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地下101階の獣

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「あなた? どうしました? どこか痛いのですか?」
 チュリップが腕の中で心配そうに声をかける。
「……とんでもないことをしてしまった」
 チュリップを犯してしまった。なぜそうなったのか分からない。気づいたらチュリップを組み伏せていた。

「まだ気にしているのですか? もう良いのですよ。私たちは愛し合っているのですから」
 チュリップの声は犯されたというのに穏やかだ。
 しかし、チュリップと俺は愛し合っている? どうしてそうなった? 俺の恋人はローズだ。なのにいつの間にチュリップにすり替わった?

「まだ混乱しているのですね」
 チュリップの甘ったるい香りに包まれると、頭がくらくらする。
「大丈夫です。私がついていますから」
 漆黒の中でチュリップの甘い声が聞こえる。
 どうして彼女は、この暗闇の中平然としていられるのだろうか?

「あなた……愛しています」
 だが濃厚なキスをすると、苦甘い味とともにしこうがにぶる。
「おれも……あいしている」
 あいしているというとチュリップがよろこぶ。
 それがうれしい。



「あなた、しっかり私の手を握ってください」
 チュリップは朦朧となったレイの手を握りながら、光のない迷宮を進む。
 彼女は暗闇の中なのに、迷いなく歩く。
「ここです」
 チュリップが壁の出っ張りを押すと、扉がゆっくりと開く。

 扉の中は埃一つない清掃の行き届いた寝室であった。ベッドはしわ一つなく、毛布も洗濯されている。
「まずは、体を拭きましょう」
 チュリップはふらつくレイをベッドの上に座らせると、中央のテーブルにどっさりと置かれた荷物を漁る。
「さあ、万歳してください」
 レイは言われるがままに両手を上げる。チュリップは真っ白な布で丁寧にレイの体を拭く。
「終わりました。しばらく横になっていてください。ご飯を用意してきますから」
 チュリップはレイをベッドに寝かせると部屋を出る。
 そして向かいの扉を開ける。

 チュリップが入った先は化け物の肉片が重なる厨房であった。
 チュリップが厨房のかまどに火をつけると雪のように透き通る白い肌が赤く輝く。
 テキパキと化け物の肉を切り分けて、ぐつぐつに柔らかくなるまで煮る。
 煮詰まると皿の上に肉を乗せて、得体の知れない粉をかける。
「うん! 美味しい!」
 血に飢えた悪魔のように微笑む。

「愛しています! 愛しています!」
 食事が終わると二人はベッドの上で重なり合う。
「あいしてる! あいしてる!」
 レイは暗闇の中でチュリップを求め続ける。
 チュリップはそれが至上の幸せという表情で与え続ける。

 レイたちがリリーたちと別れて三日、レイたちはいつも通りベッドで重なり合っていた。
 二人はもはや獣よりも知能が低下していた。食事、睡眠、排せつ、そして性交の繰り返し。何より会話は一つだけ。
「あいしてる! あいしてる!」
「愛してます! 愛してます!」
 挨拶も何もない。ただ愛しているという言葉だけ。
 もはやただの鳴き声である。そしてそれだけで意思疎通をしている。

 それはともかく明らかにレイの様子がおかしい。もはやチュリップの介護なしでは動けないほどである。
 血色は良く、体格も衰えていない。しかし部屋からは一歩も出ない。ベッドから起き上がるにはチュリップの手引きが必要である。食事はチュリップが与えてくれるまで待つ。排せつもチュリップが手引きするまで待つ。目の焦点は合っていない。
 操り人形と化していた。以前のような覇気は無い。

「愛しています」
 チュリップはそんなレイを肌身離さず抱きしめ続ける。

「愛しています……愛しています……」
 チュリップは赤子をあやす様に眠るレイを抱きしめる。
「愛しています……愛しています……」
 チュリップは眠るレイの頭を撫でて涎を垂らす。目の焦点が合っていない。
「愛して……ああ!」
 突然地下101階が揺れるとチュリップは縄張りを荒らされた野獣のように怒り狂う。
「ああああああああ!」
 チュリップは部屋の片隅に置いてあるメイスを掴むと、咆哮をあげて部屋から飛び出した。



「いつの間にこんな出っ張りが?」
 リリーたちは三日かけて、変化した地下101階のマッピングを終えた。
 マッピングの結果、地下102階へ下る階段を発見した。
 そして地下100階へ上る階段付近に新たな出っ張りが出現しているのを発見した。
「押してみるぞ」
 リリーはローズに一声かけると出っ張りを押し込む。
 砂埃が舞い上がり、以前踏み入れた一直線の通路に変形した。
「これが地下102階へ行くための仕掛けか」
 リリーは腕組みしながら、通路の中央にある出っ張りを見つめる。

「ここの出っ張りを押すことで地下102階へ通じる通路に変化する。変化した通路を元に戻すにはあの出っ張りを押す。面倒な仕掛けだ」
 通路の奥を見つめて貧乏ゆすりを始める。
「これを押してレイたちが進んだ方向に行くべきか? しかし先がどうなっているのか分からない。だが押せばレイたちに合流できるかもしれない。しかし……」
 巡り廻る思考で立ち往生する。

「早く押そう! 押してレイのところに行こう!」
 ローズは暴れ馬のように落ち着きなく足踏みする。
 リリーは苦々しい表情で舌打ちする。
「この女……少しは黙っていられないのか?」
 小さく、しかし強く、口の中で呟く。

「この先にレイは居る。ならば生きるために行くべきだ」
 リリーは覚悟を決めた顔をパシパシと両手で叩き、気合を入れる。
「押すぞ」
 リリーはローズを見ずに、意見も聞かずに出っ張りを押す。以前のように壁が閉じ始める。
「ぐああああああ!」
 突然奥から咆哮が響き渡る。
「化け物だ! 引き返すぞ!」
 リリーはローズの肩を掴む。
「レイー!」
 ローズはリリーの手を振り払って奥へ駆け出す。
「あの馬鹿!」
 リリーは仕方なくローズを追う。

「ぐああああああ!」
 壁が閉じて退路が塞がると恐ろしい獣の咆哮が鼓膜を破る。
「ローズ! 明かりだ!」
「光魔法! エアライト!」
 通路の天井から光が降り注ぐ。
「チュリップ!」
 リリーは奥に目を細める。死人のように白い肌のチュリップが手足を血まみれにして立っていた。

「無事だったか!」
 リリーが一歩踏み出すと、チュリップはメイスを振りかぶり、獲物を捕らえる獣のような速度で迫る!

「チュリップ!」
 リリーは寸でのところで片手盾で防ぐ。同時に腕から鈍い音が響き渡る。
「折れた!」
 リリーは堪らず腕を押さえる。その隙にチュリップはリリーの脳天に狙いを定める。

「炎魔法! ファイヤーレーザー!」
 ローズはチュリップが攻撃する隙を躊躇いなく狙い撃つ。
「ぎがああああ!」
 熱線が片腕を焼き切ると、チュリップは悲鳴をあげながら逃げ出す。
 ローズはその背中を狙う。
「待て!」
 リリーがローズの腕を掴む。
「あいつは敵に操られている! いったん地下100階へ戻るぞ!」
 出っ張りを押すと、閉じた壁は再度開かれ、チュリップが逃げた方向の壁が閉じる。
 リリーは一目散に地下100階へ走る。
 ローズは燃え滾るような目でチュリップが逃げた方向を睨みながら、地下100階へ撤退した。

「黒魔法の精神汚染! くそ! 状態異常を回復させるのはチュリップの役目なのに!」
 リリーは地下100階に戻ると腕を自己治癒の魔法で治す。そして冒険者手帳を開き、チュリップの身に起きたことを推測する。
「あそこには精神操作を行える敵がいる。このまま突っ込んでも返り討ちだ!」
 何度も何度も床に拳を振り下ろす。
「どうする! どうする!」
 リリーは考え続ける。

「あの女……なんで裸だったの? レイはどうしたの!」
 ローズは杖がへし折れるかと思うほど両手に力を込める。圧力に負けて床にヒビが入った。



「治癒魔法! 神よ、我が腕を再生したまえ!」
 チュリップは迷宮の通路で呪文を唱える。無くなった腕がグチグチと音を立てて再生する。
「ここは私とレイの楽園! 誰も邪魔させない! 殺してやる!」
 チュリップが吠える。獣か化け物のように。
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