4 / 7
(4)
しおりを挟む
***
エイトは驚愕した。目を覚ましたら実に三ヶ月もの月日が経過していたのだ。
自らの失態を悟る時間をわずかに挟み、小うるさい上司から査定に響くとおかんむりのお小言をいただく。しかしエイトの頭にそれらが入ったかどうかは怪しい。ほとんどは、右耳から入り左耳へと抜けて行った。
上司から個人用のスマートフォンを返却してもらったのは、それから事故の再発防止云々という名目の聞き取り調査が終わってからだった。エイトは始末書に手をつける前に、返却されたスマートフォンでまずチャットアプリを開いた。
しかしそこにはエイトの頭いっぱいを支配していた――ジジからのテキストメッセージはない。不在のあいだに着信があったというメッセージもない。
会社から連絡が入ったので、ジジはわざわざエイトのスマートフォンにメッセージを送信したり、電話をかけたりしなかったのかもしれない……。エイトはしばらくしてからそのことに気づいたが、胸にかかった不安の雲は消えなかった。
エイトはすぐにジジのスマートフォンに電話をかけた。
しかし、通話することはかなわなかった。
延々と続く電子音ののち、留守番電話サービスへの案内が流れるばかりで、いつまで経ってもジジは電話口には出てくれなかった。テキストメッセージを送信しても、既読マークすらつかない。
エイトの脳裏に、嫌な想像ばかりがよぎる。
ジジの身になにかあったのではないかと考え、いてもたってもいられなかったが、気持ちは急いても体は急かせない状態だ。なにせ三ヶ月ものあいだ、エイトは寝たきりだったのである。
そもそも、仮に体が動かせたとしても医者がすぐに外出を許可するとは思えない。これからひと通りの検査をして、リハビリテーションを始めなければならない。エイトの現状は、そんな感じだった。
エイトは会社の後輩に連絡を取って、自宅マンションの部屋を見に行ってもらうことにした。もしかしたら、中でジジが倒れているかもしれないし、具合悪く臥せっているかもしれないと考え、鍵を渡し、エントランスのロックを開けるための番号を教えた。
「いませんでしたよ」
後輩はジジの存在は知っていたが、面識はない。そういった事情がなくとも、どこか常にドライな態度のこの後輩は、しれっとした顔でエイトにそう報告した。エイトが不安で不安で仕方がなくて、胃がねじきれそうなほどにジジのことを心配していることを察してもなお、だ。後輩はそういう人間だった。
「――留守だったってことか?」
「そうなんじゃないですか? 部屋の中も綺麗でしたし」
エイトが知る限りでは、ジジが自らの意思で外出するのは食材を買い出しに行くときくらいであった。それ以外の、日用品はエイトと一緒に買いに行く。口で言って決めたわけではなく、自然とそうなっていた。
留守にしていたということは、きっとジジは元気に動き回れる状態なのだろう。部屋が綺麗だったということは、今日までジジが掃除をしているということだろう。エイトはひとまず安堵する。
「あ、でも書き置きがありましたよ」
「……なんだって?」
「書き置きです。あと指輪」
後輩は微笑を保ったままスマートフォンの画面を操作して、エイトの家で撮影してきたらしい写真を見せる。メモ用紙の書き置きと、その上にはエイトがジジに贈ったとおぼしきシルバーの指輪がぽつんと文鎮のように置かれていた。
『エイトへ
しばらく家からばいばいします。
わたしはだいじょうぶなので、さがさないでください。
ジジより』
後輩から見せられた写真に書かれた文言に、エイトは一瞬、思考を停止させた。そして次に体が、気まぐれな猫に蹂躙されたジグソーパズルのごとくばらばらと崩壊していくような感覚に陥った。
「愛想つかされたんですか?」
この後輩には一切悪意はなかったが、思いやりもなかった。ただ、現状得られる情報からもっともあり得そうな結論を提示したに過ぎないのだが、エイトには酷な話だった。
エイトは思わず口元に手をやり、顔を青白くさせて「は?」とか「え?」とかいう、吐息のようなセリフを口にすることしかできない。
後輩はそんなエイトへ、かわいそうなものを見る目を向ける。
「逃げられたんですか?」
「ジジは……そんなことは……」
「そんなことはしない」――そう言い切れたらよかったのだが、エイトにはそう言い切ることができない様々な事情があった。
エイトは、ジジの無知につけ込んで一般的には婚約指輪と呼ばれるような指輪を贈ったのだ。左手の薬指につけるように「アドバイス」したのも、もちろんエイトだ。「変な輩が寄ってこなくなるよ」――なんて笑顔で言って。
「事情」と言うか、エイトのそれは「悪行」であった。当然、エイトはジジとは違い、社会常識が備わっているから、己のそれが「悪行」であるという自覚はあった。
いかにも善人といった顔を貼りつけて、無知なジジを騙しているという自覚は、常にエイトの中にあった。
もし――ジジが、自分がエイトに騙されていることを、なにかの拍子に知ってしまったとしたら。
青白い顔をして黙り込み、地蔵のようになってしまったエイトから興味を失った後輩は、「じゃあ、リハビリ頑張ってくださいね」と形だけの言葉を言い置いて病室から去って行った。
エイトは驚愕した。目を覚ましたら実に三ヶ月もの月日が経過していたのだ。
自らの失態を悟る時間をわずかに挟み、小うるさい上司から査定に響くとおかんむりのお小言をいただく。しかしエイトの頭にそれらが入ったかどうかは怪しい。ほとんどは、右耳から入り左耳へと抜けて行った。
上司から個人用のスマートフォンを返却してもらったのは、それから事故の再発防止云々という名目の聞き取り調査が終わってからだった。エイトは始末書に手をつける前に、返却されたスマートフォンでまずチャットアプリを開いた。
しかしそこにはエイトの頭いっぱいを支配していた――ジジからのテキストメッセージはない。不在のあいだに着信があったというメッセージもない。
会社から連絡が入ったので、ジジはわざわざエイトのスマートフォンにメッセージを送信したり、電話をかけたりしなかったのかもしれない……。エイトはしばらくしてからそのことに気づいたが、胸にかかった不安の雲は消えなかった。
エイトはすぐにジジのスマートフォンに電話をかけた。
しかし、通話することはかなわなかった。
延々と続く電子音ののち、留守番電話サービスへの案内が流れるばかりで、いつまで経ってもジジは電話口には出てくれなかった。テキストメッセージを送信しても、既読マークすらつかない。
エイトの脳裏に、嫌な想像ばかりがよぎる。
ジジの身になにかあったのではないかと考え、いてもたってもいられなかったが、気持ちは急いても体は急かせない状態だ。なにせ三ヶ月ものあいだ、エイトは寝たきりだったのである。
そもそも、仮に体が動かせたとしても医者がすぐに外出を許可するとは思えない。これからひと通りの検査をして、リハビリテーションを始めなければならない。エイトの現状は、そんな感じだった。
エイトは会社の後輩に連絡を取って、自宅マンションの部屋を見に行ってもらうことにした。もしかしたら、中でジジが倒れているかもしれないし、具合悪く臥せっているかもしれないと考え、鍵を渡し、エントランスのロックを開けるための番号を教えた。
「いませんでしたよ」
後輩はジジの存在は知っていたが、面識はない。そういった事情がなくとも、どこか常にドライな態度のこの後輩は、しれっとした顔でエイトにそう報告した。エイトが不安で不安で仕方がなくて、胃がねじきれそうなほどにジジのことを心配していることを察してもなお、だ。後輩はそういう人間だった。
「――留守だったってことか?」
「そうなんじゃないですか? 部屋の中も綺麗でしたし」
エイトが知る限りでは、ジジが自らの意思で外出するのは食材を買い出しに行くときくらいであった。それ以外の、日用品はエイトと一緒に買いに行く。口で言って決めたわけではなく、自然とそうなっていた。
留守にしていたということは、きっとジジは元気に動き回れる状態なのだろう。部屋が綺麗だったということは、今日までジジが掃除をしているということだろう。エイトはひとまず安堵する。
「あ、でも書き置きがありましたよ」
「……なんだって?」
「書き置きです。あと指輪」
後輩は微笑を保ったままスマートフォンの画面を操作して、エイトの家で撮影してきたらしい写真を見せる。メモ用紙の書き置きと、その上にはエイトがジジに贈ったとおぼしきシルバーの指輪がぽつんと文鎮のように置かれていた。
『エイトへ
しばらく家からばいばいします。
わたしはだいじょうぶなので、さがさないでください。
ジジより』
後輩から見せられた写真に書かれた文言に、エイトは一瞬、思考を停止させた。そして次に体が、気まぐれな猫に蹂躙されたジグソーパズルのごとくばらばらと崩壊していくような感覚に陥った。
「愛想つかされたんですか?」
この後輩には一切悪意はなかったが、思いやりもなかった。ただ、現状得られる情報からもっともあり得そうな結論を提示したに過ぎないのだが、エイトには酷な話だった。
エイトは思わず口元に手をやり、顔を青白くさせて「は?」とか「え?」とかいう、吐息のようなセリフを口にすることしかできない。
後輩はそんなエイトへ、かわいそうなものを見る目を向ける。
「逃げられたんですか?」
「ジジは……そんなことは……」
「そんなことはしない」――そう言い切れたらよかったのだが、エイトにはそう言い切ることができない様々な事情があった。
エイトは、ジジの無知につけ込んで一般的には婚約指輪と呼ばれるような指輪を贈ったのだ。左手の薬指につけるように「アドバイス」したのも、もちろんエイトだ。「変な輩が寄ってこなくなるよ」――なんて笑顔で言って。
「事情」と言うか、エイトのそれは「悪行」であった。当然、エイトはジジとは違い、社会常識が備わっているから、己のそれが「悪行」であるという自覚はあった。
いかにも善人といった顔を貼りつけて、無知なジジを騙しているという自覚は、常にエイトの中にあった。
もし――ジジが、自分がエイトに騙されていることを、なにかの拍子に知ってしまったとしたら。
青白い顔をして黙り込み、地蔵のようになってしまったエイトから興味を失った後輩は、「じゃあ、リハビリ頑張ってくださいね」と形だけの言葉を言い置いて病室から去って行った。
0
あなたにおすすめの小説
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
うっかり結婚を承諾したら……。
翠月 瑠々奈
恋愛
「結婚しようよ」
なんて軽い言葉で誘われて、承諾することに。
相手は女避けにちょうどいいみたいだし、私は煩わしいことからの解放される。
白い結婚になるなら、思う存分魔導の勉強ができると喜んだものの……。
実際は思った感じではなくて──?
醜女の私と政略結婚した旦那様の様子がおかしい
サトウミ
恋愛
この国一番の醜女である私と結婚したイバン様。眉目秀麗で数多の女性と浮き名を流した彼は、不祥事を起こしたせいで私なんかと結婚することになってしまった。それでも真面目な彼は、必死に私を愛そうと努力してくださる。
──無駄な努力だ。
こんな色白で目と胸の大きい女を、愛せるはずがない。
失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
◼︎超高速展開、サクッと読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる