、一呼吸おいて事態を把握する事になる。
 額に触れた唇の感触に頬を染める奏子。
 女性同士と言えどこのような振舞いはと狼狽える様子を見て、ミス・メイは楽しげに笑みを零す。

「ママの……お母さんのキスよ。心を落ち着けるおまじないと思って頂戴」

 むしろ落ち着かないです、と赤い顔のまま奏子は心で呟く。
 異人の方のこういうところは、いかに比較的先進的な家で育ち開化に柔軟である奏子とてなかなか馴染まない。
 女性同士だから格段気にする事も無かろうとおもうけれど、それでも動揺してしまうのは無理ない事。
 何と言葉を返して良いものかと思案していた奏子であるが、ぴくりと動きを止めた。
 袂からチリチリと嫌な音がした気がした。
 何かを警告するように震えるそれは、奏子が怪訝に思い確かめようとすると消えていた。
 不思議そうに袂をひらひらさせてみるけれど、何も感じない。

(気のせい……?)

「どうしたの? カナコ」
「いえ、何でもないです……」

 きょとんとした表情で問いかけるミス・メイへと、咄嗟に笑顔を作りながら応える奏子。
 先程ミス・メイが近づいた時に、ふわり、微かに梔子が香った気がする……。
 そういえば、佳香も同じ香りを……。
 再び思索に耽りかけると、またも気遣わしげな呼びかけがある。
 心の中では首を左右に振り気を取り直して、奏子は改めてミス・メイへと応える。
 ううん、今はもうどうでもいい。
 目の前の女性の笑顔が悲しみを溶かしてくれる。それがとても有難いと思った。
 漸く本当に笑みを見せた奏子を見て、ミス・メイは安堵したように胸を撫でおろす。
 そして、何かに思を馳せるように少しばかり遠くを見つめながら、ぽつりと呟く。

「私は、カナコを気にしていたわ。勿論、ヨシカの事も」

 学校を去る事のないように願ってはいたけれど、結婚して辞めていくのはこの国に於ける世の倣いであるというなら、それは止める事は出来ない。
 それならばせめて、幸せであってくれと異国の麗人は願っていたのだという。

「彼女達のように、辛い思いをしていないか。苦しい道を歩いていないか心配で」

 彼女達。それは、あの事件の生徒たちの事だろうか、と眼差しで問うと是という風な頷きが返ってきた。
 記憶にあたらしい、女生徒たちの不祥事。刃傷沙汰にすらなったという痛ましい出来事。
 その時既にミス・メイは教師として赴任していた。当然その騒ぎについては知っている。
 渦中の生徒たちとの面識もあっただろう。ならばこそ、衝撃も悲しみも大きかっただろう。

「学校を去ったとしても、貴方達は私にとっては大事な生徒よ。それを忘れないで欲しいの」

 呟くミス・メイの顔には、慈愛の母のような微笑みがあった。
 奏子は優しさの籠った蒼い瞳を見つめながら、何故この人が苦手だったのかと過去を不思議に思う。
 この人はこんなに優しいのに、私たちを想ってくれていたのに。
 心の中に何かが触れて満ちていく不思議な感触は、今の奏子にとってけして不快ではない。
 胸が痛い程に苦しい。
 何かを伝えたい気がするし、心の奥底で何かが叫んでいる気がする。
 けれども言葉にならない、それがもどかしい。
 それに、何かが。また、不思議な音が、チリチリとなっているのは、気のせい――。
 二人の間に満ちていた不思議な沈黙を破ったのは、奏子を探してきたご婦人の呼びかけだった。
 何でも言葉が上手く通じなくて困っている異人の方がいるという事で、英語に長けた奏子を呼びに来たのだという。
 ミス・メイが一緒に居るのを見て渡りに船と喜ぶご婦人を見て、二人は視線を交わして微笑む。
 それじゃあもう一仕事ね、と頷きあって、二人はその場から離れた。

 結果として、慈善バザーは大成功のうちに幕を下ろした。
 得られた収益は信用できる主催者の手によって貧しい人々の救済施設へと寄付され、その境遇の改善に使用されるという。
 心地よい疲労に、久方ぶりの心から満足したという風な吐息を零した奏子。
 頃合いを見計らったようにシノが迎えにきたので、ミス・メイに礼と挨拶を残して家へと帰る事にした。
 美しい異人の女性は、手を振りながら何時までも奏子の背を見送ってくれていた。


 奏子の姿が見えなくなると手を振るのを止め、ミス・メイは息をひとつ吐いた。
 視線は、奏子が消えた方角へと据えたまま。沈黙のうちに異人の女性はその場に佇み続けた。
 そして、沈黙は不意に響いた一つの声によって破られる。

「本当に、奏子は可愛いよね」

 不穏に満ちた聞き慣れぬ男の声を、奏子が知る事は無かった。

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