悲劇のヒロイン志望でした

やなぎ怜

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 ザカライアさんは今やお父様の前に立ちはだかるようにして……わたしを背に守るようにして、敢然と立ち向かっているように見えた。

 一方のお父様は、よもやザカライアさんが口を差し挟むとは思ってもいなかったのか、なぜかおどろきに目を丸くしている。

「アンジェリアの母親に居所を教えたのは貴方だと、先ほど聞きましたが……一体、どういうおつもりで、そのように勝手な真似をしたのですか?」
「か、彼女はアンの母親なんだ……子供には母親が必要だろう?」
「アンジェリアはもう母親が必要な年頃ではありません。それに、娘を刺し殺そうとする母親を求める人間がどこにいますか? 私はそんな悪魔のような母親は、要りませんね」
「……不幸な行き違いがあったんだ。彼女にも挽回するチャンスを与えるのが、公平な判断だと思わないかね?」
「思いませんね。一方的な虐待の、どこに行き違いがあると言うんですか? 公平? アンジェリアの母親に彼女の居所を教えたのは、単に貴方がいい恰好をしたかった、気持ちよくなりたかっただけですよね? 独り善がりの行動ですよね? 違いますか?」
「そんなことは! アンに聞かないとわからないだろう! アンだって母親に会いたかったはずだ!」
「自分を刺し殺そうとする母親に、ですか? そんなの、聞くまでもないでしょう!」

 最初は冷静に詰問していたザカライアさんに、お父様はしどろもどろに返していた。しかし自分よりも年若いザカライアさんに責められている状況にプライドが傷ついたのか、お父様は遂に怒り出してしまう。そしてそれに釣られたように、ザカライアさんも怒気を強めて言い返す。

「ザカライアさん、やめて……」
「アンジェリア?」
「お願い。わたしがちゃんと、お父様に言うから。きちんと言っていなかったのが、悪かったと思うから」
「アンジェリア、無理は……」
「大丈夫。わたしの口から言わないと、お父様は納得しそうにないから……」

 ザカライアさんは最初、心配そうな目でわたしを見ていた。けれどもわたしの決意が固いと見たのか、「わかった」と言って矛の先を収めてくれる。ザカライアさんの黒っぽい瞳には、確かに信頼があった。それは、わたしの思い違いではないはずだ。

「アン――」
「わたし……お母様を許せない」

 なぜか期待の目でわたしを見ていたお父様は、次の瞬間には絶句した様子だった。

「お父様、お母様はわたしにひどいことをたくさんしたわ。わたしをこの世に産み出してくれたことについては感謝しているけれど、わたしにひどいことをした……そんな人に会いたいなんて思えないし、許すこともできない。……これ以上、わたしを失望させないで。わたし、お父様のことまで嫌いになりたくない」

 お父様の顔が、体が、しおしおと萎れて行くのがわかった。今にもがっくりと膝をつきそうなほどだ。

 そんなお父様に、冷静さを取り戻したザカライアさんが付け加える。

「彼女の母親は明らかに危険人物だ。そんな人間を近づけさせられない。もしそんなことを貴方がするのであれば……もし、こういったことがまた起これば、わたしは貴方も、彼女の母親も許せない」

 お父様がわたしの味方なんかじゃないことに気づいたときは、天地がひっくり返ったような気持ちになった。けれどもわたしの味方はこの場にいた。ザカライアさんだ。それがわかると、ざわめいていたわたしの心は落ち着き、にわかに力が湧いた。だから、お父様にも冷静に引導を渡すことができた。

「……まだ、貴方とは色々と話すことがありますが……アンジェリアの前ですることではありませんから。我々は退出しましょう。医者も呼ばなければなりません」

 後はザカライアさんに任せても大丈夫だろうか? わたしはザカライアさんを見る。すると、ザカライアさんは無言で頷いた。言葉がなくても通じ合えた喜びと同時に、今までになく彼が頼りになると思えて、わたしは安心から体中の力が抜けるような感覚に陥った。


「あなたのお父上には私からきつく言い聞かせておきましたから、大丈夫でしょう」
「そう。……お母様は?」
「彼女の親戚が引き取るそうです。残念ながら公の場で裁くよりはその方がいいでしょう。面会しましたが……とても正気とは思えませんでしたし。危険ですから、お金を取り上げて田舎の家に置いておくのが最善かと」
「そうですか……」

 一度は愛を求めた相手が、わたしを虐げた相手が、そこまで落ちぶれているという状況は、なんだか不思議だった。ことさらお母様が公に罰せられることを望んでいたこともなかったので、ザカライアさんからの情報には少しホッとしたのも事実だ。

「屋敷は一応、引っ越すことにしました」
「え? そこまでしなくてもいいのでは……」
「いえ、彼女にはこちらの屋敷の住所も知られていますから。とは言え、引っ越し先を本気で探されればすぐにわかってしまいますが……」
「そう、ですよね。ザカライアさんも危ないかもしれませんものね」
「……いいえ。一番はアンジェリアの身が心配だから、ですよ」

 ザカライアさんの言葉がちょっと意外に思えて、わたしはうつむけていた顔を上げた。

「意外、ですか?」
「顔に書いてあります?」
「ええ。……それはそうとして、意外でもなんでもなく、当たり前でしょう? 私と貴女は夫婦なんですから」
「そうでしたね。それくらいしないと、仲を疑われてしまうものなんでしょうか」

 わたしの言葉を受けて、ザカライアさんの顔が曇る。わたしはなにかやらかしてしまったかとあせるが、次の瞬間にはザカライアさんはイスから立ち上がったかと思うと、わたしの手を取ってひざまずいていた。わたしはザカライアさんの突然の行動にびっくりして、目を丸くする。

「アンジェリア……いや、『アン』と呼んでもいいですか?」
「は、はい……。わたしのことは、なんとでも」
「では、アン。先ほどは恥ずかしくてはっきりと言えなかったことをお詫びします」
「……恥ずかしくて?」
「ええ。『夫婦だから』と言い訳をしてしまいましたが……本当は、アンを愛しているから、心配で心配で仕方がないから、引っ越すんです」
「――え」

 わたしはまた目を丸くした。これ以上ないほど丸くして、わたしの手を取ってひざまずくザカライアさんを見下ろした。

「私に献身的に接してくれる、貴女の無垢さに惹かれていたのは、随分前からです。けれども、恥ずかしくて私はそれを口にできなかった……。しかし、今回のことで気づかされたのです。時間は有限なのだから、思いは口に出し、形にせねばならないと。そうしなければ、後悔すると、気づいたんです。だから今、きちんと言います。――アン、愛しています。私と、『夫婦』になってくれませんか?」

 突然の急展開にわたしの頭はパニックだ。けれども、お父様と対峙していた時のような、嫌な感覚はまったくなかった。これは、幸せなパニックだ。幸福で、心がいっぱいになって、声が出ない。

 けれどもわたしはどうにかこうにかつばを飲み込み、わたしの手を取るザカライアさんの手の甲に、そっと指を置いた。

「……はい。喜んで。……わたしも、ザカライアさんのことを……結構前から愛していました」
「……そう、なんですか?」
「はい……」

 いつもは微笑むだけだったザカライアさんの口元が、だらしなく笑みを作っているのが見えて、わたしは意外に思うと同時に、そうさせているのが自分だと思うと、妙にくすぐったい気持ちになった。

「結婚誓約書にサインをするときに、心から言えたら良かったんだけれど……」
「これでいいじゃないですか。確かに、わたしもそういうことを結婚前に夢見ていました。現実は違いましたけど……でも、これでいいじゃないですか。幸せですもの」
「……そうだね。私たちは幸せ者だ」

 そうして、わたしたちはどちらともなくクスクスと笑い出して、そして最終的には抱き合った。それはくすぐったいほどに幸せで、心がいっぱいになるくらい、うれしいものだった。

 わたしの誕生日にザカライアさんとの夫婦写真を撮ったけれど……それが家族を写した写真になるのは、近い気がした。

 そして心から思ったのは……早いところ「悲劇のヒロイン」ごっこをやめてよかった! ということだろうか。今思うにとても馬鹿馬鹿しいのだが、あのときのわたしは冷静でなかったように思う。そしてそんな風に冷静じゃないまま続けていれば、いずれ家庭は破綻していたんじゃないかと思う。

 ――本当に本当に、早いところやめていてよかった……!

 首の皮一枚で繋がったような気になったこの思いは、さすがにザカライアさんには告げられない。恐らく、墓場まで持って行くことだろう。けれどもまあ……それくらいは、ザカライアさんも許してくれるよね……?


 余談になるが、あれだけわたしに嫌がらせをしていたタビサ・ロートンは、なぜだかわたしのお母様が起こした一連の騒動を見て正気に返ったらしい。エリーを通じて謝罪の手紙を渡されたが、皮肉を挟む余地もなく、「スクール始まって以来の才媛」と呼ぶにふさわしい、理路整然とした丁寧な謝罪文が並んでいた。

 一体、これまでのアレコレはなんだったのか……。エリーは「熱病のようなもの」と言っていたが、わたしにはさっぱりわからないし、解決した今となってはわからないままでいいかとも思う。

 そしておどろくべきことにライナスとは別れたらしい。「え? あんなにも熱く愛し合っていたのに?」とびっくりした。タビサ・ロートンは正気に返って、ライナスの言動が気持ち悪くなったのかもしれない。わたしがかつてそう思ったように。

 そして当のライナスは、「悲劇のヒロイン」ならぬ「悲劇のヒーロー」ぶって知り合いから顰蹙を買っているらしいことを小耳に挟んだ。ライナスの化けの皮がどんどん剥がれて行くのを見るにつれ、彼に捨てられたのは僥倖だったのかもとわたしは思うのであった。

 なんにせよ、「悲劇のヒロイン」ごっこはやめてよかった! 隣で眠るザカライアさんを見つめながら、わたしは幸福を噛みしめると同時に、自らを顧みることの大切さを悟ったのであった。
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