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わたしは十七歳で、デビュタントを終え、その日が初めてのパーティだった。

エスコートをしてくれたのは、従兄のジャンだったが、
会場に着くなり、友人たちと大事な話があると言い、
わたしを置き去りにして、何処かへ行ってしまった。

初めてのパーティという事で、勝手も分からず、
その上、内気な性格もあり、わたしは気付けば壁の花になっていた。

ウエイターがしつこくわたしの前を通り、飲み物を勧めて来て、
手に持っていれば、もう来ないだろうと、それを手に取った。
だが、悪い事に、脇を通った男の腕が、わたしの肩に当たった。

「きゃっ!」

わたしのグラスは傾き、シャンパンがドレスを汚してしまっていた。

「ああ!!」

わたしが絶望で茫然となっている間に、男は逃げる様にその場から立ち去った。
漸く我に返ったわたしは、近くのテーブルにグラスを置くと、
ドレスを抱えてその場から逃げ出していた。

広間を出て、使用人に声を掛けようと思ったが、こんな時に限って、その姿が見えない。
ああ、帰りたい…
ジャンが来てくれたらいいのに…
一体、何処に行ってしまったのかしら…
わたしは半ば諦めの心境で、近くに置かれたベンチに座り、ジャンを待つ事にした。

「初めてのパーティだったのに…」

パーティは楽しいものだと、無条件に信じていたのだが、
今日は何一つ上手くいかず、酷く落ち込み、残念な気分だった。
こんな時、家であれば、ピアノを弾き、心を慰めただろう。

トトン…トン、トン…

左手の指だけで、それを打っていると…

「こんな所で、どうしたの?」

不意に声を掛けられた。
手を止め、顔を上げると、目の前に一人の男性が立っていた。

きちんと撫でつけられた、ダークブロンドの髪。
整った彫りの深い顔で、その緑灰色の瞳は優しい___

「!?」

彼だけが輝いて見え、わたしは息が止まるかと思った。

「迷子?」

ぼうっとしてしまった所為か、重ねて訊かれ、わたしは赤くなった。
緊張し、答える声も、たどたどしいものになった。

「い、いえ、ドレスを、汚してしまって…」
「人を呼んであげよう」

彼は直ぐに使用人を呼んでくれ、ドレスの汚れを落とす様に頼んでくれた。

たった、それだけだった。

だけど、十七歳のわたしが恋に落ちるには、十分だった。


わたしはドレスの汚れを落として貰うと、急いで広間に戻った。
そして、再び、壁の花となりながら、《彼》を探した。
普通であれば、客は大勢いるのだから、容易には見つけられないと思う所だろうが、
この時のわたしには、根拠の無い自信があった。
そして、それは当たった___

「ああ!いらしたわ!」

彼は長身でスラリとし、スタイルが良い。
それだけでも目を惹くのだが、それだけでなく、彼にはオーラがあった。
彼だけが光って見えるのだ。

わたしは全てを忘れ、彼に見惚れてしまっていた。

知り合いだろうか、彼は男性たちと談話をしていた。
彼が笑うと、わたしも微笑んでいた。

なんて感じの良い方…

それから、彼は女性に声を掛けられ、踊りに行った。

ダンスもお上手なのね…
ああ、わたしとも、踊ってはくれないかしら…

うっとりとしていた所、周囲の声が聞こえて来た。

「あら、レオナール様よ、素敵ね…」
「ディアナ様が羨ましいわ…」
「レオナール様がご結婚されるなんて…」
「伯爵を継ぐのですって…」
「三十歳でしょう?ご立派よね…」

わたしは酷くショックを受けた。

結婚されるのね…


そのパーティから一月と経たず、彼は本当に結婚してしまった。
その話を聞いたわたしは、気落ちし、一週間、ふさぎ込んだのだった。

親しくもない、碌に話した事も無い男性を相手に、熱を出し、寝込むなんて…

今思えば笑ってしまうだろう、少女にありがちの、錯覚、思い込みだ。
恋に恋をしていたのだ。

だが、あの時の、胸が沸き立つ様なときめき、全てが薔薇色に染まる瞬間を、
わたしはあれ以来、感じた事が無かった。


そう、この瞬間まで…


ああ、全く変わっていないわ…!
あの頃のまま、輝いている…

彼が結婚したと聞き、わたしは彼に会わない様にと避けていた。
彼の噂も耳に入れない様にして来た。
一目でも見てしまえば、名を聞くだけでも、想いが蘇ってしまうと分かっていたからだ。

その通りで、わたしはまたもや、彼に見惚れてしまっていた___


「ラックローレン伯爵よ!」
「まぁ!こんな所で会えるなんて!」
「昨年離婚されたでしょう…」
「お気の毒にね…」

離婚された!?

周囲の夫人たちの声に、わたしは反応してしまった。
彼が離婚をするなど、思ってもみなかったのだ。
尤も、彼が結婚していても、していなくても、わたしに望みなど無いのだけど…

男爵令嬢であった時でさえ、わたしには手の届かない人だった。
今のわたしなど、論外だ。
わたしは自分の姿を見下ろし、踵を返した。

こんな姿、彼には見られたく無い___!

わたしは客の間を縫う様にして歩き、飲み物を取って貰うと、引き上げた。


ラックローレン伯爵、レオナールはあまりパーティには顔を出さない。
特に、離婚をしてからは少なくなっていた様だ。
そんな事もあってか、大勢の者たちが彼と話そうと、囲んでいた。

わたしは彼を意識しつつも、なるべく離れた場所に身を置いた。
尤も、他のメイドたちが、レオナールの存在を意識し、飲み物や食べ物を持って
近付こうとしているので、わたしがそこを避けるのは簡単だった。

彼にはこの姿を見られたくない。

だけど、彼の事は気になる___

「馬鹿ね…」

自分に笑ってしまう。

あんな雲の上の人に、いつまでも憧れているなんて…
婚約者が居た時には忘れていられたが、ジェロームとも終わってしまった。
わたしは十年、この館に勤めなくてはならない、まともな結婚など望めないだろう。

だったら、想っていてもいい筈…
想うだけだもの…
ただ、見つめるだけでいい…


「ルイーズ嬢による、ピアノの演奏です!」

その合図で、皆が立派な黒塗りのピアノの元へ集まった。
ルイーズは得意気にカーテシーをすると、ピアノの椅子に座り、鍵盤に向かった。
白く美しい腕を見せ付けるかの様に、伸ばし、指を鍵盤に下ろした。

力強く美しいピアノの音色…

ルイーズは長く習っているのだろう、素晴らしい指捌きで、
見事に難曲を弾いてみせたのだった。

「これは素晴らしい!」
「噂には聞いていたが、いや、感服しましたぞ!」
「まぁ、お上手ですわね!」
「お美しいだけでなく、ピアノもこれ程弾けるなんて!」
「貴族のご令嬢と変わりありませんわね!」

誰かが言った事で、ルイーズの目がキラリと光った。

「貴族令嬢のピアノも聴いてみたいと思いませんか?
元貴族令嬢で良ければ、ですが___」

ルイーズの仄めかしに気付き、周囲は失笑した。

「それはいい!是非、聴かせて貰いたいものだ!」
「よーし、上手く弾けたら、幾らかあげよう!」

冗談だろうが、周囲は声を上げて笑った。
これでは、物乞いか売女の様だ___
わたしは羞恥で顔を赤くし、ぶるぶると震えていた。
だが、ルイーズは許さなかった。

「セリア!早く来なさい!お客様がお待ちよ!」

メイドの一人がわたしの手からトレイを取り、「早く行きなさいよ!」と背を押した。
わたしはよろめきつつ、ルイーズの方へと向かった。

「セリア、お客様に挨拶をなさい」

ルイーズは意地の悪い笑みを浮かべて、わたしに命じた。
わたしは客の方に体を向けた。
皆が注目しているのが分かり、恥ずかしく顔を上げられなかった。

「一曲、弾かせて頂きます…」

わたしは椅子に座り、鍵盤に向かった。
恥ずかしく、こんな所ではとても集中して弾く事は出来ない___
そう思っていたが、指を乗せた瞬間に、わたしは周囲の事など忘れていた。

久しぶりに触れた感触に、喜びが溢れた。

自然に指が動き、メロディを奏でる。
家で弾いていた時と同じ様に…

ガタン!!

大きな音がし、わたしは驚きに指を止めていた。
周囲も、わたしが演奏を止めた事よりも、音の方が気になった様だ。

「ラックローレン伯爵!」
「まぁ!どうなさいましたの!?」

その名に、わたしは思わず椅子から立ち上がっていた。
そこには、床に片膝を着き、額を押さえている彼の姿があった。

「!?」

わたしは駆けつけたかったが、勿論、それは叶わず、
代わりに周囲の者たちが声を掛けていた。

「伯爵、医師を呼びましょうか?」
「ご病気ではありませんか?」
「いえ、心配には及びません、少し、眩暈がしただけです…」

彼は起き上がると、普段の口調で周囲に話していた。

大丈夫そうだけど…
眩暈なんて…
ご病気ではないのかしら…

心配で見つめていると、不意に、彼の顔がわたしに向けられた。
その緑灰色の目に射抜かれる___

「!?」

目が合った___!

ドクリと心臓が音を立て、顔がカッと赤くなる。
わたしは彼を見つめたまま、動けなくなっていた。

「セリア、さっさと仕事に戻りなさい!それとも、称賛の声を待っているの?
言われたからって、図々しく出て来るんじゃないわ!
今度、その汚い手で、私のピアノに触れてみなさい、
あんたを酷い目に遭わせてやるんだから!!」

わたしはルイーズに追い立てられる様にし、その場から離れた。

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