これがおれの運命なら

やなぎ怜

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 あのあとおれは気絶するように寝入っていたようだ。恐らく祐一がかけてくれたのだろうシーツの中で、みじろぎして目を開ける。

 睡眠を取ったのが良かったのか、それとも持続時間が過ぎたのか、体から熱は引いていた。

 寝室の扉をそっと開けて様子をうかがう。祐一はソファに座ってだれかと通話中のようだった。

 一度寝室に引っ込もうとしたが、それより先に彼に見つかる。

「シャワー浴びておいで」

 通話口に手をやったまま、祐一がおれにそう言う。

 たしかに服は汗を吸って湿っていたし、特にジーンズの惨状はひどい。素直に祐一の言葉に従って、一度体を清めたほうがよさそうだ。

 ざっと体を洗い流してバスルームから出る。
「バスローブあるよ」。扉の開閉音を聞いたのか、向こうの部屋からそんな言葉がかけられる。たしかにあのジーンズを穿くのはちょっとためらわれたので、迷いつつも備え置きのバスローブへと手を伸ばす。

「これ……着てよかった?」

 やけに手触りのいいバスローブに腕を通したものの、やはり不安で、リビングルームのソファに座る祐一へそんなことを聞いてしまう。

 祐一はというと、いつもの屈託のない頬笑みを浮かべていた。

「うん。着替えはあとで用意させるから、ちょっと待って」

 用意させる、という祐一のセリフはやけに手慣れていて、なんとなくおれとは違う世界の人間だなと思わされた。

 あれからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。けれども祐一の雰囲気がよく見知ったものに戻っていたことはたしかで、そのことにおれはそっと安堵する。

「ごめん……」
「いや、いいよ。仕方ないことだし」

 ソファから手招きする祐一に促され、おれは恐る恐る彼のもとへと向かった。ソファの空いたスペース、祐一の右隣をぽんぽんと叩かれて、おれはそこに腰を下ろす。

 祐一の隣。教室の席でもそうだったし、自習室でもそうだった。それがひどく懐かしく感じられて、胸を揺さぶられた。

「すぐに来れなくてごめん」

 予想外の言葉に思わず祐一の顔を見た。彼は眉を下げて、その瞳に哀しさを湛えていた。そう言えばトイレでもそのようなことを言われた気がするが、あのときは熱に浮かされていて聞き流してしまったと思い出す。

「なんで、祐一が謝るんだ?」

 本気で理由がわからなくて、祐一の目を強く見返す。

「だって、透が酷い目に遭っているのを知っていたのに……すぐには迎えに行かなかったから」
「……え?」
「ごめんね。透の家族を下手に刺激したら、透になにされるかわからなかったから、なかなかすぐには動けなくって」
「え? え……?」

 いつの間にか、祐一の手がおれの手を握っていた。祐一の指先はひんやりとしていて、その冷たさにどきりとする。

「……あ、そうだ。祐一はなんでここに……?」

 様々なことがありすぎて頭からすっぽ抜けていた疑問を思い出す。そういえば父親たちはどうしているのかとか、おれが会う予定だったアルファはどうしたのかとか、気になることはたくさんあった。

「透を迎えに来たんだけど」
「それはもう聞いたよ。――そうじゃなくって」
「……ああ、なんでちょうどよくこのホテルにいたかってこと?」
「そう、それ」

 祐一はしばらく考えるそぶりを見せたあと、合点がいったような顔をする。けれどもすぐその顔はくもって、しばらく言いにくそうにしていた。

「透が、その……『貸し腹』にされるって前に言ってたからさ。急に学校辞めちゃって、電話も繋がらなくなったから、だからさせられそうになってるのかなって思って」

 記憶を掘り返して、そう言えばいつかの公園で色々とぶちまけたことを思い出す。

「だから知り合いのアルファに『貸し腹』の話が来たら教えて欲しいって頼んだんだ。オメガの『貸し腹』の話って、そうあるものじゃないからさ」
「……そうなの?」

 幼少期から当たり前のように繰り返し聞かされてきたから、は珍しくないのだと思い込んでいた。

 けれども冷静に考えれば、人権意識の発達した現代において、本人の意思ならともかくも、「貸し腹」なんて人道にもとること甚だしい。

 まともな常識を兼ね備えていれば、相手が「産むための性」と言われるオメガといえども「貸し腹」にさせられる話なんて眉をひそめるのが普通なのだろう。

 そういうおれの、マトモじゃない「当たり前」を見抜いたのか、祐一の瞳が悲しげに揺れる。

「あ、いや! そうだよな! 普通は……」

 取り繕うようにそう言ったけれど、口に出すと心臓がぎゅっとつかまれたような感覚に陥る。

 おれの手を取る祐一の指先に、力が入ったような気がした。

「――『貸し腹』の話が来たって聞かされて、それが透だってわかったから、知り合いに名前を貸してもらって……今日ここに来たんだ」
「え……。じゃあ、おれが今日会う予定だったアルファって……」
「それ、おれだよ。だから、ここにいるのは偶然じゃないんだ」

 おどろきすぎて一瞬、思考が止まる。

「え? あ……。えっと、よくバレなかったね?」
「全部代理人を通していたからね。……前に透が俺との子を作るように言われてたって聞いていたから、高宮の名前を出すことも考えたんだけど」

 父親が正攻法で高宮家におれを推さなかったのには理由がある。

 ひとつは立花家うちがすでに高宮家からほとんど縁を切られているということ。

 もうひとつは、父親のプライドの高さ。

 あくまで父親がこだわっていたのは、おれに高宮の子を妊娠させて、跡取りの祖父として高宮家に乗り込むことだ。

 けれどもそうする前に兄の多額の借金が判明してしまった。しかも、かなりマズいところから借りている。

 そこで高宮家におれを売り飛ばすという発想をしなかったのは、父親のプライドが高かったから。「長男の不始末のために即金が必要なので次男を買いませんか」――なんてことを、父親が目の敵にしている高宮家に言えるはずもない。

「『高宮家うちに頭を下げるようなことはしないからやめておきなさい』って、母に言われてね。それで知り合いの好意で名前を貸してもらってやり取りしていたんだ」

 祐一の母親ということは、恐らく父親が悪しざまに言っていた「高宮家のオメガ」なんだろう。

 まったくもってその言い分は正解で、おれの父親の性格をよくわかっているなと思った。

「透」

 名前を呼ばれて意識を現実に引き戻される。

「聞いて欲しいことがあるんだ」
「……なに?」

 急に改まって言われると、なんだかその先を聞くのが怖くて、答えるまでに間が空いた。

「俺、多分、ひと目惚れだった」
「ひと目惚れ?」

 なんの話をし始めたのかわからず、おれは首をかしげる。

「はじめから透に惹かれてた」
「えっ」
「でも透は俺のこと避けてるみたいだったからさ」

 たしかにおれは祐一のことを避けていた。入学当初は五〇音順で席が前後して、席替えをしても隣同士になってしまったから、休み時間になるとおれはすぐに図書室へ逃げ込んでいた。

 そのことを祐一に知られていたという事実に、なんとなく申し訳なさがつのる。

「あ、いや……うん、まあ」
「……だから声をかけるのは悪いかなって思ってたんだけど、我慢出来なくってね。それでもちょっと話すだけって思ってたんだけど、そうすると今度はもっと透に近づきたくなって」
「――それで、自習室に?」
「うん。ほら、前にオメガが襲われた事件があったでしょ?」
「ああ……」
「そのとき俺も偶然見てて……透のこと、もっと知りたいなって思ったんだ」

 祐一の頬がゆるんで、柔らかな笑みを作る。おれはそんな祐一の表情から目を離せなくて、気恥しい気持ちを抱えながらも、彼の顔をじっと見つめていた。

「大人しいかと思ったらああいうことしちゃうし、なにを言われても勉強するのはやめないし」
「それは……」
「なんか、そういうところが気になって」

 おれと同様に祐一も恥ずかしいのか、一瞬だけ視線をそらした。

「最初に透に惹かれたのは、多分、アルファの本能での話だと思う。けれど透のこと見てたら、オメガだから気になるんじゃなくって、透だからこんなに気になるのかなって思うようになって……」
「……おれも」

 祐一もそんな気持ちだったんだと知って、体がふわふわとおぼつかない感じになる。

「おれも、祐一に最初から惹かれてた。でも、祐一の……その、子供を妊娠するのは嫌だって思ってたから、避けてた。高宮の家に迷惑もかけたくなかったし」
「そっか」
「うん。……でも、祐一が色々話しかけて来てくれて……おれはクラスで浮いてたのにそんなの全然気にしてる風じゃなくって。おれのすることを……勉強することも、頭から否定したりしなくて。いっしょにいて、しゃべって……そうしているうちに……好き、になって」

 改めて言葉にすると、恥ずかしくって仕方がない。

 けれどもそれが今、必要だと思った。

 祐一に、きちんと思いを伝えたい。おれが抱いている、言語化するのが難しい感情まで、祐一に教えてあげたい。

「祐一のこと考えると、もうそれしか考えられなくなる」

 だから、高校を辞めることになって、自室に軟禁されていたとき、祐一のことは出来るだけ考えないようにしていた。幸せだったわずかな時間を思い出してしまって、どうしようもなく悲しくなるから。

 けれども今、祐一は目の前にいる。

 そう思うと彼を愛しいと思う気持ちが溢れて、止まらなくなる。

「それくらい、好き、なんだ」

 絞り出すような声でそう言った途端、ぐいと腕を引かれる。気がつけば祐一の綺麗な顔が目の前に迫っていて、さっと頬に熱が集まった。

「ズルい」
「へ?」
「俺より先にそういうこと言っちゃうんだもん」

 言葉の割に祐一のセリフには不機嫌なところがなく、おれのすぐ目の前で彼は微笑んでいた。

「俺にも言わせてよ」
「うん……」
「透が好き。始めはちょっと惹かれるなって思う程度だったのに、今はもう、離したくないくらい好き。嫌いになってって言われても、絶対出来ないって断言出来るくらい好き。……どうしようもないくらい好き」

 祐一の瞳を見つめる。それがとても美しくて、尊いものに見えた。

「透が学校を辞めたって知ったとき、すごくショックだった。俺はなんにも知らなかったから」
「……ごめん」
「でもすぐに『貸し腹』の話を思い出して……そのときはどうにかなりそうだった。っていうか、今日ここで透に会うまで、本当にどうにかなりそうだったよ。もし透がだれかに傷つけられたらって考えると、冷静じゃいられなかった」

 おれの知る祐一はずっと余裕に溢れていたから、その言葉は意外だった。おれが促進剤で疑似的な発情期に陥っていたときでさえ、彼は欲望に流されることはなかったから。

「意外?」

 そんな心の内を察したのか、かすかに首を傾けて祐一が言う。おれは緩慢な動作でうなずいた。

「そうだね。俺ってよくマイペースだって言われるし、俺もあんまり動じない性格だと思う。というか、思ってた。……でも、それって勘違いだったなあって、今は思うよ」
「そう?」
「うん。何回透の家に行って無理やり連れて来ようか考えたかわからないよ。ここしばらくで親に一生分は『落ちつけ』って言われた気がする」

 そのときのことを思い出しているのか、祐一はちょっと嫌そうに息を吐いた。そんな姿がなんだか可愛くて、自然と笑みがこぼれる。

「笑わないでよ~」
「ごめん。……でも、うれしい」
「本当に?」
「うん」

 そう答えると、祐一からも小さな笑い声がこぼれる。

「ねえ、透」
「うん?」
「もう、あの家には戻らないで」

「あの家」、がおれの家を指しているのだと数拍置いて理解した。

 祐一は先ほどまでの柔らかな笑みを消して、真剣なまなざしをおれに注いでいる。

「透を傷つけるひとのところに、透を置いておきたくない」
「……でも」

 でも、おれの居場所はあの家しかない。けれども戻るつもりもなかった。しかしかと言って、その先のビジョンが明確にあるわけでもない。

 そう思うと暗い気持ちになって、自然とうつむいてしまう。

「俺の家に来てよ」
「え? いや、でも、それは」
「もともと親戚なんだからおかしくないでしょ?」
「でも――」

 立花家うちが高宮家から締め出されているということは、父親から聞いていた。そんな立花家の人間を家に迎え入れることについて、良く思わない人もいるんじゃないだろうか。そうなれば祐一も、不必要な文句に晒されることになるかもしれない。

「透」

 祐一に肩をつかまれる。思わず彼の目を見れば、そこには哀切の色がにじんでいた。

「面倒なしがらみを抜きにして、透の気持ちを教えて欲しい」
「おれの、気持ち……」
「透はあの家に戻りたい? またお父さんたちといっしょに暮らしたい?」

 ぐっと、喉に言葉が詰まる。

 心臓がバクバクと早鐘を打ち鳴らす。

「俺は透をあの家に戻したくない。透には悪いけど、この先も透のお父さんたちと、透が暮らして行くのは、不安で仕方ないよ」
「それ、は……」
「透が戻りたくないって言ったら、俺は絶対に透をあの家には戻さない。透のお父さんたちが返せって言って来ても、絶対に返さない」
「祐一……」
「――お願い。俺に透を守らせて?」

 祐一の指先がおれの頬に触れて、すっとまなじりへと向かう。とっくに視界は歪んでいて、浮かんだ涙の中で、外から差し込む光が乱反射していた。

 やけに狭く感じられる喉から、ひとことだけ言葉がこぼれ落ちる。

「……怖かった」

 それはずっと、言えなかった言葉。

 ずっと、心の奥底で押し殺していた感情。

 父親が怖い。兄が怖い。家が怖い。「貸し腹」になるのが怖い。発情期が来るのが怖い。オメガであることが怖い。――この先も、ひとりぼっちのまま、こんな人生が続いて行くことが、怖い。

 けれども、逃げ場所なんて、どこにもなくて。

「怖かった……!」

 上擦った声が漏れる。それを聞くとなんだか耐えられなくなって、しゃくり上げる体を止められなくて、反射的に顔を手で覆ってうつむいた。

「透」
「怖かったよ……!」
「うん……」

 そんな事情や感情を知られて、祐一に嫌われることが、怖かった。

 祐一の肩が額にあたって、祐一の腕がおれの背に回る。祐一の大きな手が、赤子をあやすようにゆっくりとおれの背中を撫でる。

「俺が透を守るから。……もう、そんな思いはさせないから」

 祐一に抱き寄せられたまま、おれはゆっくりとうなずいた。
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