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「手ごたえがない……」

 夜、領主館内にある客室でニニリナは嘆きのため息を吐き出した。

 温泉を湧かせるという案は、思いつきではあったもののいいものだとニニリナは自負していたが、アルトリウスを惚れさせることができたかと問われると、難しいところであった。

 アルトリウスはいつもニニリナに話しかけるのと同じ柔和な声で、「温泉に浸かりたかったのかい? また今度、整備されてから来よう」と言ってくれた。約束を取りつけられたことは素直にうれしかったが、ニニリナが望んでいた反応とは違ったわけで。

「はあ……」

 ニニリナは女神の子であったが、その人智を超えた力を無限に振るうことはかなわない。

 今日は温泉を湧き出させることにその超常の力をほとんど使ったことで、ニニリナは今疲労を感じていた。

 アルトリウスとは宮殿内でもそうなのだから、領主館でも寝所は別で、夜の闇にニニリナひとりのため息まじりの声が溶けるようだった。

 ニニリナはすでに妖精と会話する気力も湧かず、シーツにくるまってふて寝しようと思った。

 けれどもその前にアルトリウスの顔を見ておきたい。近ごろのアルトリウスは無理をしているように感じられる。もしまだ起きているようであれば、隈がひどくなる前に早く寝るよう言うつもりだった。

 ニニリナはごろごろと寝そべっていたベッドからおもむろに起き上がると、寝巻きの上にもこもこの起毛のガウンを羽織って、両開きの扉の片側をそっと開けた。

 ニニリナはひんやりと冷たく、静まり返った廊下に出て――すぐ、違和感に気づいた。

 ひとの気配がなさすぎる。

 いや――ひとはいる。

 いるが、それらは軒並み床に倒れ伏して、ぴくりとも動かない。

 ニニリナはあわてて、己の護衛にあてられていた近衛騎士のひとりに近づき、倒れ伏している体を反転させて呼吸を確認する。

 幸いにも息はあり、暗がりではあったもののぱっと見たところ外傷もない。

 ニニリナはほっと安堵したが、すぐに気を引き締めてかかる。

 すっくと立ち上がって、ガウンの上から裾の長い寝巻きをつかみ上げて、大急ぎで駆け出した。

 向かうはアルトリウスに与えられた客室。

 ニニリナはそこまで全力疾走して、ノックをすることを忘れて両開きの扉を勢いよくひらいた。

「アルトリウス!」

 ニニリナがアルトリウスのいる客室まで駆けた途上でも、近衛騎士たちは軒並み倒れ伏していた。

 ニニリナは彼らを踏んだり、ひっかけたりしないように軽やかな足取りでアルトリウスのもとまで駆けて行った。

 果たして、アルトリウスは絶体絶命であった。

 アルトリウスの眼前には、夜の闇に溶けそうな黒衣の人間がいて、そしてアルトリウスと黒衣の人間のあいだには、刃が交えられた二本の剣があった。

 しかしニニリナが一歩前へ出ると同時に、交えられた刃が離れる。

 黒衣の闖入者があえて一歩下がったために、アルトリウスの体勢がわずかに崩れた。

 それを見逃さなかったのは、闖入者だけではない。

「アルトリウス! 目を閉じて!」

 ニニリナは素早くアルトリウスと闖入者のあいだに割って入り――そして、全身を発光させた。

 太陽を直視するよりも、さらにまばゆい神の光が、一瞬にして闖入者の視界を焼く。

 かすかなうめき声が闖入者から上がったが、なお任務を遂行せんと目つぶしを食らいながらも闖入者は短剣を振るう。

 しかしその刃がアルトリウスやニニリナを捉えることはなかった。

 ニニリナの光が収まるのを見計らってまぶたを開けたアルトリウスの剣が、闖入者の刃とぶつかり、その衝撃で短剣は宙を飛んで天井に突き刺さった。

 金属同士がぶつかるにぶい音が響き渡って――勝負は決した。

 闖入者は己の敗北を、任務の失敗を悟ったのか、やおら懐からガラス瓶を取り出した。

 それは自害のために与えられた毒薬だろうことは、すぐに察しがつく。

 しかし――

「やめなさい。それを飲んでもあなたは苦しむだけで死にはしないわ」

 ニニリナの、いつになく鋭い、凛とした声が闖入者を制止させる。

「……女神の子の加護を与えられた、あなたならね」

 ニニリナは、今度は悲しそうな顔をして、そう言った。
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