豊穣の君と聟(むこ)のマウヤ

やなぎ怜

文字の大きさ
7 / 11

(7)

しおりを挟む
 閨に呼ばれることの意味がわからないほど、マウヤは初心うぶではなかった。娯楽に乏しい田舎の村ほど、そういうことはあけすけなのだ。

 けれども故郷で「のろま」と蔑まれていたマウヤは、当年一五にして清い体のままであった。

 夕餉ゆうげのあと、とっぷりと日の暮れた紺藍の空の下で身を清め終えたマウヤは、主寝室へとつながる戸を控えめに叩いた。

 すぐに返事は返って来て、マウヤはややあってから気を引き締めて部屋に入る。

 クナッハは、蚊帳を吊った広い寝台ですでに体を横たえていた。頬杖をついた姿勢で、どこかとろりとおぼつかない瞳をマウヤに向ける。

 クナッハの夜空色の瞳は、月明かりしかない部屋の中で、より黒く色づいていた。底なしの暗闇のような瞳は、しかしマウヤにとっては想像の中の、母の胎内の暗さにも似て、どこか恐怖より安堵感を呼び起こす。

 輝かしい稲穂のごとき金色こんじきの髪も、今はいっとき光を収め、その長い毛先を寝台の上で艶やかに横たえさせている。

 クナッハはいつもと同じ、堂々たる様子であった。けれども夜闇の中ではどこか儚げにも映って、その普段は垣間見ることの出来ない一面を不意に覗いてしまったような焦りが、マウヤの背骨を駆けて行った。

「なにをしている」

 クナッハの言葉でマウヤは我に返る。「みとれていました」などと言っている暇もなく、マウヤは心臓を緊張に高鳴らせながら、蚊帳の入口を開けた。

 クナッハの着物のように手触りの良い布が掛けられた寝台へ横たわるまでに、マウヤの心臓は破裂してしまいそうだった。が、無論そのようなことが起こるはずもなく。

 マウヤはクナッハがわざわざ空けたその右隣へと、赤子が「はいはい」でもするような姿勢で乗る。乗って……そのままの姿勢で固まったまま、思わずクナッハのほうを見た。

「どうした」
「あの……ここからどうすれば」
「はあ? ……はあ。そのまま横になれ」

 マウヤの突拍子もない問いにも多少慣れて来たのか、クナッハは素っ頓狂な声を上げつつも、冷静にこの愚鈍な侍者へ的確な指示を飛ばす。マウヤはその通りにゆっくりと突っ張っていた手を崩し、寝台から膝を離し、それはそれは時間をかけて体を横たえる。

 そうしたあと、マウヤはやっと前を見ることが出来た。眼前には、同じように頬杖をやめて枕に頭を横たえさせたクナッハが、あの夜色の瞳でマウヤを見ていた。

 やはりその瞳は、部屋に入ったときと同じ印象を受ける。いつもの鋭い光を失って、さながら月光のような弱々しくも、どこか人を惑わせる光を放っているのだ。マウヤがそう思うからには、つまり彼は今のクナッハの蟲惑的な雰囲気に呑まれている、ということであった。

 クナッハが「閨に呼んでやる」と言ってから夜を迎えるまでのあいだに、マウヤは兄貴分のハスフと行き会っていた。もちろんそうなると相談せざるを得ないのがマウヤという人間である。

「閨に呼ばれたならいいじゃねえか。少なくとも嫌われてはいねえわけだし。ただ……」

 結局その言葉の先をハスフは口にしなかった。なぜ言わなかったのか、マウヤにわかるはずもなく、大いなる不安を抱えて、今彼はクナッハの寝台の上にいる。

 さすがに房術を伝授してくれとまではあけすけに言えなかったし、ハスフもあえて教えようとはしなかった。

「最初はだれだって初めてなんだ。まあ、気にするこたあねえよ。とりあえず好きなようにやらせてやればいいのさ」

 とは言われたものの、本当にそうなのだろうかと珍しく疑り深くなっていたマウヤである。けれどもどうにもこうにも出来ないのも、また事実であった。

「ふ」

 隣から吐息が漏れ出るような笑いが聞こえた。もちろんその主はクナッハ以外にいない。

 クナッハは口元をゆるめてマウヤを見ていた。

「そう緊張するな。取って食うというわけではないのだ」
「は、はい……」
「閨に呼んだからといって無体をするつもりはない。今日は夜伽よとぎに呼んだのだ。無論、のほうではないぞ? まあ一晩中起きていろとも言うつもりはないが」

 マウヤはその動きの鈍い頭で、ゆっくりとクナッハの言葉を咀嚼そしゃくする。

 そうしてから、全身から力が抜ける思いに駆られた。

 それからとてつもなく恥ずかしくなって、今すぐ外へと駆け出したくなった。

「閨に呼ぶ」と言われたからには「男女そっち」の意味だとマウヤはハナから決めつけてかかっていたのである。けれども蓋を開けてみればまるで違ったわけで、これは彼にとってはとても恥ずかしいことであった。

 幸いなのは「男女そっち」の意味に勘違いしていたような言葉を、クナッハにはかけなかったことくらいである。

 だが夜闇の中でもマウヤが羞恥に頬を赤らめたのは、クナッハに伝わったらしい。しかしこの主はいたいけな侍者をからかうことはせず、また吐息のような笑みをこぼすだけであった。

「ところでお前」
「は、はい?!」
「お前が以前よく摘んで来ていた花を覚えているか? 花弁が五枚の白い花だ」
「花……はい」

 それはマウヤが都のはずれの花畑の中で、一等きれいだと感じた花であった。

「好いた女が出来ても軽率にあの花は送るなよ」
「え?」
「あれはな、『嫁取りの花』と呼ばれているのだ」
「そ、そうだったんですか」
「ああ。その昔、北の神が人間の娘を嫁に取る代わりにあの花を置いて行った。それからだいぶ時が経って、いつしか人間たちは嫁にしたい娘にあの花を贈るようになったのだ」

 そんないわれなど知らなかったマウヤは、感心すると同時に己の無知を恥じた。

「す、すいません……」
「ん? なぜ謝る」
「いえ、あまりにも場に合わない物を……と」

 クナッハはまた「ふふ」と柔らかく笑った。今日の主はひどく機嫌が良いようだ。

「よい。どうせ私にはあれを贈ってくれるような輩はいないのでな」

 そんなクナッハの言葉に、マウヤはどう返せばいいのかわからなかった。しかしそんなマウヤの困惑すら、今宵のクナッハにとっては楽しむべき反応のひとつであるようだ。マウヤはを見る夜色の瞳は、楽しげな色を帯びていた。

「ところでお前、お前は私を男か女か、どちらだと思っている?」
「え?」

 マウヤは予想だにしなかったクナッハの問いに、大いに戸惑った。

 たしかにクナッハは男とも女とも取れるような声と、姿をしている。

 男にしては高い声、男にしては恰好の良いというよりも繊細な美しさを備えた容貌。

 女にしては低い声、女にしては背が高くすらりとした肢体は、しかし女性にょしょうとしてはいささか肉づきが悪い。

 マウヤは閨に呼ばれた時点で、クナッハは女だと思っていた。

 では以前はどうだったのかと言うと、意識していなかった。クナッハが男であれ女であれ、仕えるべき主には変わりがなく、またいずれの性かわからずとも、なにも問題はなかったのである。

「ええと」
「まあどちらと思おうと、普段の生活では変わりがないか」
「はい……」
「正解は『両方』だ」
「りょ、両方……?」

 マウヤの戸惑いは先ほどより大きくなって、彼の心臓を騒がせた。

 ――「両方」? 両方とはどういう意味なのだろう?

 クナッハの言葉が意味するものを理解出来るだけの知識は、マウヤの中にはなかったのである。

 それを察したらしいクナッハは、マウヤを見つめていた目を天井に向けて、静かに語り出した。

「私の体は両性具有というやつなのだ。つまり男であり、女でもある。あけすけな言い方をすれば、女を孕ませられるし、逆に私が子を孕むことも出来る。そういう体のことを『両性具有』と言う」
「ではクナッハ様は男神であり女神でもあるということなのですか?」
「ああ、そうだ」

 マウヤは通常とは違う身体構造をクナッハが持っていることに疑問を呈さなかった。なにせクナッハは「神様」なのだ。人間とは違う。だからそういうものなのだろうと、素直に納得することが出来た。

 しかしまたクナッハはそんなマウヤの納得にもヒビを入れて来る。

「私は今は神などと言われてはいるが、元は人間だった」
「え?! 人間だったんですか?!」
「ああ。……これでも王子と呼ばれるような身分であったこともある」
「王子……ということは元は男だったのですか?」
「いいや」

 クナッハの顔は微笑んではいたが、その横顔はどこか寂しげであった。

「私は生まれたときから男であり、女であった。そして男とも言えず、女とも言えなかった」
「ということは、クナッハ様のお父様とお母様は、クナッハ様を男として育てられたのですか?」
「まあ、その辺りのことは少々複雑でな。……なんだ、この際お前には全部話してやろう。すたれ神の長話に付き合いたいと言うのならな」

 クナッハは自嘲的にそう言ったが、マウヤは間髪を入れず是と答えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました

腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。 しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。

【完結】私は聖女の代用品だったらしい

雨雲レーダー
恋愛
異世界に聖女として召喚された紗月。 元の世界に帰る方法を探してくれるというリュミナス王国の王であるアレクの言葉を信じて、聖女として頑張ろうと決意するが、ある日大学の後輩でもあった天音が真の聖女として召喚されてから全てが変わりはじめ、ついには身に覚えのない罪で荒野に置き去りにされてしまう。 絶望の中で手を差し伸べたのは、隣国グランツ帝国の冷酷な皇帝マティアスだった。 「俺のものになれ」 突然の言葉に唖然とするものの、行く場所も帰る場所もない紗月はしぶしぶ着いて行くことに。 だけど帝国での生活は意外と楽しくて、マティアスもそんなにイヤなやつじゃないのかも? 捨てられた聖女と孤高の皇帝が絆を深めていく一方で、リュミナス王国では次々と異変がおこっていた。 ・完結まで予約投稿済みです。 ・1日3回更新(7時・12時・18時)

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

処理中です...