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side 空(4)

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 空は基本的に善行からはほど遠い位置にいる。その手で無惨にも奪ってきた命の数などもはや数えていない。だから、それは本当にただの気まぐれの、偶然の産物だった。

「――あ、あー、空ちゃーん!」

 自分の名前を呼ばれたからといって、即それが己自身を呼んだものだとは空は結びつけて考えなかった。なぜなら空には友達らしい友達が今現在のところ、いないからだ。

 けれどもしつこく呼ばわれては、「もしかして私のこと?」と思うていどの常識的な思考回路を空は一応持ち合わせていた。

 しかしそうやって振り返る前に、二の腕を引かれれば、「どうやら私のことだったらしい」とは小さな子供でもわかる。空ももちろんわかった。

 けれど振り返った先にいたのは、まったく知らない少女だった。いや、根元までミルクティー色の淡い茶髪をボブカットにした少女は空と同じ制服を身にまとっていたから、その点では「まったく知らない」と言い切るには語弊があるかもしれない。胸元のスカーフを見れば、少女が一学年下の生徒であることは知れる。しかし、知人ではないことはたしかだ。

 そして空が口を開く前に、O字脚で肩で風を切るような歩き方の男が少女の背後へとやってくる。派手な柄シャツとあわさって、絵に描いたようなチンピラだなと空は思った。そしてその予想は当たった。

「ちょっと~どこにいくん~?」

 気安いしゃべりかたの男の声を聞き、少女の肩に力が入ったのを空は見逃さなかった。そしてなにやら男と少女のあいだで会話がなされる。空がハタから聞いていてわかったのは、このチンピラ風の男が少女をナンパしていたということであった。

 なるほど、と空は思う。少女は絶世の美女というわけではないものの、どこか小動物を思わせる、庇護欲をそそるような愛らしい容姿をしている。そこからは凛とした強さは感じられない。だからこんなチンピラナンパ男を引き寄せてしまったのだろう。そう空は勝手に納得した。

「わたし! これから友達と予定があるので~……」
「あ、じゃあそのトモダチもいっしょにくればいいよ~」
「い、いえ、そういうわけには……」

 男の年齢は二〇歳前後だろうか。少女はスカーフの色を見る限り空のひとつ下だから、今年で一六歳。いずれにせよ少女は未成年なのだから、ナンパする相手としては空には不適切には思えた。そもそも、少女は嫌がっているのだから、仮に成人していたとしても、男の言動は不適切だ。

 空は知らないふりをしてその場を立ち去ることもできた。少女は知人でもなんでもないのだから。一応、同じ学校に通う後輩ではあったが、赤の他人であることには違いない。

 その日の空は別に機嫌はよくも悪くもなかった。けれど、なんだか少女を助けたほうがいいような気になった。いや、その日の機嫌は普通だったから、ちょっと物珍しい人助けでもして、いい気分で眠りたかったのかもしれない。

 いずれにせよ、空にそんな行動をさせた原動力は気まぐれで、偶然の産物だった。

 男が少女に手を伸ばす。空は素早くふたりのあいだに割って入り、その手を払った。

「――は?」

 男の目的は少女で、少女が友達だと主張する空には興味がないことは明らかだった。なにせ可愛らしい容姿の少女と違って、空の見た目は地味で垢抜けない。だから、そんな地味女にまさか手を払われるとは思ってもいなかったのだろう。男は間抜けな顔で空を見る。

「逃げるよ」

 空は少女の手を取り、その場から逃げ出した。やがて背に男の怒った声がぶつかったが、どうやら空のほうが土地勘があったらしい。人ごみをかき分け、いくつかの細い路地を通って、じぐざぐに逃げれば、すぐに男の姿は見えなくなった。

 少女の息が完全に上がってしまっていることもあり、空はここでいいかと足を止めて彼女の手首を放してやった。ちなみに、空の呼吸はほとんど乱れていない。

「はあっ、はあ……あ、ありが、と、う……ございます……」
「……息が整ってからでいいよ」

 普段から鍛えている空に全速力で引っ張られたからだろう。少女はぜいぜいと肩を大きく揺らして息をしている。

 やがて、少女の荒れた呼吸がしゃべるのには苦労しないだろうところまで戻ってきたところで、空は疑問を切り出した。

「なんで私の名前知ってたの?」
「――え?」

 少女の目が泳いだのを空は認めた。

「え、えっと……先輩――ですよね? ……は、『空』って名前なんですか?」
「うん、そう」
「……ごめんなさい。わたしの好きな漫画のキャラクターの名前なんです。『空』って……。とっさに、それしか思い浮かばなくって……」

 空は肩透かしを食らった気分になる。それから、少女の目が泳いだのは、もしかしたら「隠れオタク」というやつなのかもしれないと空は思った。空は、少女が本当のことを言った保証はないと知りつつも、しかし明確な嘘を言っているわけではないとも感じた。

「まさか、先輩の名前と同じだとは思わず……」
「……そこまで申し訳なさそうにしなくていい」
「でも、名前、あのナンパ野郎に知られちゃいましたし……」
「……あんな綿棒みたいなチンピラ、どうってことない。鍛えてるから……」

 空がそう言えば、少女はちょっと目を丸くしたあと、くすくすと笑いだす。そういう笑いかたが非常に絵になる少女だった。

「め、綿棒って……! ――先輩って、面白いんですね」

 今度は空が目を丸くする番だった。「面白い」。自身に対してそんな感想を抱かれたことはないだろうと確信するほど、空はそのような言葉とは無縁に生きていた。「面白みのない人間」だときっと空は星の数ほど思われてきた。だから、少女の言葉に不意を突かれた。

「……名前」
「え?」
「……あなたの、名前は?」

 そして空は気がつけば少女の名を尋ねていた。少女はそれを不気味に思う様子もなく、ひどく無防備に名乗った。

鳥飼とりかいかもめです。スカーフの色の通り、先輩より一学年下の一年生です」

 ……これが空とかもめの出会いだった。
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