黒芙蓉寮の異世界先輩

やなぎ怜

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しるし(5)

 夕食後、順番に風呂に入ることになり、ニカの番がやってきた。

 なんとなく、今密室でひとりきりになることに恐怖心を感じなくはなかったが、そんなことはさすがにおくびにも出さず、さっさと風呂を済ませた。

 バスタオルで髪の水気を取りながら脱衣所を出る。

 電気が消えた廊下のその暗がりの奥に、ニカははっきりと裸足の先を見た。

 ぼんやりとしてもいないし、特別青白いということもない。

 のっぺりともしていない、妙に質感のあるアイボリー色の足首から先が、はっきりと廊下でつま先をそろえて立っていた。

 ニカは廊下の先に広がる闇から視線をそらし、反対側のリビングルームの明かりを見た。

 ニカは脱衣所の電気を消すと、振り向きもせず足早に、リビングルームのドアに嵌め込まれた曇りガラスから漏れ出る光を目指した。

「あのー……異世界先輩」
「ん?」
「異世界先輩は……なにか見えてたりしないですよね?」

 リビングルームの大きなテレビ画面には、夜帯のバラエティー番組が映っていた。

 異世界先輩はそれを眺めることもなく、スマートフォンの画面に目線を落としていたが、ニカに呼ばれると顔を上げた。

 異世界先輩はすぐにニカの質問の意図を理解した様子で言う。

「あ、なにか見たの?」
「えーっと、さっき、脱衣所出て廊下の、玄関のほうの暗がりになんか……足があって」
「足」
「いや、見間違いかもしれないですけど」

 ニカと異世界先輩のやり取りを聞いていた筒井筒が、「もしかしたらヘンピトかもしれないし、見に行こうぜ」と言い出した。

 結局、四人でぞろぞろと廊下へ出たものの、暗がりにはもうなにもいなかった。

 異世界先輩が廊下の電灯のスイッチを入れたが、もちろん玄関の近くにはなにもおらず、ニカは若干混乱をきたした。

「特にデフォルメされた幽霊とかって足がないけど、足だけ出てくることもあるんだねえ」
「幽霊かどうかはわかんねーだろ」

 ニカの動揺をわかっているのか、筒井筒がそんなことを言う。

「たぶん大丈夫だよ。ただの通りすがりの幽霊かもしれないし」

 異世界先輩もニカの動揺を落ち着けるためかそんなことを言うが、ニカはあまり効果を感じられなかった。

 それどころか異世界先輩は今度は手のひらを返したかのように、追い討ちをかけるようなことを言う。

「それにさっき二階から足音がしたし。その主が降りてきただけかもしれないよ」

 筒井筒が異世界先輩の肩を強く叩いた。

「二階から、足音……」
「……お前が風呂入ってるときに、リビングの天井から足音がした」

 宇津季が気の毒そうな顔をしてニカを見ている。

 従兄弟のそのような憐れみのこもった眼差しを受けたことで、ニカはどうにか己を取り戻すことができた。

「通りすがりだったら、別にいいんですけど」

 それはニカの、精一杯の強がりでもあった。

 宇津季にはそれがよくわかっているのだろう、相変わらず気の毒そうに従兄弟を見ていた。

「大丈夫だよ、幽霊なんて」
「お前が余計なこと言うからだろ!」
「いや、でもこんな場面だしさ。情報共有しておかないほうがあとあと怖いと思わない?」
「そこまで考えが回るなら、もっと言い方とか、タイミングとかな……」

 筒井筒のお説教が始まり、ニカがいたたまれない気持ちになったタイミングで、リビングルームからスマートフォンのバイブレーション音が響いてきた。

 また四人そろって、ぞろぞろとリビングルームに戻る。

「あ、私のだ」
「こんな時間に?」

 ソファの前のローテーブルの上に放置されていたスマートフォンの画面を見れば、電話が掛かってきていることはわかった。

 しかし相手は非通知となっている。

 そのためか、異世界先輩は赤いボタンをタップした。

 だが再度バイブレーション音が響き渡る。

「しつこいな」
「出てみようかな。海神ってスマホ使うと思う?」
「知らねーよ。けど、非通知で電話かけてくるにしてはちょっと非常識な時間だろ」

 筒井筒は賑やかな音を流し続けるテレビの横に置かれた、デジタルクロックを見やって言う。

「じゃあ、しばらくソファに置いておこう」

 異世界先輩はそう言って、震え続けるスマートフォンをクッションのきいたソファの上に置いた。

 途端に、バイブレーションは止まる。

 すると宇津季が「あ」と言った。

 ニカが宇津季のいるほうを振り返ると、宇津季も斜め後ろを振り返っていた。

 宇津季の視線の先にはインターフォンがある。

 そのモニターのバックライトが点灯していた。

 つまり、インターフォンへと繋がる外のボタンが押されたか、室内から外の様子を窺うためのボタンを押されたということである。

 しかし、室内にいる四人はインターフォンには近づいていないし、外からボタンが押された場合は音がするはずであったが、そんな音はまったく聞こえなかった。

「……インターフォンの音なんかしなかったよな?」

 四人とも、その答えは口に出して確認するまでもなくわかっているからか、黙り込む。

 そしていの一番に異世界先輩がインターフォンに近づく。

「なにも映っていないから、故障かもね」

 異世界先輩にしては現実的な理由を口にしたかと思えば、

「海神かその使いが訪ねてきているのかもね」

 などといつもの調子で言い出した。

「あとさ、ずっと黙ってたけれどさっきからお囃子の音が聞こえるんだよね」
「はあ?」
「お囃子ってわかる? 太鼓とか笛とかのにぎやかな音がさ……」
「祭りのときとかに聞こえる感じのやつだろ?」
「そうそう。それで――

 ……ちょっと外に出てみない?」

 ニカはぎょっとして異世界先輩を見た。

 インターフォンのモニターのバックライトは点灯したままだったが、異世界先輩の言うとおり、その小さな長方形の画面の中には、だれも映っていない。

 ……しかし本当に、だれも、なにも、映っていないのだろうか?

 もしかしたら、異世界先輩の目には三人には見えないなにかが見えているのかもしれない――。

「外には出るなって言ったよな?」
「うん」
「お前、『わかってる』って言っただろ。じゃあ出るな。以上」
「でもそれを決めるのは私だよね」
「はあ? ……お前、どうした? なんかおかしいぞ」
「私は正常だよ。まったくもってね」
「いや、明らかにおかしいだろ。お前、いつもはそういう底意地悪そうな言い方するやつじゃないだろ」
「そうかな」

 異世界先輩と筒井筒の押し問答に、ニカはなにも口を挟めなかった。

 思わず息を呑んで見守ることしかできない。

 ニカは異世界先輩の顔を見る。

 異世界先輩の右こめかみのあたりには、青紫色のまだらなアザのようなもの……「しるし」が、変わらずあった。

 異世界先輩は黒い瞳を細めて、まるでなにかを嘲っているかのような――あるいはあきらめているかのような、薄ら笑いを浮かべていた。

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