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 果たして、その男が真実真一郎しんいちろうを恋い慕っていたのかは定かではない。単に真一郎でを発散させようとしていただけだったのかもしれない。いずれにせよ、真一郎にとっては迷惑この上ない話である。

 女が少なく男が有り余っているこの世界において、己の見た目は、ある種の欲求を満たすのに都合が良いようだ――ということは、真一郎とて自覚していた。その手の輩から色目を使われたこと数知れず、しかし真一郎がそういった誘いに乗ったことはない。

 しかしそれがいけなかったのか、いつの間にやら「尻軽」などという噂を流されて――その果てがこのザマだ。教師に指名されて渋々準備室に資料を戻しに行けば、狙いすましたかのように真一郎より体格に優れた男に襲われて、絶体絶命のピンチに陥っている。

 あっという間に口を塞がれて、見ず知らずの男がこれから己になにをしようとしているのかは、深く推察するまでもない。最悪だった。

 それでもすぐに泣いてあきらめて、流れに身を任せられない性格だったのは、真一郎にとっては幸いなことだった。それでも体は害意に触れて震えた。しかし心は折れていなかったので、まだ自由だった脚をめちゃくちゃに動かして暴れた。準備室に置いてある、埃をかぶっていた、巻かれた大きな地図に足の横が当たった。ロール状の地図が、なにがしかの物品を巻き込んで床に倒れる音が、存外大きく響く。

「おい! 暴れんなよ!」

 男が舌打ちし、いらだった様子で真一郎の腿を膝で押さえる。

 万事休す――。

 だが真一郎が次の一手を脳から絞り出そうとする間もなく、それとほとんど同時に、準備室のスライドドアが聞いたことのない音を立てて――吹き飛んだ。男の手で鍵がかけられていたスライドドアが、宙を舞う姿を真一郎はハッキリとその目で見た。

「――がっ」

 レールから外れたドアが、男の背中にぶつかって、乗る。

 男より後方、準備室の出入り口にはドアを蹴り飛ばしたらしい人物のシルエットが、逆行を受けて黒く浮かぶ。

 それは――明らかに、女だった。着ている制服こそ、真一郎たちと同じスラックスで、髪もさっぱりと短かったが、胸部にはたしかな膨らみがあった。男性では通常あり得ない大きさの、丸みを帯びたふくらみだ。

 真一郎は呆気に取られた。スライドドアが吹き飛んだことも、それを成し得たのが真一郎より小柄な女性であることも。目まぐるしく変化する事態は、鉄砲水のごとく真一郎の頭に押し寄せてきて、その濁流で混乱させた。

「同意の上での行為ではなさそうだが――」

 逆光の中にあっても、彼女の黒っぽい瞳には鋭い光が宿っているように見えた。

 真一郎はそれで我に返って、あわてて男のみぞおちに蹴りをお見舞いすると、その下から這い出る。そして改めて闖入者――否、救世主の姿を見た。

 真っ黒なショートカット。釣り目だが大きな瞳。小さな鼻と控えめな唇。精悍さからはほど遠い、まろい線を描く頬は、彼女を童顔に見せる。

 女が少ない世界で、女性などたいていの男からすれば高嶺の花だ。真一郎も例にもれず、淡い恋心を抱いた女性はいれども、お近づきになれた試しなどなかった。だから、心のどこかで最初から女性を求めることを、真一郎はあきらめていた。ゆえに、この同じ制服を身にまとった女子生徒が、どの学年のだれなのか、真一郎にはわからなかった。

「ハア?! な、なんだお前――うっ」

 男の背中に乗っていたドアごと、女は男を踏みつける。

「彼はあなたに無体を働こうとしていたのか?」
「う、うるせえな。なんなんだお前――ぐっ」
「あなたには聞いていない」

 どこか淡々とした調子の彼女の態度は、機械的な冷たさと――ある種の美しさが同居していた。

 彼女の黒っぽい目が真一郎を見据える。真一郎は、途端にいたたまれなさと気恥ずかしさを覚えた。男性よりもか弱いとされる、守るべき対象である女性に救われたという事実は、思春期の真一郎からすると羞恥心を感じざるを得ない。

 そうやって真一郎がまごついているあいだに、男は忌々しげな目で、自分の背中にさながら足置きのように体重をかけている彼女を見た。

「いいご身分の女サマにはわからないだろうなあ。とっかえひっかえ男とヤりまくれるんだからよ」

 真一郎は、男のあんまりな物言いに一瞬、息を詰めた。

 しかし、彼女は平然としている。顔を赤くして怒ることもなく、鼻で笑ってあからさまな侮蔑の目を向けることもなかった。

 ――ただ、言った。

「今まであなたがそこの彼にどんなアプローチをしてきたのか、してこなかったかは知らない。しかし誠実な方法で愛をささやく節度を投げ捨てた、見下げるべき犯罪者がなにを言ったとて、私を傷つけるのは無理なことだよ」

 どこまでも平坦で、感情を感じさせない声だった。しかし、そこにはまぎれもなく、揺るぎない気高さがあった。

 真一郎は、一瞬にして彼女から目が離せなくなった。――思うに、それはほとんどひと目惚れだった。
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