悲劇のヒロイン志望でした

やなぎ怜

文字の大きさ
28 / 29

(28)

しおりを挟む
「アンジェリア」

 スクールの校門を出たところで名前を呼ばれた。当然のようにわたしは振り返って「はい?」と答える。後ろに立っていたのは、ぼさぼさの白髪混じりの髪にまず目が行く、おばあさんだった。年の頃はよくわからないけれど、わたしのお父様よりも、ずっと年上に見えた。

 ――どなたかしら? このおばあさん……。

 わたしの名前を知っているということは、どこかで出会ったことがある上に、わたしから名乗った可能性すらある。けれどもいくらわたしの記憶の箱を捜しても、こんなおばあさんの知り合いはいないと返ってくる。

 わたしの祖父母ではないと言い切れたけれども、遠い親戚のどなたかという可能性はあった。そうなると、粗相はできないと感じて、おばあさんを無碍にするのは憚られる。

 ……だから、わたしはまったくの無防備だった。

「きゃあ!」

 逡巡するわたしに、おばあさんは素早く近寄ったかと思うと、次の瞬間には隣にいたエリーが悲鳴を上げた。わたしはエリーのいる方向を見れなかった。なぜか、猛烈に腰のあたりが痛くなったからだ。ひんやりとしたかと思うと、次は燃えるように熱く感じられて、自然と冷や汗と脂汗が浮かんでくる。

 わたしはその場に立っていられなくなって、スクールの指定鞄を取り落とし、膝を折ってうずくまった。そこにエリーが駆け寄ってくるのは足音でわかった。

 そのうちに、なにか、周囲が大騒動となっているのは音でわかった。わかったけれども、痛みが強くて目が開けていられない。

「動いちゃダメ!」

 エリーの手がわたしの肩に触れるのがわかった。

 ――なに? いったい、なにがあったの?

 エリーにそう聞きたかったけれども、そうこうしているうちにじわじわと体が麻痺して行くような感覚が広がって――わたしは同じようにじわじわと意識が遠のいて行くのを感じた。

 ……次に目を覚ましたとき、わたしは見知らぬ場所に寝かされていた。最初はパニックを起こしかけたが、冷静に周囲を見回せば、どうもここは病院のベッドらしいということがわかる。そうなればわたしの身に急に起こった「腹痛」も一安心――と思ったところで、腰のあたりの痛みがぶり返した。

「アンジェリア!」
「アン!」

 カーテンの向こうにはどうやら人がいたらしく、わたしの呻き声を聞いて勢いよくやってくる。顔を出したのはお父様と、ザカライアさんだった。見知った顔を見つけられて、わたしはホッと安堵する。

「お父様……ザカライアさん……」
「アンジェリア、大丈夫……ではないよね? けれど、意識が戻ってよかった……」

 わたしが寝ているベッドへと近づいたザカライアさんの目は、ちょっとだけ赤く充血していた。夫であるザカライアさんを心配させてしまったと思うと、それだけでわたしの心の中に罪悪感めいた感情が生まれる。

 ザカライアさんがこんな様子では、お父様も随分とわたしのことを心配したことだろう。お父様はわたしには優しくて、ちょっぴり過保護なところがあるから。

 ……そう思ってお父様を見たが、お父様なぜか目を泳がせて、気まずそうな顔をしていた。その顔を見て、わたしは直感的に嫌なものを感じた。そしてそう感じた自分におどろき、戸惑いつつも、わたしのそばにいるザカライアさんに問うた。

「わたし、どうしちゃったのかしら? 急に腰のあたりが痛くなったの……そう、それで……エリーは?」

 先ほど起こった状況を思い出している内に、エリーはどうしたのか気になった。

「彼女なら先に帰したよ。随分とアンジェリアのことを心配していた。元気になったらまた会えるよ」
「そう……心配させちゃったのね。でも、『元気になったら』って? わたし、病気になってしまったの?」

 優しい声で諭すように話すザカライアさんに、わたしはまだ上手く状況が飲み込めず、矢継ぎ早に質問する。ザカライアさんはそれに不快そうな顔をすることもなく――しかし、どこか痛ましげにわたしを見たので、そんなに重病なのかと心配になった。

 ザカライアさんはゆるく首を横に振って、再び口を開いた。

「落ち着いて聞いて欲しいんだけれど……」
「わたし、落ち着いているわ」
「いや、落ち着いて聞いてはいられないと思うんだが……。とにかく、君は――刺されたんだ」
「……刺された?」
「そう。幸いにも内臓までは傷つかなかったし、ここに搬送するのが早かったから大事には至らなかったけど……体に傷は残ってしまうかもしれない、と」

 ザカライアさんはわたしの体に傷が残ることについては、一番言いにくそうに口にした。

 しかしわたしはと言えば、急に自分が「刺された」なんて聞いておどろいてしまって、それどころではない。

「……あの、おばあさん……?」

 思い出したのは、わたしに声をかけた見知らぬおばあさん。あの瞬間はよく思い出せなかったが、おばあさんが急に近づいたかと思った次には、わたしは痛みを感じていた。となれば、あのおばあさんがわたしを刺したのだろうか?

 なぜ? どうして? あのおばあさんはいったい何者なの? ……混乱するわたしを、ザカライアさんはやはり痛ましげな目で見ていた。

 ザカライアさんがその内になにか言おうとしたのか軽く口を開いた。けれどもそこに偶然かわざとか、かぶせるように、今まで黙っていたお父様が言葉を発した。

「『おばあさん』だなんて言うんじゃないよ、アン。お母様の顔を忘れたのかい?」

 わたしははじめ、お父様がなんと言ったのか、まったく理解できなかった。しかしじわじわと、あのとき意識を手離すまでの時間のように、じわじわと理解が及んで行くにつれ、驚愕に叫び出した気持ちになった。

「お母様……? あの、あの方が?」

「あのおばあさんが」と言えばまたお父様に叱られてしまうような気がして、わたしは言い直す。そんなところに気を回す程度の余裕がまだ自分にはあるのだなと思うと、ちょっとおかしくて、変な笑いがこぼれそうになった。

 わたしの記憶の中のお母様は、いつだって身綺麗にして、ブルネットだって美しかった。見た目だけならお母様は、どこに出しても恥ずかしくない「素敵な奥様」だったのだ。……そんなお母様と、あのおばあさんがイコールで結びつかない。

 わたしは戸惑いの目をお父様に向けた。

「お母様が……わたしを?」

 早く答えを聞きたいような、絶対に知りたくないような、不思議な気持ちにわたしの心は支配されていた。戸惑っているのはお父様も同じように見えた。……そう、同じようにお母様の凶行に心を痛めているように、見えた。

 やがてお父様は重々しく首肯して答える。

「そうだ」

 わたしは――なんだか今すぐこの場で泣き叫びたいような気持ちになった。お母様に愛されていたなんて、微塵も思ってはいなかったけれど、まさかわたしを刺すほどに憎んでいたとまでは思っていなかったのだ。

「いつかお母様とは和解できる」なんていう夢は見たことがなかったけれど、けれどもそれはそれとして、実の母親が我が子へ凶行に及ぶほど憎まれていたのだという事実は、単純に辛かった。

 わたしは言葉が言葉にならなくて、じっと戸惑いの目でお父様を見た。そんなわたしに、お父様は――。

「……アン、彼女も可哀想な人なんだ。どうか、許してやってくれないか?」

 お父様は、猫撫で声で優しくわたしに問いかける。

 わたしはお父様の言葉を聞いて、頭が真っ白になった。

 お父様は、わたしに優しくて、ちょっぴり過保護で――そして、絶対的なわたしの味方、だと思っていた。そのわたしの中の「常識」が根底から覆されたことで、わたしはパニックに陥った。

 声を出そうとしても、声が出ない。「そんなことできない。許せない」そんな気持ちと、もしそんなことを口にすればお父様に怒られて――見放されるかもしれないという恐怖が同居したままに、わたしは口を閉ざさざるを得なかった。しかし、その胸中はせわしなくざわめく。

 ――どうしよう。どうしよう。どうしたらいいの? なんとかしなくちゃ。わたしが、わたしがなんとか――。

「ウィンバリーさん。失礼ながら、アンジェリアがこんなにも怯えているのに、父親である貴方は……それに気がつかないのですか?」

 凛とした、それでいて明らかな怒気を含んだ声が、パニックに陥っていたわたしの意識を現実へと引き戻した。

「ザカライアさん……」

 お父様の言葉を聞いて、たったひとり、吹雪の中に取り残されたような気持ちになっていたけれど――わたしのそばには彼が……ザカライアさんがいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

御前様の嫁

やなぎ怜
恋愛
御前様(ごぜんさま)と呼ばれる神様に神楽舞を奉納したことのある鏡子(きょうこ)は交通事故で他界した後、縁あって彼のお社で暮らしている。しかし六年に一度の祭りを控え神社に新たな舞い手が現れたことで、鏡子の心は掻き乱される。

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

聖女は秘密の皇帝に抱かれる

アルケミスト
恋愛
 神が皇帝を定める国、バラッハ帝国。 『次期皇帝は国の紋章を背負う者』という神託を得た聖女候補ツェリルは昔見た、腰に痣を持つ男を探し始める。  行き着いたのは権力を忌み嫌う皇太子、ドゥラコン、  痣を確かめたいと頼むが「俺は身も心も重ねる女にしか肌を見せない」と迫られる。  戸惑うツェリルだが、彼を『その気』にさせるため、寝室で、浴場で、淫らな逢瀬を重ねることになる。  快楽に溺れてはだめ。  そう思いつつも、いつまでも服を脱がない彼に焦れたある日、別の人間の腰に痣を見つけて……。  果たして次期皇帝は誰なのか?  ツェリルは無事聖女になることはできるのか?

王女を好きだと思ったら

夏笆(なつは)
恋愛
 「王子より王子らしい」と言われる公爵家嫡男、エヴァリスト・デュルフェを婚約者にもつバルゲリー伯爵家長女のピエレット。  デビュタントの折に突撃するようにダンスを申し込まれ、望まれて婚約をしたピエレットだが、ある日ふと気づく。 「エヴァリスト様って、ルシール王女殿下のお話ししかなさらないのでは?」   エヴァリストとルシールはいとこ同士であり、幼い頃より親交があることはピエレットも知っている。  だがしかし度を越している、と、大事にしているぬいぐるみのぴぃちゃんに語りかけるピエレット。 「でもね、ぴぃちゃん。私、エヴァリスト様に恋をしてしまったの。だから、頑張るわね」  ピエレットは、そう言って、胸の前で小さく拳を握り、決意を込めた。  ルシール王女殿下の好きな場所、好きな物、好みの装い。  と多くの場所へピエレットを連れて行き、食べさせ、贈ってくれるエヴァリスト。 「あのね、ぴぃちゃん!エヴァリスト様がね・・・・・!」  そして、ピエレットは今日も、エヴァリストが贈ってくれた特注のぬいぐるみ、孔雀のぴぃちゃんを相手にエヴァリストへの想いを語る。 小説家になろうにも、掲載しています。  

処理中です...