八月は僕のつがい

やなぎ怜

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 僕のスマートフォンの録画データもあって、不良生徒はどうも退学の危機に瀕しているらしい。

 まあそんなことは僕にはどうでもいいことだった。

 八月との関係を一方的にこじらせたまま夏休みに突入したものの、すぐに夏期講習が始まってしまったのだ。

 もちろん、欠席するなんてことはできない。

 自分でもわかっているくらい生真面目にそう考えて、僕は重い足取りで学校へ向かったのだった。

 足の運びは緩慢で、気のせいか下腹部の調子がよくない。

 思えばそれは前兆だった。

 でもそのときの僕はその不調は多分に精神的な問題なのだと思い込んでいた。


 夏期講習の合間の休憩時間に僕は男子トイレの個室の住民となっていた。

 便意があるわけではないのだが、下腹部の調子が悪いのは確かだった。

 気のせいか、熱もあるような気がする。そう思って額に手を当ててみるけれど、よくわからなかった。

 そして便器に座り込んだまま、僕は徐々に体が動けなくなって行くのを感じた。

 まったく動かせない、というわけではないのだが、次の授業をサボりたいと思ってしまう程度には、気だるい。

 ああ、こういうときに親しい友人がいれば、助けを呼べたのに――。

 額にじっとりとした汗が浮かんでいるのを感じつつ、僕はそんなことを考える。

 人付き合いのヘタな僕には、八月以外の友人らしい友人はいない。

 ポケットに入れて持ち込んだスマートフォンをぎゅっと握りしめてみたけれど、もちろんそんなことをしても事態は打開できない。

 しかしいよいよ動けなくなったら、僕は八月を呼ぶしかないのだ。

 ……こんなことなら、関係をこじれさせるようなマネをするんじゃなかった。

 とてつもない体調の悪さを前にしては、恋のアレコレは吹っ飛ぶものなのだと僕は知った。

 そして僕は腹を括った。

 まず「今まで無視していてごめん」と、汗ばんだ指でしおらしい文章を打つ。

 そして続いて「今、教室横のトイレにいるんだけど、体調が悪いから保健室に連れて行って欲しい」と打った。

 テキストエリアに並ぶ文字を見下ろしながら、僕は猛烈な体調の悪さを感じ始めていた。

 あとはこれを送信するだけだ。

 けれどもここにきてまで、僕の心に躊躇が浮かぶ。

 はっきり言って、八月からすれば意味不明な言動を取って、今まで連絡を断ってきたのだ。

 そんなときに助けを求める――それって、すごく厚かましくないか?

 視界が涙でゆがむが、それは悲しさから出てきたものではなかった。

 体が熱いのだ。タチの悪い夏風邪でももらってしまったのだろうか。

 僕はそんなことを考えつつ、いよいよ立ち上がれなくなっている自分に気づき、もう一度腹を括って送信ボタンをタップしようと――した。

「雪宗」

 どこか怒気を含んだその声に、僕はびくりと肩を跳ねさせた。

 扉越しのくぐもった短い言葉でもわかるその声の主は、間違いなく八月だ。

 望んだ人間がやってきたことにどこか安堵をおぼえる一方、なぜ彼がここにいるのかわからずに、僕は混乱した。

「八月」

 大好きな八月の名を呼んだが、その声は奇妙にかすれていた。

 まるで八月に対して媚びるような甘えるような声が出たことに、僕はまたおどろく。

 すると扉を軽く二度ノックされる。

「雪宗、開けてくれ」

 いつものぶっきらぼうな八月の物言いが、今はなんだか恐ろしげに響く。

 それは彼に対して無礼な振る舞いをしていたという自覚が、僕の中にあるからだろう。

 それでもなぜかそのときは、八月に逆らうという選択肢すら浮かばず、僕は下ろしていたトランクスとスラックスをどうにか上げたあと、素直に鍵を開けた。

 古びた蝶番が不快な音を立てる。扉の隙間から現れた八月は、仏頂面をしていた。

「大丈夫……じゃなさそうだな。薬は?」
「……ない」

 薬? もちろん風邪薬なんてものは持っていないので、僕は「ない」と答えるしかなかった。

 そんな僕の短い返答を聞いて、八月は柳眉をひそめる。彼は僕が体調の悪いまま学校にきたと思っているんだろうか。それは違う――と反論したかったが、そんな長い文章をしゃべる気力は、僕にはなかった。

「仕方ない。とりあえず保健室まで行こう」
「ごめん……」
「多分、家に帰ることになると思うから。あとで鞄は届ける」
「うん……」

 てきぱきと段取りを決めた八月は、便器に座り込んだ僕の前で屈み込んで背を見せた。背中に乗れ、ということだろうか。

 僕は気力を振り絞って便器から立ち上がると、八月の背中に倒れ込むようにしてもたれかかった。

「……ごめん」
「謝らなくていい」
「でも……ごめん」

 その言葉は、色々な意味を込めての「ごめん」だった。

 突き放すような態度を取ったのに、僕の危機に駆けつけてくれた――僕からすればそうなのだ――ことに対する、申し訳なさで、僕の心はぐちゃぐちゃになる。

 同時に、背中から伝わってくる八月の体温や、心臓の音を聞いていると、ホッと安堵できた。

 先ほどまで、世界が壊れてしまうような気さえするほどに体調が悪かったのに、八月に会った途端、これだ。

 思わず目が潤んでしまう。今度は熱による涙じゃない。でも、体温の上昇のせいか、涙もろくなっている気はしている。

 八月は僕にたびたび声をかけながら、苦もなく保健室までたどり着く。

 出迎えた養護教諭ははじめのちょっとのあいだだけ、びっくりしたような顔をしたが、すぐに八月がなにかしら説明をしたので納得がいったような顔へと変わった。

 僕はと言えば、ここまで背負われてきたのに頭に血が回っていないような感じで、八月と養護教諭の先生の会話は右耳から入って左耳から抜け出て行くような感じだった。

 八月は僕をベッドの上におろすと、寝かしつけるような態勢にさせてシーツをかぶせてくれた。

 不思議と八月がそばにいると思うと、この猛烈な体調の悪さに対する不安はやわらいだ。

「保護者の方に連絡するけれど、いい?」
「……はい」
「わかった。それじゃあ電話したら車を回してくるから、ちょっと待っててね。保健室から出ちゃダメよ?」

 先生はそう言ったが、こんな状態では保健室はおろか、ベッドから出ることもままならないだろう。

 そう思いつつ、僕は素直に「はい」と頷いておいた。

 先生は慌ただしく保健室を出て行くと、あとには僕と八月だけが残された。

「あ、鞄……」
「あとで届けるって言っただろ」
「じゃあ今からちょっと取りに……」
「無理」
「いや、八月がさ。……あ、でも授業中か」
「いや、俺が出て行ったら危ないだろ」

 真剣な顔をした八月は、いつの間にやら僕のベッドのそばにパイプイスを置いて座り込んでいる。

 僕はと言えば、先ほどから八月と微妙に会話が噛みあっていないような、ムズムズとした感覚に襲われていた。

「危ないって……」
「この前ヒナタが襲われたばかりなんだ。危ないだろう」
「あれは宇野くんだからじゃ……。それに犯人は停学になって謹慎してるらしいじゃん」

 僕はオメガではないし、そもそも宇野ヒナタのように愛らしい容姿でもなければ、他者を惹きつけるような性格でもない。

 加えて不届き者の不良どもは、現在は停学処分を食らって自宅謹慎をしているハズだった。

 八月は彼らが僕に復讐しに学校までくるとでも思っているのだろうか?

 僕はそう思って八月の用心の深さを軽くしてあげようと笑ったが、相変わらず彼の顔は厳しいままだった。

「雪宗は不用心だ」
「そう?」
「もう少し、その……俺の『つがい』としての自覚を持って欲しい」
「え?」
「さっきだってトイレからフェロモン臭がして驚いた。抑制剤を持ってないなんて不用心すぎるぞ」
「いや……」
「ヒナタのときだってそうだ。ヘタをすればお前も酷いことになっていたかもしれない」
「ちょっと」
「今日のことは初めての発情期で油断したのかもしれないが、抑制剤くらいはきちんと持ち歩け」
「――いや、なんの話してるんだよ?!」

 僕のか細い声を無視して話を続ける八月にしびれを切らし、腹に力を入れて声を出す。

 しかし僕のそんな精一杯の、困惑の言葉を受けても、八月は仏頂面を維持したままだった。

「なにって……雪宗の話だが?」
「いや、それはわかってるよ。わかってるけど、僕は八月の『つがい』じゃないし、オメガでもない」
「? なにを言ってるんだ?」
「いや、そっちこそなに言ってるの?」
「……わかった。待て。はじめから話を整理しよう」

 そうしてこのあと、僕たちは長いこと大いなる勘違いをしていたことが判明するのだった――。
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