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絵の中の幽霊(2)
「ねえ、見て見て。確実に近づいて来ていると思わない? これならもうすぐ出てくるような気がするんだ」
授業と授業の合間の休憩時間に廊下で行き会った異世界先輩が、やにわにスマートフォンの画面を見せてきた。
それは例の油彩画を撮影した写真だった。
ニカと宇津季は素直に突き出されたスマートフォンの画面を覗き込む。
たしかに、このあいだはただの黒い線にしか見えなかったはずのそれは、平たい幅のある筆でひと撫でしたような、黒っぽい染みにも見える姿に変わっているようだった。
「黒いくねくね? 八尺様? それともスレンダー……ウーマン?」
異世界先輩は興奮気味にそう早口で言う。
ニカには異世界先輩が口にした単語の数々はよくわからなかったが、この油彩画の黒っぽい染みに異世界先輩が熱い期待をかけていることだけは伝わってきた。
「えー、異世界先輩が書き加えたとかじゃないですよね?」
「そんなことするわけないじゃない。心外だなあ」
ニカは口先では軽口を叩いたものの、異世界先輩のことが心配になった。
「絵から幽霊が出てきたら……色々とまずくないですか?」
「どうまずいの?」
「ええー……呪われたりとか?」
ニカは自分で言っておいて小学生みたいな論理だなと思った。
異世界先輩もそう思ったのかどうかは定かではないものの、「あはは」と笑ってニカの言葉を流してしまう。
そのうちに休憩時間も終わろうかという頃合になる。
異世界先輩は真面目に授業を受けているらしく、「次の授業が始まっちゃうね」と言って、ニカと宇津季に別れを告げようとした。
「あの」
その言葉をさえぎったのは宇津季だった。
よくよく見れば、宇津季の眉間にはわずかに力が入っているのがわかる。
「その……幽霊が出てきそうになったら、教えてください」
ひどく真剣な顔つきでそう言った宇津季に対し、異世界先輩はどこまでも軽やかに「わかった」と言い、去って行った。
そんな異世界先輩の背中を見送っても、宇津季の眉間にはしばらく力が入ったままだった。
「……なあ、あれ、ガチで幽霊だと思う? 『女性の幽霊』って異世界先輩は言ってたけど、今の時点じゃどう見てもただの細長い染みだよな?」
「わからない。もしかしたら、異世界先輩の見え方と、おれたちの見え方とか、感じ方とかが違っている可能性もある」
「うーん……」
そんなやり取りをしてから一週間も経たないうちに、放課後に入ってすぐ、異世界先輩から「絵から出てきそう」というメッセージがグループチャットのルームに投下された。
続いて送信されたのはテキストメッセージではなく、写真だ。
例の湖畔を描いたと思しき油彩画の半分が、黒っぽい染みで覆われていた。
それは見ようによっては歪んだひとの顔と捉えられなくもないものだった。
ニカは宇津季と共に、カバンを引っつかみあわてて校舎を出て、自寮である赤百合寮に戻らず、そのまま黒芙蓉寮へと向かった。
さすがと言うべきか、黒芙蓉寮にはすでに筒井筒が到着していた。
黒芙蓉寮の談話室。その暖炉の近くに掛けられた油彩画は、グループチャットのルームに送信された写真から、またさらに変化を見せていた。
明るい湖畔を描いた、淡い筆致の油彩画の姿は消え、全面にひとの顔と受け取れなくもない、黒い染みだけの絵になっていた。
「ヤバくねーか?」
そう言ったのは筒井筒で、じっと壁に掛けられた絵画を凝視している。
恐らく、害意のあるものが出てくれば、筒井筒は火法でそれを燃やすだろう。そんな気迫を感じた。
宇津季も、筒井筒と同じようなものだった。
ニカだけは、戸惑いのほうが勝って、まだ幽霊が出てくるなんてことにはならないだろうと、頭のどこかで楽観視する自分を捨て切れなかった。
しかしそんなニカの願望を嘲笑うかのように、その目の前で絵画の中のまだらな黒い染みが波打つように歪んだ。
ずるり。
そんな音を聞いたような気がした。
絵画から緩慢な動作で、ずるりずるりと、長い黒髪の女性が這い出てきた。
女性は床に落ちるかに思えたが、ぐっと上半身をそらせると、絵画に最も近い場所にいた異世界先輩の顔を覗き込むように、鼻先を近づけた。
「ああ」
吐息のような異世界先輩の声がした。
「ああ――ぬばたまの髪が美しい」
ニカは「ぬばたま」の意味はわからなかったが、異世界先輩がこんな緊迫した場面で幽霊の髪を褒めたことはわかった。
今まさに火法を使わんとしていた筒井筒も、呆気に取られて動きが止まっている。
宇津季も似たようなものだった。
そんな三人を置いて、異世界先輩はぺらぺらと舌の滑りよく「陶磁器」「桜貝」「白魚」などと、女性の幽霊を――恐らく――褒め称える言葉を矢継ぎ早に口にする。
そのうちに、はっきりとした実体を持っているように見えた女性の幽霊の姿が、なぜか薄くなってきた。
「――え、ちょっと待って?」
そこに来て、ようやく異世界先輩の口から戸惑いの声が漏れる。
「え、ちょ、ちょっと待って! まだ私はあなたと話したいことが……!」
しかし次の瞬間には、女性の幽霊は煙のように空気に溶けるようにして消えてしまった。
異世界先輩が褒めた黒い髪の隙間から見えた幽霊の横顔は、どこかはにかんでいるように見えなくもなかった。
「あー!」
異世界先輩がこの世の終わりのような、嘆きの声を口にした。
「消えた!」
「成仏したんじゃねえの?」
情け容赦のない筒井筒の、呆れ返った声を受けて、異世界先輩は見るからにしおれ、「そんなあ」とうなだれてしまった。
そんないつも通りの――いつも通り過ぎる――異世界先輩と筒井筒のやり取りを見て、ニカは肩に入っていた力がゆるゆると抜けて行くのを感じた。
「はあ……それにしても黒いくねくねでも、八尺様でも、スレンダーウーマンでもなくて、貞子のほうだったとはね」
「よくわからないですけど……成仏したのなら、それはいいことではないでしょうか」
「私はもっと話がしたかった! たとえば絵の中の世界への行き方とか!」
宇津季の言葉に、異世界先輩は地団太でも踏み出しそうな声色で、叫ぶようにして言う。
「えー、異世界先輩は絵の中の世界へ行きたいんですか? なんかメルヘンチック……」
「だって、絵の中にいける方法があるなら試してみたいじゃない。まあどこのどんな場所に繋がるかはわからないけれども」
「幽霊がいたってことは、あの世に近い場所、とかだったりして」
ニカが雑にそんな推測を述べれば、異世界先輩はあっさりと、
「じゃあいいか……」
と言って、それきり「絵の中の世界」とやらに興味を失った様子だった。
……なお、幽霊が消えたあと、元通りの姿を取り戻した油彩画は、そのまま黒芙蓉寮の暖炉の近くに飾られ続けることとなった。
授業と授業の合間の休憩時間に廊下で行き会った異世界先輩が、やにわにスマートフォンの画面を見せてきた。
それは例の油彩画を撮影した写真だった。
ニカと宇津季は素直に突き出されたスマートフォンの画面を覗き込む。
たしかに、このあいだはただの黒い線にしか見えなかったはずのそれは、平たい幅のある筆でひと撫でしたような、黒っぽい染みにも見える姿に変わっているようだった。
「黒いくねくね? 八尺様? それともスレンダー……ウーマン?」
異世界先輩は興奮気味にそう早口で言う。
ニカには異世界先輩が口にした単語の数々はよくわからなかったが、この油彩画の黒っぽい染みに異世界先輩が熱い期待をかけていることだけは伝わってきた。
「えー、異世界先輩が書き加えたとかじゃないですよね?」
「そんなことするわけないじゃない。心外だなあ」
ニカは口先では軽口を叩いたものの、異世界先輩のことが心配になった。
「絵から幽霊が出てきたら……色々とまずくないですか?」
「どうまずいの?」
「ええー……呪われたりとか?」
ニカは自分で言っておいて小学生みたいな論理だなと思った。
異世界先輩もそう思ったのかどうかは定かではないものの、「あはは」と笑ってニカの言葉を流してしまう。
そのうちに休憩時間も終わろうかという頃合になる。
異世界先輩は真面目に授業を受けているらしく、「次の授業が始まっちゃうね」と言って、ニカと宇津季に別れを告げようとした。
「あの」
その言葉をさえぎったのは宇津季だった。
よくよく見れば、宇津季の眉間にはわずかに力が入っているのがわかる。
「その……幽霊が出てきそうになったら、教えてください」
ひどく真剣な顔つきでそう言った宇津季に対し、異世界先輩はどこまでも軽やかに「わかった」と言い、去って行った。
そんな異世界先輩の背中を見送っても、宇津季の眉間にはしばらく力が入ったままだった。
「……なあ、あれ、ガチで幽霊だと思う? 『女性の幽霊』って異世界先輩は言ってたけど、今の時点じゃどう見てもただの細長い染みだよな?」
「わからない。もしかしたら、異世界先輩の見え方と、おれたちの見え方とか、感じ方とかが違っている可能性もある」
「うーん……」
そんなやり取りをしてから一週間も経たないうちに、放課後に入ってすぐ、異世界先輩から「絵から出てきそう」というメッセージがグループチャットのルームに投下された。
続いて送信されたのはテキストメッセージではなく、写真だ。
例の湖畔を描いたと思しき油彩画の半分が、黒っぽい染みで覆われていた。
それは見ようによっては歪んだひとの顔と捉えられなくもないものだった。
ニカは宇津季と共に、カバンを引っつかみあわてて校舎を出て、自寮である赤百合寮に戻らず、そのまま黒芙蓉寮へと向かった。
さすがと言うべきか、黒芙蓉寮にはすでに筒井筒が到着していた。
黒芙蓉寮の談話室。その暖炉の近くに掛けられた油彩画は、グループチャットのルームに送信された写真から、またさらに変化を見せていた。
明るい湖畔を描いた、淡い筆致の油彩画の姿は消え、全面にひとの顔と受け取れなくもない、黒い染みだけの絵になっていた。
「ヤバくねーか?」
そう言ったのは筒井筒で、じっと壁に掛けられた絵画を凝視している。
恐らく、害意のあるものが出てくれば、筒井筒は火法でそれを燃やすだろう。そんな気迫を感じた。
宇津季も、筒井筒と同じようなものだった。
ニカだけは、戸惑いのほうが勝って、まだ幽霊が出てくるなんてことにはならないだろうと、頭のどこかで楽観視する自分を捨て切れなかった。
しかしそんなニカの願望を嘲笑うかのように、その目の前で絵画の中のまだらな黒い染みが波打つように歪んだ。
ずるり。
そんな音を聞いたような気がした。
絵画から緩慢な動作で、ずるりずるりと、長い黒髪の女性が這い出てきた。
女性は床に落ちるかに思えたが、ぐっと上半身をそらせると、絵画に最も近い場所にいた異世界先輩の顔を覗き込むように、鼻先を近づけた。
「ああ」
吐息のような異世界先輩の声がした。
「ああ――ぬばたまの髪が美しい」
ニカは「ぬばたま」の意味はわからなかったが、異世界先輩がこんな緊迫した場面で幽霊の髪を褒めたことはわかった。
今まさに火法を使わんとしていた筒井筒も、呆気に取られて動きが止まっている。
宇津季も似たようなものだった。
そんな三人を置いて、異世界先輩はぺらぺらと舌の滑りよく「陶磁器」「桜貝」「白魚」などと、女性の幽霊を――恐らく――褒め称える言葉を矢継ぎ早に口にする。
そのうちに、はっきりとした実体を持っているように見えた女性の幽霊の姿が、なぜか薄くなってきた。
「――え、ちょっと待って?」
そこに来て、ようやく異世界先輩の口から戸惑いの声が漏れる。
「え、ちょ、ちょっと待って! まだ私はあなたと話したいことが……!」
しかし次の瞬間には、女性の幽霊は煙のように空気に溶けるようにして消えてしまった。
異世界先輩が褒めた黒い髪の隙間から見えた幽霊の横顔は、どこかはにかんでいるように見えなくもなかった。
「あー!」
異世界先輩がこの世の終わりのような、嘆きの声を口にした。
「消えた!」
「成仏したんじゃねえの?」
情け容赦のない筒井筒の、呆れ返った声を受けて、異世界先輩は見るからにしおれ、「そんなあ」とうなだれてしまった。
そんないつも通りの――いつも通り過ぎる――異世界先輩と筒井筒のやり取りを見て、ニカは肩に入っていた力がゆるゆると抜けて行くのを感じた。
「はあ……それにしても黒いくねくねでも、八尺様でも、スレンダーウーマンでもなくて、貞子のほうだったとはね」
「よくわからないですけど……成仏したのなら、それはいいことではないでしょうか」
「私はもっと話がしたかった! たとえば絵の中の世界への行き方とか!」
宇津季の言葉に、異世界先輩は地団太でも踏み出しそうな声色で、叫ぶようにして言う。
「えー、異世界先輩は絵の中の世界へ行きたいんですか? なんかメルヘンチック……」
「だって、絵の中にいける方法があるなら試してみたいじゃない。まあどこのどんな場所に繋がるかはわからないけれども」
「幽霊がいたってことは、あの世に近い場所、とかだったりして」
ニカが雑にそんな推測を述べれば、異世界先輩はあっさりと、
「じゃあいいか……」
と言って、それきり「絵の中の世界」とやらに興味を失った様子だった。
……なお、幽霊が消えたあと、元通りの姿を取り戻した油彩画は、そのまま黒芙蓉寮の暖炉の近くに飾られ続けることとなった。
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