ある日突然、わたしの世界にオメガバースが出現した

やなぎ怜

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 このあと京吾にいろいろと聞いてみたが、わたしが不安視していたオメガの扱いはそう悪くはない世界らしい。

 京吾いわく、

「そんな昔みたいな差別は今はそんなにないよ」

 とのことである。

 オメガに対する雇用機会均等法が成立してから一〇年以上経ち、また抑制剤の研究も進んだことでオメガの就職率は年々右肩上がりとのことだ。

 さすがにすぐにはひとの意識は変えられないけれど、社会は着実にオメガへの差別を薄めてきている。

 まだオメガであるとおおっぴらには言えない空気ではあるものの、逆にオメガという性を武器にしている芸能人なんかもいるらしい。

 わたしはそれらの話を聞いてちょっとだけほっとした。

 しかしそれは、ほんのちょっとの話だ。

 オメガの扱いがどうであれ、自身のオメガ性を受け入れられるか受け入れられないか、というのはまた別の問題である。

 記憶を失う(?)前のわたしは自分のオメガ性を受け入れられていたのだろうか? 受け入れられていない上に、「運命のつがい」が見つかってしまって混乱した末の結果が記憶喪失(?)なのではないだろうか――?

「かえちゃん、『リアリティのある小説が書ける!』って喜んでたじゃん」

 ……別にそんなことはないようだ。

 シリアスから逃げて行く。それがわたしの定めらしい。

「まあかえちゃんは健気で見た目はか弱いタイプのオメガ受けが好きだもんね」
「はい」

 さすが京吾、わたしのことをよく知っている。

 よく知っているついでに色々と聞いておこう。

「でさ、わたしの『運命のつがい』なんだけどさ」
「僕は顔も名前も知らないよ」
「マジで?」
「かえちゃん、なにも教えてくれなかったし。あ、もしかしたらかえちゃんも顔はともかく、名前とか知らなかったのかも」
「ありうる」

 わたしは京吾に全幅の信頼を置いているし、自分よりも彼のほうがずっと頭がいいことも知っている。

 だからこそ今まで隠しごとなんてものもした覚えがなかった。困ったことがあれば詳らかに話して助けを請うた。

 そんなわたしが京吾にただ「『運命のつがい』に会った」とだけ告げたということは、彼の言う通りわたし自身もその「運命」の名前を知らない可能性が高い。

「でも一応スマホの連絡先確認してみたら? かえちゃんの連絡先、そうそう増えないでしょ」

 さりげなくディスられたような気がするが、今は流す。

 わたしは京吾相手にはぽんぽん話すが、外ではそんなにしゃべらない。典型的なオタクなのだ。つまり、友達の輪もそうそう広がらない。

 今のところわたしはどうも「オメガバース」に関する記憶だけに混乱をきたしているようなので、スマートフォンに入っている連絡先にもすべて見覚えがある……はずである。

 もし、見覚えのない名前があるとすれば、それがわたしの「運命のつがい」か、あるいは記憶喪失(?)に関係する人物なんだろう。

 でも京吾にも話していないのなら、連絡帳は見覚えのある名前だけのはず――。

「あ」
「……あったの?」
「『山下やました辰巳たつみ』……って読むのかなコレ。京吾は知ってる?」
「……知らない」
「……じゃあ、これが?」
「……まあ、その可能性は高いんじゃないの」

 意外や意外。わたしのスマートフォンには見知らぬ連絡先がひとつだけあった。

 恐らく「ヤマシタタツミ」と読むのだろうその名は、わたしにも京吾にも覚えのない響きを伴っていた。

「山下辰巳」……彼――たぶん。字面的に男なんだろう――がキーマンなのだろうか?

「ねえ京吾、わたしが『運命のつがい』に会ったあとってどんな感じだった?」
「どんなって言われてもね……いつも通りだったよ」
「悩んでたんじゃないの?」
「悩んでたみたいだけど、別にそれで食事の量が減るとかはなかったみたいだし、『ネタになる!』って言ってたよ」
「うーん……」

 どこまでもいつも通りのわたしのようだ。

 悩んではいたが、それほど深刻には受け止めていなかったのだろうか?

 じゃあ、どうしてわたしの記憶に混乱が見られるのだろうか?

「なんかひどいことされたり言われたりしたのかな?」
「え?」
「『運命のつがい』に。それで記憶が飛んだとか」
「うーん……」

 あんまり考えたくはないがそんなことを口にすれば、今度は京吾がうなった。

「どうなんだろ? 僕に『運命のつがいに会った』って言っていたときは深刻な感じはしなかったよ」
「でも悩んでたんだよね」
「まあ、僕から見て、だけど」
「うーん……」
「うーん……」

 ふたりしてうなる。

「でもかえちゃん、『運命に会った』って言ったあとでまたそのひとに会った気配はなかったよ」
「そうなんだ」
「かえちゃんの性格上、彼氏の僕に黙って会うとも考えられないし」
「まあね。……じゃあなんで悩んでたんだろ? あとなんで連絡先に名前があるのに京吾には話してなかったんだろ?」
「さあね。かえちゃんのことだから深い理由はないと思うけど……」

 さりげなくまたディスられたような気がするが、真実なので文句は言わない。

 わたしのことだ。もしかしたら恋人がいるのに「運命のつがい」に会った状況に酔って、悲劇のヒロインぶって、もったいぶって名前を伏せていたのかもしれないし。

 あんまりそういうアホみたいな現実は考えたくはないけれど、わたしのことだからそういう可能性もあるとは考えておこう。

 ……こう見るとわたしはわたしのことをあんまり信用していないみたいだ。京吾の言ったことのほうが信頼性が高い。

「……このひとに電話したらわかるのかな?」

 スマートフォンの画面に視線を落とす。

 山下さん……か。いったいどんなひとなんだろう?

 いやなひとじゃないといいなあ。あと年齢もわかんないな……。

 そんなことをつらつらと考えているわたしに、京吾が至極もっともな言葉をぶつける。

「……電話してどうするの?」
「うーん……それもそうか。話すことないや。記憶ないし」

 いきなり「記憶がなくなったんですけど心当たりありませんか」とか聞くわけにもいかないだろうし……。

 こんな連絡してくる人間が「運命のつがい」とか、相手は悲観して泣いてしまうんじゃないだろうか。それはさすがにかわいそうだ。

「でもどんなひとか知りたい」
「やめときなよ。藪蛇になるかもしれないよ? その山下さんに連絡をするのは最終手段にして、まずは明日の健診で記憶障害のことを相談したら?」

 実に合理的で冷静な意見を口にする京吾に、わたしはあんまり脳みそを使わずに賛成することにした。

 その日の夜は記憶喪失の件や、山下さんについて考えたものの、気がついたら普通に寝て朝を迎えていた。

「記憶戻った?」
「戻ってない」

 寝たらまた「オメガバース」が空想上の存在である世界に戻っている可能性も考えていたが、もちろんそのようにわたしにとって都合の良い展開にはならなかった。

 わたしがまだ記憶に混乱をきたしていると知った京吾は、難しい顔をしてこちらを見る。

「やっぱり病院だね。僕の手には負えない」
「匙投げないで!」
「投げてないよ。外傷性のものか心因性のものかはわからないけれど、ちゃんとしたお医者さんにかかったほうがいいよ。あとおばさんたちにもちゃんと話したら?」
「お母さんに言っても信じてもらえなさそう。流されそう」
「普段どんな行いをしてるの?」

 呆れた顔をする京吾だったが、それでもわたしを心から心配していることには違いがないようだ。

「……健診、ついて行こうか?」
「うーん……ひとりでもだいじょうぶだと思うけど」
「ううん。やっぱりついて行くよ。急に倒れられたりしたら怖いし」
「京吾……」

 こちらを慮ってくれる京吾の態度にわたしはじーんと感じ入った。

 対する親はどうだ。たぶんスルーする。いや、絶対する。冗談扱いされそうだ。わたしの親はわたしに似てお気楽なのだ。あとわたしが普段から家ではふざけた態度なのがいけないんだと思う。……これは、自業自得だ。

 しかし京吾が慈悲深い神のような性格で良かった。わたしには幼馴染の気安さからくる辛辣さを見せるときもあるけれど、基本的に彼はだれにでも心優しいのだ。それが、ここでも発揮されている。

 別にわたしは記憶喪失になったことを「怖い」とか「どうしよう」なんて深刻には受け止めていないのだけれど、やっぱり心配されるというのはうれしいものである。

「ありがとう京吾。やっぱり健診にはついてきて?」
「もちろん。あと授業中とかに気分が悪くなったらちゃんと保健室に行くんだよ?」

 そんなことを言い合ってわたしのクラスの前で京吾と別れる。京吾とはクラスが別なのだ。

 開いている教室の前のドアから室内へと足を踏み入れれば、すでに登校している友人たちがわたしの存在に気づいて視線を向けてくる。

「おはよー楓」
「おはよ、さくら、弥生やよい
「おはよ~。頭だいじょうぶ?」
「えっ」

 ごく普通にあいさつをしてきた弥生に対し、さくらはいきなり豪速球を放ってきた。

 まともに受け止めたわたしは一瞬言葉に詰まる。

 それから記憶喪失についてはまだ彼女らには言っていないよな? とわたしの――今は――心許ない記憶をたぐる。

 そうだ。彼女たちにはまだ記憶喪失の件については言っていない。今はわたしと京吾だけの秘密のはずだ。

 わたしは秘密を当てられた動揺から鼓動を速めつつ、平静を装ってさくらに問いただす。

「なにいきなり。ひどいよ」
「いや、昨日頭打ったじゃん。だいじょうぶ? たんこぶになったりしてない?」
「えっ」

 アッ、これだわ原因。

 わたしはここにはいない京吾に向かってそう言った。
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