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しおりを挟む「君は、ジャコブと離婚するつもりなんだろう?」
「ええ」
今までの私には、選択権がなかった。あまりにひどい扱いに、ジャコブに離婚を切り出したこともあったけれど、鼻で笑われた。実家を頼れない私に、離婚をするだけの力がないことを、彼は知っていたからだ。
でも今の私には、バウムガルトナー侯爵という協力者がいるし、ホワイトレディの力もある。実家に戻れなくても、今の私なら、貴族という身分を捨てても、一人で道を切り開いていけるはずだ。
「ファンクハウザーの実権を握れたんだから、原作と同じように、このままここに残ってもいいんじゃないか?」
「・・・・その方法も考えましたが・・・・」
ふっと、意識せずに、口から吐息がこぼれる。
「この家には、嫌な記憶が多すぎます」
バウムガルトナー侯爵のおかげで、私は二つの選択肢を得た。
このままファンクハウザーの実権を握ったまま、伯爵夫人として生きていく方法と、ジャコブと離婚して一人で生きていく方法だ。
原作のようにファンクハウザー家の実権を乗っ取って、名ばかりの伯爵夫人として生きていく方法もあるけれど、私はそうしたくなかった。悪夢の記憶が残る場所では、永遠に心が安らげないと思ったからだ。
原作のアルテはどうして、ファンクハウザー邸に残る決断をしたのだろうか。闇落ちした彼女はむしろ、積み重ねてきた憎しみを糧にするため、あえて傷が残る場所にとどまろうとしたのかもしれない。
ーーーー私は、憎悪を見つめ続けるような生き方はしたくなかった。
「どのみち、この家の実権をいつまでも握っておけるとは思えません。今回の件で、ジャコブのほうから離婚を切り出してくる可能性も高いですし・・・・」
「だろうな。・・・・しかし君が去れば、ファンクハウザーは十中八九、ヴュートリッヒに寝返るだろう。そうなると、私が困る」
「だから不正を告発するんですね。・・・・でもそうなると、ファンクハウザーが潰されることになるかもしれません。それはそれで困るのでは?」
「それに関しては、秘策がある。うまくいくと断言はできないが、どのみちバウムガルトナーを売ったジャコブを、このまま放置するつもりはない」
バウムガルトナー侯爵の眼鏡の奥の眼光が、猫のように底光りする。
そうしていると、彼は危険人物に見えた。穏やかで知的に見えた第一印象から、少し間の抜けた顔、敵の首を切る瞬間を待ち構えている顔ーーーー本当に色々な顔を持つ人だと思う。
「それでーーーーこの前の提案にたいする、答えを聞いていいかな?」
しばらくして、バウムガルトナー侯爵はそう切り出してきた。
「手を組むかという話ですね」
私がそう問い返すと、バウムガルトナー侯爵はうなずいた。
「原作を読みこんでいるアリアドナには、未来を知っているという唯一無二の強みがある。だが一方で、今までの彼女の行動を見るに、そんなに賢い人間でもないと思うんだ。ーーーーだからやり返す方法なら、いくらでもあるはず」
私に、というよりは、自分自身に言い聞かせるように、バウムガルトナー侯爵は言った。
「だからあらためてーーーーアルテ・フォン・アルムガルト」
バウムガルトナー侯爵は、私の目を見据える。
「力を合わせて、アリアドナが自分のためだけに書き換えた物語を、ひっくり返してやらないか?」
ーーーーアルテ・フォン・アルムガルト。
アルテ・フォン・ファンクハウザーではなく、アルテ・フォン・アルムガルトだ。
そう呼ばれて、目が覚めたような心地になった。
嫁いでからは毎日毎日、意思や人格というものを削ぎ落されていくような日々を味わってきた。意志や人格を持ったままではーーーー正気のままでは、耐えられないような毎日だったからだ。
でも本当の名前を呼ばれて、昔の自分を、少しだけ取り戻せた気がした。心の奥に封じ込めていた箱から、感情が溢れだしたような感覚で、廃人のようになっていた自分にも、まだこんな力が残っていたのかと驚いたほどだった。
「・・・・どうかな?」
私が沈黙したままだったからだろうか、バウムガルトナー侯爵の顔に不安の色が滲む。
私は深呼吸してから、頭を上げて、笑顔を浮かべた。
「ーーーーよろしくお願いします」
バウムガルトナー侯爵の顔に、笑顔が戻る。
私達は固い握手を交わし、笑いあった。
「これからは協力関係になるんだから、閣下なんて堅苦しい呼び方はやめて、クリストフと呼んでくれ。私も君のことを、アルテと呼ぶから」
「ええ、そうしてください」
私が笑いかけると、バウムガルトナー侯爵ーーーークリストフは笑い返してくれた。
「ファンクハウザーの不正の告発についても、協力します」
私がにっこりと笑いかけると、クリストフは苦笑した。
「ありがたい。・・・・しかし、協力を持ちかけておいて何だが、君はそれでいいのかい? 今回の件でファンクハウザーがどうなるかはわからないが、ジャコブ達は間違いなく、貴族社会から追放されることになるだろう」
「未練はありませんよ。一欠けらもね」
話をしながら、私は使用人が運んできたカップを口に運ぶ。
そして一口飲んで、思わず顔を顰めてしまった。
「どうした?」
「・・・・紅茶、嫌いなんです。コーヒーを持ってきてと言うのを忘れました」
「嫌いなのに、なぜその紅茶を持ってこさせたんだい?」
「ジャコブが紅茶が好きなので、一緒にいるときは、いつもこの紅茶を出すように指示していたからでしょう。・・・・好みを把握して、合わせていたんです」
自然と声が、沈んでしまった。クリストフの顔も曇る。
「君は、努力したんだね。・・・・報われなかったが、その努力はきっと無駄じゃないよ」
「いいえ、報われなくても構いません。私は、前に進めればいい」
私はそう言って、笑った。
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