鬼の花嫁

炭田おと

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4_独り立ちしたい

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 ――――刺客の刃を顔に受けてしまって――――。

 ぼんやりと歩き続けているうちに、噂話をしていた女中の声が、耳に蘇っていた。

 前髪の、生え際の近くにある傷跡を、指でなぞる。わずかに盛り上がっている傷跡の感触が、指に残った。

 父上の暗殺に、巻き込まれた時に、つけられた傷だ。

 出血がひどかったから、深い傷だと誤解されたけれど、実際は前髪を下ろしていれば、誰も気づかない程度の傷だった。

 なのにいつの間にか尾ひれがついて、人前に出られないほどの深刻な傷を負った、と誤解されるようになっていた。

 父上を失って、心に傷を負った私は、長い間木蔓の宮に閉じこもっていたから、そんな誤解が、より信じられるようになったのかもしれない。

 ただ、鬼の噛み痕だけは、首にしっかりと残っている。着物で隠せるとはいえ、こちらの傷は小さくない。

 でも、誤解されたことで、よかったことも一つある。

 顔に深い傷を負った、という誤解のおかげで、私は行事に引っ張り出されることもなくなり、煩わしい行事から解放されることになった。

 どうしても出席しなければならない行事でも、顔の傷への配慮から、薄い布を被ることが許可されている。

 だから私は布で、顔を隠すことにしていた。

 そうしていれば、万が一、私が御政堂を抜けだした時に、行事に参加しなければならなくなっても、背格好が似ている愛弥に代わりをしてもらえるからだ。

 それに顔を知られていないからこそ、こうして抜け道を使って、御政堂の外に出ることができている。

 そうやって公式の場に出ることを避け続けている間に、私の顔を知っている人は、ほとんどいなくなった。


 ――――残りの人生を、平穏に暮らしたい。


 父上を殺され、誘拐された時に負った心の傷から立ち直って、私はそう思うようになっていた。

 だけど、今のままだと難しい。新しい生き方を模索したくても、前の御主の娘、という身分だけは付きまとってくる。


(――――御政堂を出るしかない)


 やがて思考の糸が、いつも行き着く場所に向かっていた。


 あの場所にはもう、私の居場所はないし、そもそも存在感がない。

 ――――いてもいなくても同じ存在ならば、どこか、遠くの土地で生きていきたい。ずっとそう思っていた。

 私は行動力がなくて、思っていることをいつも実行できなかった。

 ――――でも、追い詰められた今なら。

 考えながら歩いているうちに、いつの間にか私は、人気のない場所に来ていた。川と、川沿いに立つ柳の木、それを跨ぐ橋が見える。



「穏葉」


 突然、声が上から振ってきて、私は顔を上げる。


 民家の屋根の上に、幼馴染の夜堵やとが立っていた。


「何してるの?」


「夜堵・・・・」

 ――――久芽里くめり夜堵やと。父上に仕えていた、久芽里一族の鬼の一人だ。


 鬼にしては小柄なほうで、中世的な顔立ちをしている。

 久芽里の鬼は、半身に入れ墨を入れる風習があり、夜堵も首から顔の部分に、入れ墨の黒い線が見えた。

 私にとっては、幼馴染のような存在だ。

 だけど、幼馴染と呼ぶのが正しいのかどうかは、わからない。私にとっては幼馴染だけれど、今、すでに百歳を越えている夜堵は、出会った頃にはもう、今の姿だった。

 ――――私よりも百歳近く年上なのに、精神年齢は、私とそれほど変わらない。年齢にそぐわない、性格の幼さも、鬼の特徴の一つだった。


「京月に来て、大丈夫? 御主様に、久芽里の鬼は、京月に立ち入るなと言われていることを忘れたの?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ、ばれなきゃいいんだから」

「・・・・・・・・」

 父上との繋がりが深かった久芽里の一族は、今の張乾御主には、目障りな存在だったようだ。

 御主になってすぐに、張乾御主は久芽里への弾圧をはじめ、久芽里は都を追い出された上、京月に入ることを禁じられてしまった。

 久芽里の鬼が京月に入ったことがばれれば、きっと厳しい罰を受けてしまう。

 だけど、そんなことをまったく気にしない夜堵は、時々京月に戻ってくる。――――まあ、夜堵のことだから、絶対に捕まることはないと思うけれど。

「どうしたの? なんか、魂が抜けた顔をしてるけど」

「・・・・・・・・」

 夜堵の目にも、今の私は、放心状態に見えるらしい。

(・・・・夜堵に、相談してみようかな?)

 誰かに助言をもらいたいのに、今の私には、相談できる相手がいない。

 側にいるのは、千代ぐらいだけれど、私が幼い頃から世話をしてくれている千代はもう六十代で、女性は家にいるべき、という意識が強い人だ。だから相談しても、反対されることは目に見えている。

 今の私の状況を、冷静に分析して、素直に答えてくれる人は、夜堵ぐらいしか思いつかなかった。

「どうしたの?」

 夜堵が不思議そうに、私の顔を覗き込む。

 私は覚悟を決めて、夜堵に自分の決意を伝えることにした。


「夜堵。――――私、御政堂を出ようと思うの」


「・・・・は?」

 夜堵の目は丸くなる。


「いきなり、何?」

「だから、御政堂を出て、一人で生きていこうと思うの」

「・・・・・・・・」

 夜堵の反応は鈍かった。呆気に取られているような顔で、何も言わずに、私の顔を見つめている。

「・・・・何か言ってよ」

「・・・・反応に困るんだけど。とりあえず、なんで? この国で一番安全な場所にいるのに」

「この国で一番安全で、この国で一番居心地が悪い場所だよ・・・・」

 梅の廓では、女達が日々、御主の寵愛を巡って争っている。安全だけれど、とても居心地がいい場所だとは言えなかった。

「前々から、御政堂を出たいって口癖のように言ってたけど、まさか本当に出ようとするなんて・・・・何かあった?」

「そ、それは、ね」

 ――――話せない。博打と女癖と暴力という、悪い部分が煮詰まった人と、形だけの結婚をさせられることになるなんて、言えない。

 私は笑って、誤魔化すしかなかった。

「とにかく、あの場所から出て、一人で生きていきたいの。まず、どうしたらいいと思う?」

 夜堵は腕を組む。

「・・・・というか、まず、穏葉は何ができるの?」

「・・・・・・・・」

 ――――そう、問題はそこなのだ。

 御政堂暮らしだった私には、できることが少ない。

 夜堵に指摘される前からわかっていたことだけれど、指摘されたことで考えることを意識的に避けていたその点から目を逸らせなくなり、私は焦る。

「御政堂を出るってことは、当然身分も隠して生きるってことだろ? 身元がはっきりしない、何の後ろ盾もない上に、手に職もないなら、ちゃんとした仕事にありつくのは難しいよ。まず、特技はって聞かれると思う」

「も、文字をかける」

「まあ、文字かけない人も多いから、特技といえないこともないけど、それだけじゃ弱いな」

「め、目利きができる!」

「さっきと同じ」

「・・・・茶道や歌道は、それなりにやってきた」

「下手だけどね」

「下手なのは余計じゃない!?」

「でも残念ながら、それなりじゃ金を稼ぐことはできない」

「・・・・・・・・」

「他には?」

「き、鬼道きどうが――――使えます」

 なぜか最後は、敬語になってしまった。

 鬼道は、この国で発展した魔術の一種だ。結界を作って、敵を遠ざけたり、形代かたしろと呼ばれる人型の紙を飛ばして、敵に攻撃を加えることができる。

 そして、鬼は鬼道を使えない。鬼は、腕力も脚力も回復力も、何もかもすべてにおいて人間に勝っているけれど、鬼道を使う力はもっていないのだ。唯一、人間が勝っている部分だと言える。

 私は昔から鬼道に興味があって、独自に学んできた。今では、それなりの腕前になったと言い切ることができる。


「鬼道を使う仕事なら、もう専門の鬼道師がいて、定員は埋まってるから、やっぱり穏葉が入れる隙はない」

「・・・・・・・・」

 身体から力が抜けていって、私は気づくと猫背になっていた。

「・・・・行くところがないなら、久芽里に来ればいいんじゃない?」

「久芽里に?」

「久芽里の一族は、先代御主と仲が良かった。穏葉のことも、受け入れてくれるはず」

「・・・・・・・・」

 御政堂での孤独な生活に耐えてきた身としては、夜堵の言葉が嬉しい。

「俺から話しておこうか?」

 私は首を横に振る。

「・・・・気遣いは嬉しいけど、私が行方不明になったら、追手が久芽里の人達のところへ行くと思う。だから久芽里の人達がいる場所とは、違う場所に逃げないと」

 完全にいらない存在になっているとはいえ、行方不明になれば一応捜索されるはず。久芽里の人達に迷惑をかけないように、久芽里の人達がいる場所とは、違う方向に逃げるべきだった。

「うーん・・・・」

 夜堵は考え込んだ。

「・・・・下女としてなら、雇ってくれるところは多いかも。そうなると必要なのは雑用能力だよ」

「雑用・・・・」

「料理、洗濯、掃除――――どれぐらいできる?」

「・・・・・・・・」

 多少やったことがあるものの、女中と同じぐらい働けるかと問われれば、答えることはできない。

「まずは、そこからはじめて見たらどう? なにせ、せっかく、北鬼国で一番下女の数が多い場所にいるわけだし」

「下女の数が多い・・・・」

「今度、閻魔の婚礼があるだろ? 色んな地域から、名家のお嬢様を迎えるんだ。毎年この時期は、御政堂の中は目が回るような忙しさで、一時的に下女の人数も増やすらしい」

「・・・・もしかして」


 夜堵の顔には、笑顔が浮かんでいた。


「――――女中をやってみればいいよ。女中の仕事を全うできるのなら、他の場所でも、下女としてやっていけるはずだ」


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