月の乙女は陽の王と恋する運命(さだめ)

やなぎ怜

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 碧は大厨房ではなく王族の食堂へと向かっていた。火を扱う大厨房は王宮の敷地内においてもっとも遠い場所に置かれていることを、碧は承知していた。

 碧の足では大厨房に向かっているあいだに料理の仕込みは終わってしまうだろう。空は既に薄紅と紺のグラデーションを描き、気の早い星々が瞬き始めていた。

 なれば大厨房に向かい、毒の仕込みを阻止するよりも、それがジャハーンギルの口に入らぬようにしたほうが良いと碧は判断する。

 今ほどこの右脚を疎ましく思ったことはなかった。碧の気持ちは今すぐにでも食堂へ飛んで行きたいと思うほどに急いている。けれども曲がった右脚を引きずる碧の体は、全速力を出してもなかなか進まなかった。

 速く。

 速く。

 そう思いながら碧は右脚の痛みに唇を噛み締めながら、食堂へと急ぐ。

 食堂のある区画へとたどり着いた碧は、件の女官が料理を載せた台車と共に入室するのを認める。例の女官は給仕であったのだ。毒見役というようなものが置かれているかは碧にはわからない。けれど仮にあったとしても、給仕であれば毒を仕込むいずれかの機会にめぐり合わせることは、あり得るかも知れなかった。

 否、あるのだろう。そうでなければ、この計画は杜撰としか言いようがない。

 碧は食堂の大扉が閉まる前に体を滑り込ませることに成功した。だが右脚に、思わず顔をしかめてしまうほどの痛みが走り、碧はよろめいて白亜の床に倒れ伏してしまう。

 目の前では、ジャハーンギルへの給仕が始まろうとしていた。

 碧はジャハーンギルの顔を見る。碧より年上であるのはたしかだが、まだあどけなさの残る顔立ちの青年だ。その顔が笑むとき、まるで春の陽気に触れたような温かな気持ちになれることを、碧は知っている。

 ジャハーンギルに、死んで欲しくない。

 碧は強くそう思った。

 右脚は、今や立ち上がることが困難なほどに痛みを訴えていた。少し体を動かすたびに、激痛が碧を襲う。服の裾から見えた右脚は、かつて折られ、そしてそのまま癒着してしまった箇所は、暗い青紫色に変色していた。

 碧は両手を床にやって、ずるりずるりと、クッションを背に絨毯にあぐらをかくジャハーンギルへと近づく。ジャハーンギルの前に料理が並べられて行く。女官は、酒の入った小型の壷を手にしていた。

 碧は件の女官の一挙手一投足を見逃さなかった。彼女が酒壷のふちに親指を擦りつけるのも、見逃さなかった。

 ――痛い。

 碧はジャハーンギルへと近づいて行く。体を動かすたびに、体を痛みが突き抜ける。反射的にまぶたが閉じて、視界がさえぎられる。

 けれども碧は進むことをやめなかった。

 喪うのはもういやだった。

 自分の心に素直になれず、後悔するもこりごりだった。

 女官がジャハーンギルが手にした杯に酒を注ぐ。杯の中で、深い赤色をした液体が揺らめく。揺らめく。――大きく揺らめいて、液体は美しい模様を描く絨毯へと、止めようもなくこぼれ落ちる。

「――マハスティ?」

 ジャハーンギルの黒い瞳に、碧が映っていた。

 ジャハーンギルの手首を、碧の手がつかんでいた。

 こぼれ落ちた毒入りの酒が、絨毯へと赤い染みを作る。

 目を丸くしているジャハーンギルの姿がなんだかおかしくて、碧は思わず微笑わらっていた。


 その後の騒々しさは、思い出すのも億劫なほどである。

 ジャハーンギルの暗殺を阻止した瞬間、碧は以前のように他の人間にも感知できる存在となった。突如として現れた碧に、近衛兵やナームヴァルが警戒するのも無理はない。

 突然消えて、またいきなり現れて、国王の手首をつかんでいるのだから、他人からすれば害意のある行動と見なされてもおかしくはない。たとえ碧が「月の使い」と言われていようと、それらが王を害さぬ根拠はどこにもないのだから。

 けれどもジャハーンギルだけは至極冷静に碧を見ていた。そして碧のたどたどしく、そしてしゃがれた声での訴えにも耳を傾けてくれた。

 幸運だったのは女官が馬脚を露わしたことである。碧の言葉は聞き取れずとも、碧が燃やしたはずの密書持っていたとなれば、冷静さを失うのもいたしかたないことである。計画の失敗を悟った女官はその場から逃げ出そうとしたが、ナームヴァルによってすぐさま捕縛された。

 かくしてジャハーンギルの暗殺計画はすんでのところで阻止されたのである。

 こののち、調べにより王の暗殺計画の首謀者が割れる。ひとりは副宰相、もうひとりは碧が執拗に追跡していた将軍ビザン。両者は奴隷制度廃止以前は奴隷商人との癒着によって富を築いていた。それゆえ奴隷解放を行った現王を恨み、その暗殺を画策したのである。

 これに実行犯の女官もあわせて三人は処断されることになるが、しかし碧には及び知らぬ話であった。


 離宮に戻された碧はすぐさま典医によって腫れ上がった右脚の処置を受けた。いかにも薬くさい強烈な臭いを放つ軟膏を塗られ、包帯を当てられる。酷使すれば壊死もあり得ると脅されて、碧は以前寝ついたときのような上げ膳据え膳の生活に戻された。

「こんなにもひもじい思いをされて……おいたわしや」

 そう言って給仕をするファフリの前には、かつてない勢いで食事をする碧がいた。この数日飲まず食わずでいたわけではない。しかし水甕から水を飲み、中庭に生った実をむだけのあまりに質素な生活を送っていたおかげで、碧の空腹は限界まで来ていた。

 はしたないと思いつつ、震える体が極度に栄養を欲していることは明らかで、碧は食事をするというよりも、食物を胃に押し入れるというような行為を続けた。

 衣食住の保障された生活の素晴らしさを、改めて噛み締めた次第である。


 それからジャハーンギルが碧の離宮をおとなったのは、三日後の夜のことであった。

 暗殺の首謀者が副宰相に将軍とあって、諸々の処理や調整に追われているらしく、ジャハーンギルはどこかくたびれた顔で碧の前に現れた。

 寝台で上体だけを起こす碧のそばへジャハーンギルが歩み寄る。かつての日々が戻って来たような錯覚を、碧は感じた。

「座ってもいい?」

 絨毯を指差すジャハーンギルに、碧はうなずいてクッションを差し出す。

「ありがとう」

 そう言って微笑んだジャハーンギルであったが、やはりその笑顔にもどこか力がない。

 夜の静寂の中に、衣ずれの音が響く。油器にともされた火が、ゆらゆらと揺らめいてふたりの影を震わせる。

「――泣かせてごめん」

 ジャハーンギルの言葉に、碧は目を丸くする。よもや、そのような言葉をかけられるとは思ってもみなかったからだ。

 しばし呆然としていた碧だが、すぐに我に返ると何度も首を横に振った。

 泣いてしまったのは、碧の心が幼稚だったからだ。己が「月の使い」を騙っているにも関わらず、ダリュシュに――ジャハーンギルに騙されていたのだと思って傷ついて、こらえることもせずに泣いてしまった。それを恥じる碧からすると、あのときのことを掘り返されるのは大変居心地が悪い。

「……あれ、は、わたしが、悪いから」

 つっかえながらも声を出せば、ジャハーンギルはゆっくりと首を横に振る。

「いや、俺が悪いんだ。マハスティが『月の使い』なのかどうか、たしかめようと思って――本当に最初はそれだけだったんだけど、気がついたらマハスティといっしょにいるのが楽しくなって……」
「ダ……ジャハーン、ギルは、なにも、間違ってない。わたしは、『月の使い』じゃない、から、当たり前のことを、した、だけ」

 ジャハーンギルの反応が怖かった。ずっと、騙していた。心苦しくて仕方なかった。けれども言わなければいけないと、碧は思った。彼には嘘をつきたくないと、そう思ったから。

 けれどもジャハーンギルは要領が得ないといった顔をして碧を見る。

「……そう言えば、そんなことを言っていたね」
「そんな、こと?」
「『月の使い』じゃないとかどうとか――」
「わたしは、『月の使い』じゃない。……信じて、くれない、の?」

 碧は「月の使い」ではない。けれどもたしかに考えてみれば、そうだという証拠はなかった。逆に「月の使い」であるという証拠もないわけではあるが。

 否、この容貌かと碧は思う。単にメラニン色素が少ないだけで、「月の使い」として祀られる――。それはコーカソイドや突然変異的に生まれて来る色素の薄い人々のことを知る碧からすると、ちょっと寒気のする話であった。

「マハスティは、『月の使い』だと俺は思っている」

 ジャハーンギルの言葉に、碧は側頭部を強く殴られたような感覚に襲われる。

 けれどもジャハーンギルの次の言葉に、碧はまた目を丸くすることになる。

「俺にとっては、マハスティは『月の使い』だよ。俺の命を助けてくれた」
「それ、は……」
「……マハスティはどうして自分が『月の使い』ではないと考えているんだ?」

 優しい声音のジャハーンギルを前に、碧は言い淀みながらも、自らの身に起きた信じがたい出来事について語った。

「わたし、は、月から来たわけじゃ、ない、し、月の女神とかも、よくわからない。ごく普通の、こことは違う国から、来た、の。……どうやって来たのか、はわかんない、けど。だから、わたしは、『月の使い』じゃ、ない」
「どうやって来たのかわからない?」

 怪訝そうな顔をするジャハーンギルに碧は戸惑いがちにうなずいた。奇妙に思われても仕方のないことだろう。自身がいかようにしてこの地へやって来たのか、まったくもって説明できないとなれば。

 けれどもジャハーンギルはそれを信じがたいとも言わなかったし、与太話と笑い飛ばすこともなかった。ただ右の手のひらを額に当てて、いかにも参ったというような表情をしただけだ。

 碧はそんな彼を前にしておろおろとするしかない。

 ややあってからジャハーンギルは至極言いにくそうな調子で、そして申し訳なさそうにこう切り出した。

「――それは、俺のせいかもしれない」

 突然の言葉に、碧は首をかしげるしかなかった。

「俺が、女神の神殿で『月の使い』を欲したから……」
「ジャハーンギル、は、『月の使い』に、来て、欲しかったの?」
「……そうだね。『月の使い』は吉兆の証だから、王となればいずれも欲するものだろうと思うよ。――けれど俺は、ただ単に見合い話から逃れたくて、戯れに願っただけなんだ」

 ジャハーンギル曰く、宰相ティルダードの執拗な見合い話の勧めにいい加減うんざりしたある日、視察に訪れた月の女神の神殿で「月の使い」を使わせてくれと願った――とのことである。

 それは王として国の繁栄のため、民の安寧のために願ったことではない。単に過去に現れた「月の使い」たちは妃となることが多かったからだ。よく知らない娘とめあわせられるのならば、うんと知らない世界の存在と一緒になるほうがいいと、そう思っての行動だった。それはほとんどやけっぱちゆえの行いであったことは、明らかである。

「恨むなら俺を恨んで欲しい。……どうしようも、できないけれど」
「……そんなこと、しない」
「どうして?」
「ジャハーンギルには、たくさん良く、してもらったから」

 それは心からの言葉だった。

 たしかに碧が陽の国メフラーヤールへ迷い込んだ原因らしい原因は、それしかないようではある。けれどもそのことでジャハーンギルを恨むのはお門違いのようにも思えた。責めるべきは――存在するのならばの話だが――この場合は月の女神とやらだろう。

 それに「一宿一飯の恩」という言葉もある。それに照らし合わせるならば碧はジャハーンギルに返し切れないほどの恩がある。なれば感謝こそすれ、恨むことは筋違いに思えた。

「それって、俺は嫌われていないという解釈をしても良い、ということかな」

 ジャハーンギルの意図は上手くつかめなかったが、額面通りに受け取った碧は素直にうなずく。

「そっか……助けてくれたことも、自惚れてしまうよ?」
「いい、よ……」
「……じゃあ、傷つけたことは、許してくれる?」

 碧はすぐにうなずこうとした。許す許さないの話ではなく、最初から碧は怒ってなどいないのだから。

 けれどすぐに思い直して、そっと唇を開く。

「わたしの、ほんとうの、名前……呼んで、くれるなら、許してあげ……ます」
「本当の名前……? ああ、そうか。マハスティはモルテザーが与えた偽名だったね。すっかり失念していたよ」

 そう言ってからジャハーンギルは悪戯っぽく微笑む。

「俺は貴女の許しが欲しい――だから、どうか御名を教えてはくれませぬか?」

 妙にかしこまったジャハーンギルの言い方に、碧はくすくすと笑いをこぼす。

「碧――碧、って、呼んで」
「アオ、か」

 そうしてジャハーンギルは何度も口で碧の名を転がす。

 しばらくそうやっていたかと思うと、碧のいる寝台へ顔を近づける。

「俺の名も呼んでくれないか?」
「何度も、呼んでる、よ?」
「今、もう一度呼んで欲しいんだ」
「……ジャハーン、ギル」
「もう一度」

 そう言って駄々っ子のようにジャハーンギルは何度も碧に自身の名を呼ばせた。

「なんど、呼ばせるの?」

 碧の問いにジャハーンギルが答える。

「これから、何度でも」

 自然とふたりは微笑みあった。

 そして壁に映し出されたふたりの影は、やがてごく自然と重なり合った。
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