ある日突然、わたしの世界にオメガバースが出現した

やなぎ怜

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 さくらと弥生によると、昨日わたしは体育倉庫でバスケットボールを拾い上げるときに後頭部を点数板に思いっきりぶつけ、痛みに転げ回っていたらしい。

 だから出会いがしらの「頭だいじょうぶ?」という言葉に繋がったのだ。ごめん我が友。急にこちらをディスってきたのかと勘違いして。あなたはわたしを心配してくれていたのですね。

 ……思うに、わたしはこのことを言えば京吾に叱られるだろうと思って、彼には伝えなかったのだろう。そうでなければ、つじつまがあわない。あるいは、ぶつけたあとに記憶の混濁が起きたか。理由はそれくらいしか思いつかなかった。

「記憶喪失ぅ?」

 眼鏡の奥からいぶかしげな視線を向ける弥生に、わたしはできるだけ神妙な面持ちを作って「はい」と答える。

「それって、昨日ので~……?」

 続くさくらは「まさか」と言いたげな目でわたしを見たあと、隣に立つ弥生へと視線を移した。

「都合良く第二性に関する記憶だけすり替わるなんてあるのかな?」
「まあそれはわたしも思うけど」
「でもまあ楓だし~?」
「どういう意味だよ!」

 なぜみんな「わたしならありうる」みたいな顔をするんだ。

 わたしの頭ってそんな貧弱に見えるのだろうか。見えるんだろうな。でなきゃ三人が三人ともそんな態度を取るわけがない。

「それはそれとしてふたりに聞いておきたいことがあるんだけど」
「なに?」
「わたしって『運命のつがい』について話したことってある?」
「『ネタになる!』ってさわいでたよね~? 弥生」
「うん。『リアリティが増す!』とか言ってたよ。……本当に記憶喪失みたいだね。こんなオイシイネタのことも忘れちゃうなんて……」

 いぶかしげな色合いをあわれみへと変えて弥生はわたしを見る。

 隣に座るさくらも、呼応するように「まさか本当に……」という目でこちらを見やる。

 ……しかし記憶喪失である事実を信じてもらえる決定打が、「オイシイネタを忘れてる」っていうのはどうなんだ。これはわたしの普段の行いのせいなのだろうか。たぶんそうだ。

 記憶を失ったことを機に、これからはもうちょっとマジメに生きたほうがいいのかもしれない。はたしてそんな生き方がわたしにできるのかは、疑問だが。

「じゃあ、わたしの『運命』についてはなにも知らなかったり……?」
「単に『運命に会った!』とだけ言ってたからね」
「そういえば『どんなひと?』って聞いたのに『秘密』って言って教えてくれなかったよね~、楓」
「なんでそこでもったいぶるかなあ……?」

 頭をかかえるわたしに、「いやいやちがうよ」とばかりにさくらが手を左右に振った。

「もったいぶってるって感じじゃなかったよ~。どちらかと言えばあせってた感じ?」
「なにか隠したいことがあるんだな……と思って深追いしなかったんだけど……」
「えーっ?!」

 なんなんだ。隠したいことってなんなんだ。

 わりと考えていることを心を許した相手には垂れ流しがちなわたしが、さくらと弥生はもちろん、京吾にすら話していないなんて。これは、ちょっとした緊急事態ではないだろうか?

「運命のつがい」に出会えたこと自体はお気楽に考えていた? でも悩んでいた? それで、相手のことについては親しい友人や恋人にも隠していた?

 ……いったい、記憶を失う前のわたしはなにを考えていたんだ?

「『非実在運命のつがい』だったりして……」
「ちがう! たぶんちがう!」

 ボソッとつぶやかれた弥生の言葉を否定したものの、わたしも一瞬そうじゃないのかと思ってしまったのがくやしい。

 でもちがうはずだ。だって「運命」がいることを装う理由がない。なにがなんでも京吾の気を惹きたいとか思っていたならば別だが、昨日今日と会った感じではわたしたちの仲が切迫していた様子はない。

 となれば、やはりわたしの「運命のつがい」が実在していて、わたしだけが会ったことがある――という推論が、おそらく真実に近しいに違いない。

 それでもやはり謎だ。なぜ相手の情報をこれほどまでに漏らすことを避けていたんだ? 記憶を失う前のわたしは。

「でもさ、『運命』のこと忘れても別に問題ないんじゃないの~?」
「えっ、なんで?」
「なんでって~……楓には京吾くんがいるじゃん。別に『運命』のこと忘れても問題ないでしょ?」
「それもそうだな」
「納得するんだ……」

 弥生は呆れた目を向けてくるが、さくらの言う通り「運命のつがい」については別に忘れたままでも問題ないのだった。

 単にわたしの記憶喪失の鍵となったのが「運命のつがい」に関することなのかもしれない、という憶測から探っていただけで、このまま記憶が戻るのであれば、別に今「運命」がだれなのかを探らなくてもいいのだ。

「いやでもわたしの記憶喪失は『運命』と関係あるのかもしれないし……」
「いや、フツーに頭打ったからじゃないの?」
「楓が悩みすぎて記憶を書き換えるってほうが非現実的~」
「……うーん!」

 悩ましげにうなってはみたものの、ふたりの意見は変わらないようだ。……イケズ。

「っていうか今日健診あるんでしょ? そのときに頭打ったことは話したほうがいいと思う」
「だね~。いきなり記憶がヘンになっちゃうなんて、ちょっと怖いよ」
「それは京吾にも言われたから健診で言うつもり」
「なら大丈夫かな」
「突然倒れたりしたら怖いしね~。医者に相談するのが一番だよ」

 なんだかんだ言いつつも、ふたりともわたしのことを心配してくれているようである。持つべきものは友達だ。

 その後は普通に今日の授業がどうだとか、雑誌の発売日がどうだとか、他愛のない会話をして朝のホームルームを過ごした。

 ふたりと話していて気づいたのは、わたしの記憶でおかしくなってしまっているのは、「オメガバース」――第二性に関することだけ、ということである。

 授業の内容に関する会話にはちゃんとついて行けていたし、三日前に放送されたアニメの最新話についても普通に会話が成り立っていた。

 それを受けて思うのは、やっぱりわたしの記憶の混濁に関わっている大本のキーは「運命のつがい」ではないかという疑念である。

 こんなまるっと、第二性に関する記憶だけがすり替わってしまうなんて、よっぽどのそれに関するイヤな出来事があったとしても、不思議ではない。

 しかし忘却してしまったということは、それだけわたしにとって、耐えられない現実だった可能性もある。

 それを思い出したら、どうなってしまうんだろう?

 そんなことを退屈な授業中に考えてしまったわたしは、ひとりドキドキと無闇に鼓動を速めるのだった。
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